第五節 太平洋戦争の敗戦とその後

一、占領下の日本

 ポツダム宣言受諾が発表された昭和20年(1945)8月15日鈴木内閣は総辞職し、かわって東久邇宮内閣が終戦の処理にあたることとなった。
 すなわち正式調印準備のため参謀次長河辺虎四部を団長とする使節団がマニラに派遣されて、連合軍の進駐と降伏文書調印に関する打合わせが行なわれ、8月28日には占領軍の先遣隊が厚木航空基地に到着した。
 さらに30日には、連合軍最高司令官マッカーサー元師も到着して日本占領に関する所要の措置が執られていった。
 そして9月2日東京湾に入港していた戦艦ミズリー号において、マッカーサー最高司令官ならびに連合国各国代表者と、日本側重光・梅津両全権とのあいだに降伏文書調印が行なわれて日本は正式に占領下におかれることとなり、これからの日本は新たな苦難の道を歩むこととなったのである。
 当初連合国は、日本を軍政による直接統治によって占領政策を行なう考えであったが、日本政府の必死の交渉によってこれを阻止し、その結果として日本政府を通じて占領政策を行なういわゆる間接統治に決まったのである。
 まず700万人以上にのぼる海外からの復員および引揚げ者であるが、ソ連の参戦によってソ連地区および満州では夥(おびただ)しい人員が捕虜として抑留され、その他のものも輸送事情などのためにおくれ、また、華北など中共勢力の強い地区も極めて複雑な状況を示したのであるが、その他の地区はおおむね順調に行なわれ昭和21年の8月乃至10月にはほとんど完了した。
 マ元師は東京丸の内に総司令部を設置すると、9月22日に発表された「日本管理政策」にもとづいて着々占領政策をおし進めていったのであるが、その主なるものとしては、
1、武装解除ならびに軍国主義の抹殺(まっさつ)
2、戦争犯罪人の指名と処刑
3、個人の自由および民主主義の助長
4、経済上の非軍事化
5、労働、産業および農業における民主主義的勢力の助長
6、平和的経済活動の再開
7、侵略財産の賠償
8、在外資産の処分および返還
 などであり、具体的には、10月4日次のような内容をもつ「政治的自由の制限除去に関する覚書」が発せられこれを契機として東久邇宮内閣は10月5日総辞職した。
第1、治安維持法や治安警察法など自由の制限に関する一切の法令の撤廃
第2、内務省警保局と府県特高課の廃止
第3、内務大臣、警保局長、警視総監、府県警察部長から特高課長にいたるまで総数5千名近い要員の一斉罷免
 このあとをうけて、戦前のワシントン会議以来の英米協調派であった幣原喜重郎内閣が成立した。
 この新内閣に対して総司令部はさらに次のような社会改革の即時実行を要求してきた。
1、婦人参政権による日本女性の解放
2、労働組合の結成奨励
3、学校教育の自由化
4、秘密訊問ならびに民権を制限する制度の撤廃
5、経済諸機関の民主化
 以上の5項目はいわゆる民主化5大政策といわれるもので最も重要視されるものであったが、当時国内は食糧危機で国民全部が飢えと闘い、また悪性インフレで国民生活は極度に安定を欠き、ために政府は昭和21年2月17日「食糧緊(きん)急措置令」を発布し、農家に対して主食の供出割当を完納しないものは収用令を適用して差押え、強制買い上げを強行した。
 またインフレ対策としては「金融緊急措置令」を発し、いわゆる新円切替を行なって通貨の流通量を抑えた。
 すなわち、新しい紙幣を発行し、1人につき100円だけ旧紙幣と交換し、その他の国民のもっている旧紙幣をすべて強制的に郵便局や銀行に預金させ、その引出しを1か月に世帯主300円、その他の世帯員1人につき100円以内に制限した。
 このような非常措置も戦争によってすべてのものが破壊し尽くされたなかで需要と供給の均衡が極度に失なわれた日本においては、期待された効果も示さず、政府もこのような困難な問題に苦しんでいたときであったから、前記のような要求をいかに実行するかについて大いに苦慮しながらも、絶対的権力をもつ総司令部の要求は急速に具現化されていった。
 すなわち、11月下旬より12月中旬にかけての第89帝国議会に農地調整法改正、労働組合法、選挙法改正が提出され翌21年4月10日には婦人参政権、選挙権および被選挙権年齢も引下げた新しい制度による選挙が行なわれた。
 その結果鳩山一郎の率いる自由党が第1党となったが、5月3日総司令部は鳩山一郎を公職から追放したため幣原内閣の外相であった吉田茂が組閣した。
 このようななかで家族制度、地主制度、地方制度、官僚制度、教育制度、雇用制度などの非民主的な旧制度が次々に改革されていくのである。
 これらは元来憲法の改正を必要とするのであるが、それ以前にすでに農地改革や労使関係の民主化がとりあげられていった。
 農地改革は封建的な地主、小作関係を打破して健全な自作農を育成するためのもので農村の民主化にとって最も重要なものであった。
 そしてこの大事業は主として地主3、自作2、小作5の割合で構成する市町村農地委員会の手によって進められた。
 この結果終戦時全農家戸数の48.5パーセントを占めていた自小作・小作農が30.7パーセントとなり、純小作農は28.7パーセントから5.1パーセントに減少し、自作農は32.8パーセントから61.9パーセントとのびた。
 また、最高小作料率も、田は総収穫米代金の25パーセント以下、畑は主作物の代金の15パーセント以下とし、いずれも金納とするなどであった。
 労働関係では労働組合法が制定されて労働者の組合結成の自由が保障され、団体交渉権、争議権が認められ、ついで労働争議を中心とする労使関係を規定する労働関係調整法、および労働時間その他、労働条件を規定する労働基準法などいわゆる労働3法の制定実施、労働省の設置など日本の民主化はまずこの方面から急速に進んでいった。
 昭和21年11月3日には新憲法が公布され、翌22年5月3日施行になり、また公務員制度、家族制度、教育制度も相次いで改革された。
 このような各種制度の民主化と併行して非軍事化の方は武装解除をはじめ戦争責任者としての戦争犯罪人の処刑と戦争協力者の公職からの追放が行なわれた。
 すなわち、東条英機元首相ら27名が極東国際軍事裁判にかけられて処刑されたのをはじめとして、多数の軍人やこれらに関係したものが処刑され、また、大政翼賛会、大日本政治会、翼賛政治会などの要職にあった者も追放令によって公職を追放され、旧軍人の追放者を加えるとその数は中央、地方をあわせて、数万名に達したといわれている。
 非軍事化と諸制度の民主化が進むなかで企業を中心とする産業界もまた大きな変革をとげていった。
 三井・三菱・住友・安田のいわゆる4大財閥の解体ならびに幹部の追放にはじまり昭和22年7月に独占禁止法が実施され、同年12月には過度経済力集中排除法も国会を通過して、戦前戦中を通じて日本経済において支配的地位を占めていた財閥や大企業は、持株会社整理委員会の手によって整理され、新たに民主的企業体として再建整備されていった。
 新憲法の施行を目前にした昭和22年4月25日総選挙が行なわれてその結果、日本社会党が第1党となり、社会・民主・国協の3党連立による片山内閣が成立した。
 社会主義政策を旗印とする片山内閣は、国民からも大いに期待されたのであるが、占領下という特殊事情と戦後の混乱のなかで必ずしも公約どおりの政策が行なわれず、わずか9か月たらずで総辞職し芦田内閣がこれに代った。
 新内閣は猛威を振うインフレを抑えて経済の復興をはかり、ひいては激化する労働運動を抑圧することを最大の目標とした。
 たまたま来朝中の米国陸軍次官ドレーパー使節団の発表した、いわゆるドレーパー報告もあって、経済安定のための10原則を発表して意欲を示したのであるが、昭和電工疑獄事件をきっかけとしてわずか7か月で倒壊してしまった。
 昭和23年10月19日吉田第2次内閣が発足し、これより以後6か年5次にわたる吉田内閣の時代がはじまることとなった。
 第2次吉田内閣の当面する最大の課題は、官公労争議とインフレを収束して経済の安定をはかることであった。
 なかでも12月18日米国政府が総司令部を通じて指令した「経済9原則」の実行については、ドッジ公使の指導によるいわゆるドッジラインといわれる昭和24年度超均衡予算が編成されるなどして、インフレの抑圧に重点がおかれた。 
 翌24年1月には総選挙が行なわれ、民主自由党が264名の絶体多数を占めて、第3次吉田内閣が発足した。
 強力な基盤に立つ新内閣は経済9原則にもとづく緊縮政策を推進したためインフレはある程度抑えられたが、反面財政の引締めによる不況をよび、中小企業の倒産、労働者の首切り、また、国鉄の大量首切りをはじめ官公庁、公共企業体でも大幅な人員整理が行なわれた。
 そして、このようななかで下山事件、三鷹事件、松川事件など国鉄に関する一連の大事件が相次いで発生したのである。
 しかし、日本の経済はこれを契機として復興の転機をつかみ、ようやく自立の方向へと進んでいったのである。
 たまたま、昭和25年6月25日突如として朝鮮戦争が勃(ぼっ)発し、この戦争による特需は、日本経済の復興にとって大きな役割を果たすこととなったのである。
 第二次世界大戦後の米、ソはことごとに対立し、対日講和方式についても考えをことにするなど、対立が深まっていった。
 この頃、中華人民解放軍は、国民政府を台湾へ駆逐して中国全土を中共の支配下に収め昭和25年2月14日ソ連との間に中ソ友好同盟相互援助条約を結んだ。そして、この年の6月朝鮮戦争が勃発するに及んで米国は早期対日講和の方針をかため、ダレス特使を中心に日本政府との交渉が急速に進められていった。

二、講和条約の締結

 国内においては全面講和か、単独講和かで政府と野党間、また学者や知識人の間で活発な論議が闘わされたが、米ソ2大陣営の対立、中共義勇軍の朝鮮戦争参加などの国際情勢、また、特需ブームの影響などもあって日本は急速に単独早期講和に傾いていった。
 昭和26年9月4日サンフランシスコのオペラハウスにおいて平和条約調印会議が開かれ、日本は吉田首相を首席全権とする6名の全権団がこれに出席して、9月8日48ヵ国との間に調印が行なわれたが、ソ連、ポーランド、チェコの3ヵ国はこれを拒否した。
 また、インド、ビルマ、ユーゴは会議に不参加を表明した。
 戦後6年にしてようやく日本は世界主要国との間に講和を締結したのであるが、その背景には以上のような国際間の複雑な事情をはらんでいたのである。
 さらに、この講和条約と同時に日米安全保障条約が締結されたのである。
 この条約は、国連憲章に関連をもつものであるが、朝鮮戦争が行なわれているなかで平和条約が締結されるという当時の特殊な状況下で、安保条約は対日講和の条件として締結されたものであった。
 昭和26年10月10日両条約批准のための国会が開かれ翌27年4月28日発効となった。
 これによって日本は6年ぶりにはじめて念願の独立を回復し、主権国家として再出発することとなったのである。

三、独立後の日本

 独立を回復し、占領統治を脱した日本は、その後保守、革新の対立によって混乱の時代が続いた。
 対立の直接の原因はいうまでもなく全面講和でなかったことと、日米安全保障体制にあったのであるが、保守の反共、革新の反米の色は次第に強まっていったのである。
 政府は破壊活動防止法の制定をはじめとして、労働関係諸法令の改正を行なうなどして、労働組合や全学連の攻勢に備え、また、防衛2法の制定、MSA協定などによって自衛隊がつくられていった。
 これに対して、労働者をはじめ学生、文化人などは挙(こぞ)って反対し、総評などを中心とするゼネストをもってこれに対抗した。
 そして27年5月1日の血のメーデーや、内灘(なだ)、砂川の基地闘争など果てしない対立に発展していったのである。
 このようななかで、占領期から講和、独立の時期にいたる10年の長きにわたって、戦後日本の政治を担当してその数5度におよんだ吉田内閣はついに昭和29年12月7日終りをつげ、鳩山内閣がこれに代ったのである。
 終戦直後の廃虚と欠乏、悪性インフレの時期からドッジ・ラインによって安定復興への転機をつかみ、その間混乱裡に進行した非軍事化、民主化、あるいは憲法制定をはじめとする諸制度の改革、アジアの冷戦に備える占領政策の転換、朝鮮戦争の勃発を契機をする講和条約の成立、サンフランシスコ体制下の独立をめぐる保守、革新の対立闘争など、新生日本の前途は果てしなく険しいものがあった。
 しかし、このような苦難のなかにも民主主義は確実に根をおろし、やがての成長の基礎ともなったのである。
 そしてまた、民主政治を推進し、近代国家建設の担(にな)い手として地方自治体たる市町村の果たす役割は、益々重要なものとなっていった。
 国は全国町村の規模を適正化して行政の効率を高めることを目的として町村合併促進法を制定し昭和28年10月1日施行した。
 この法律の施行を契機として全国的に町村合併の機運が盛り上っていったのであるが、本町においても明治7年以来80年の歴史をもつ下山村・身延町・豊岡村および西八代郡大河内村が合併し、昭和30年2月11日身延町として発足したのである。