
金の採取の方法は、鉱脈中に含まれた金鉱石を採掘し、粉砕道具を使って鉱石を微粉化し、単体となった「山金」を採取する方法と、鉱石の風化や侵食などによって生じた金が沢に流れ着き、砂金として存在する「川金」を採取する方法と、また、その川金が河岸段丘に堆積した砂金、それは川金とは分けて「柴金」と呼ばれているものを採取する方法との3つに分けることができる。
砂金を採取する技術は、当初、川底の砂を比重選鉱することによって金を取り出す簡単な方法であったと思われるが、時代が進んでいくに従って、川底からの砂金採取から河岸に堆積した土砂などからの砂金採取へと移り変わりを見せていく。
地表面に砂金を含む赤色を帯びた礫土を見つけ出したら、その地表のすぐ下を水が流れるように、付近の川を利用したり、新たな水路を作るなどして、貯水池や砂金の流し場を築き、その流し場の少し下流には堰をいくつか作る。
次に流し場に礫土を割り崩して川底にばらまき、その中の大きな石を取り除いた後に貯水池を開き、堰き止めていた水を勢いよく流すと、礫土はほとんど流れていき、砂金の含まれている細かい土砂は、堰に溜まる。その作業を何度も繰り返し、堰内に砂金を溜めていき、溜まった砂金は「ネコダ」という藁を編んだ敷物によって採取する。
まず、堰内に緩やかに水を流す。ネコダを堰内に敷き、そこに溜まった砂金の含まれている土砂を「カッチャ」(カッサ)で掬って、ネコダの上にかき集めるが、そのとき、ネコダが流されていかないように足で踏んでおく。
土砂は比重が軽いため、おおよそが水に流されてしまうが、砂金は比重が重いため、ネコダの網目に引っかかる。その後、ネコダから汰り板に移し変えて、水の中で汰り分けて砂金だけ採取する。
この方法で採取しても、いくらか取り残しが生じるが、この砂金も、再度ネコダによって採取される。
まず堰内の水流を弱め、礫土を取り崩した付近に残っている砂金含みの土砂を残らず集める。その少し下流にネコダを何枚も並べ、両脇を石で固定しておき水を勢いよく流すと集めた土砂は水流に押されてネコダの上を通過し、砂金を含んだ細かい砂はネコダに引っ掛かる。引っ掛かった砂金は、前述したものと同様汰り板に移し変え、汰り分けられる。
鉱山での初期採掘方法は露天掘りから開発された。酸化して金の品位の高くなった地表に近い鉱脈を中心に採鉱された。
金や銀を産出する鉱山で鉱石を採掘することを金掘といい、また、はく堀とも呼ばれていた。砂金採取から山金の採掘へと発達した初期のころは、当然のように表土に近い酸化した鉱脈が盛んに採掘された。
現在、戦国時代に端を発する鉱山遺跡にしばしば見受けられる露天掘り後はこうした山金開発における初期の採鉱の痕跡であり、甲斐武田氏支配領域内の諸金山をはじめ全国の金・銀山の初期採掘場所にその名残をとどめている。
下部町にある国史跡中山金山をはじめ内山金山などのとくに尾根付近にはこうした露天掘り跡が集中して存在しており、初期の採鉱形態をみごとに伝えている。また、山梨県塩山市の牛王院平金山や長野県の茅野市の金鶏金山には無数とも思われる露天掘り後が点在しており、産金の活発な様相を窺うことができる。
露天掘りは山金採掘にかぎらない。柴金と呼ばれた河岸段丘上に埋蔵されている砂金などもこの方法によって採掘されており広く応用されていた。遠くは北海道の道南のかつての松前藩領内にある砂金採掘跡や東北地方における南部藩領内の諸金山、近くは駿河今川氏領内の安倍・井川の諸金山などでかなり大掛かりに行われており、その痕跡が今でも存続している。こうした産金活動も中世の早い段階から近世全般を通じて広範に展開されていたらしい。
こうした鉱脈が枯渇するにしたがって次第に深い地中に埋蔵されている鉱脈が追い求められ、やがてこのような採掘方法から、技術革新によって鉱脈を追いかける「ひ押し掘り」そして本格的な「坑道掘り」へと発展し、我が国の鉱山産業は世界有数の地位を獲得していった。