第三章 生活のあらまし和名抄に「川合郷(割石峠、柳川以南)」の名が見え、その地が甚だ漠(ばく)然としていることは、中心となる集落がなかったためではなかろうか。また甲斐叢記の河内領の項に「富士川を隔てて、東西2領とす西河内は総て巨摩郡に属き、下山庄、南部御牧、飯野御牧、早川入、中山等是に属き乃ち河内路なり。東河内は皆八代に係り、岩間庄(岩間・古関・常葉・田原・帯金・大島)下部是に隷けり。此地本州の南へ差出たる処にて山長く ![]() 身延町の模様は、縄文中期の出土品があるにしてもおそらく、甲府盆地の集落発生過程とは、自然的条件に遮(さえぎ)られておくれ平安末期から中世の初に至って、集落をみ、南部氏による牧の開発、下山氏、帯金氏等の小豪族の在地経営が、身延の町の草創時代といえよう。 日蓮聖人の御遺文「松野殿御返事」に「上略抑々此の山と申すは南は野山漫々として百余里に及べり、北は身延山高く峙て白根が嶽につづき西は七面山と申す山峨々として白雪絶えず、人の住家一宇なし、適間くる物とては梢を伝ふ猿猴なれば 下略」とあって鎌倉時代初期の身延の姿を写し出している。 穴山氏が武田氏再支配のもとに、河内を経営開発して、下山が戦略上、経済上河内の交通の要衝となって、南部の新宿として発展し、江戸時代本陣の所在地、街道1の宿場、下山千軒と呼ばれて繁栄をつづけた。また日蓮聖人入山以来、仏の加護を願う権力者や全国からの参拝者に賑わった駿州街道(身延街道)の発達と慶長12年(1607)にはじまる川丈18里(72キロメートル)を5時間で下った富士川通船は、御回米の川下げが第1であり、公用交通と商業物資の運輸、一般旅人の舟とがあって、塩魚・砂糖・綿糸綿布等が入り、米・木炭・木材をつけ出した舟運は、河内領民の生活に大きな影響を与えた。 領民の日常生活は、天文16年(1547)信玄制定の甲州法度五十五ヵ条、同22年追加2ヵ条、永禄元年(1558)信玄家法九十九ヵ条の信玄式目がなって、甲州の諸法制、社会秩序、倫理綱領(道徳規範)が示された。徳川氏はこの遺法を継承しながら、秀吉の布いた五人組制を復活して、浪人無法者の取締まりに、キリシタン禁制に活用し掟書を定めて、宗門改めを厳重にした。 寛文4年(1664)以降は年毎に覚書を、村々から出させている。前述したように町内に数多く御法度書・御条目・五人組御仕置帳となって残っている。また、相又村には若者組の記録があって、覚書の内容に添って、名主、組頭に若者としての在り方を誓っている。 五人組の制度は、組内相互検察、相互扶助、連帯保証を主旨として、名主・長百姓・組頭に警察・租税・勧農・戸籍・逓送を自治的責任を持たせ、領民の日常生活を厳重に規制したもので、明治6年(1873)伍組編成法が公布になるまでつづいた。 町誌資料として集めた沢山の村人の生活の記録ともいえる古文書の中から特に目につくものを2、3拾ってみよう。 その1つに、売渡し証文、借用証文、借地年季証文が非常に多い。これは租税完納不能のため、連帯責任上、代納してくれた相手に、田畑を質入して来年の収穫を返済に充てたものや遂には田畑を手ばなした証文である。耕地の狭少な上に、年々歳々水害にあい、作付不能、山続きの耕地のため、猪・鹿・猿の被害も甚大であり、幼稚な営農技術によることもさることながら、「乍恐以書中奉願上候」の納米軽減、免除の歎願書が名主以下三役の名で毎年のように、市川代官に出されているのをみても、いかに農民が租税のために苦しんだかを実証している。 納税を困難にした原因の1つに水害がある。川除普請(水害復旧工事)と用水堰の出役の記録が下山、相又、角打、和田の村々に多い。生きることに直接つながる苦難の年中行事となっていたようである。 次に下山宿からの大助郷人足割当が繁く、東河内19ヵ村の村々が、生活を圧迫されて、稼業が成り立ぬための紛争が、長く続いている。その原因は、割当人足1人に対して3人を割当てたことによるもので、その都度下山宿と交渉したが、長年に亘って聞き入れられず、遂に安政2年(1855)東河内19ヵ村が団結して、3メートルに及ぶ長文の訴願文を村名を列記し、波高島村丈右衛門、市之瀬村重郎左衛門、上八木沢村清右衛門の各長百姓が代表者となって、市川役所に訴えている。 これは、駿府御目付役の通行、武家や其の他一般人の身延山参詣の通行が多いため、割当が度重ったからである。粟倉村の「粟倉村下山宿定助郷伝馬渡日帳」の寛文9年(1669)より10年間の記録をみると、人足2人、馬2疋で年間平均90日から100日勤めている。下山宿繁栄の陰に、その助郷課役に耐え切れなかった村々の姿である。 このように苦しい生活の中から、農閑期を利用しての出稼ぎ、副業が必然的に生れて来たのである。山畑を開墾して三椏の栽培による現金収入、それを原料としての紙漉がそれである。豊岡、大河内地区から、紙漉運上(税金)取り立てに関する文書が多くある。 また、三椏売買について、生産者と紙漉業者(市川大門、西島)との利害関係から起った紛争は文化11年(1814)河内83ヵ村に及んでいる。 この紛争の箱訴の文書に本町関係では、下山村名主太兵衛、相又村名主栄助、大島村長百姓文兵衛、和田村名主重郎右衛門の名がみえている。 富士川の舟乗り、筏師稼業も重要な現金収入の途であった。 明治6年(1873)の「船頭連名帳」に82人の中本町関係の船主が、八木沢11人、帯金13人、波木井9人、大島4人計37人みえている。舟1艘に船頭1人、半乗2人、小船頭1人が乗るので、少なくとも150人近い人が舟乗りをしていたことになる。古老の話をきくと、明治30年頃(1897頃)は角打にも10艘近い船主がおった。というから、河内地方は作間には男という男は舟乗り稼業をしたのだろう。此の稼業も身延線の開通で、終止符が打たれた。 そうした中で、特筆に値するものは、下山を中心とした作間大工である。 宝暦6年(1756)竹下幸内、石川久左衛門の訴状によると、弟子を除いて大工の人数凡そ140−150人で、文政6年(1823)の職業出入の訴状の「大工仲間人別帳」によると、下山大工308人とある。「甲斐国志村里部」文化11年(1814)に下山男831人とあるからみれば、下山成人男子の80パーセント以上を占めていることになる。この大工仲間の棟梁が、甲斐三郡の棟梁となり、役引大工となって、勢力を張り、甲斐の寺社の建築はもとより、国内の主要建築をほとんど手がけて今に名を残している。 また、国内のみでなく、慶長19年(1614)富士宮の浅間神社の楼門を下山の清助が、宝永元年(1704)には江戸の芝白銀御殿(徳川家宣)を下山の石川五左衛門が建てている。おそらく、日興上人と関係のある下山大工が、富士郡上野郷の大石寺、その他の寺をも建てたのではなかろうか。下山の、いや河内の作間大工の発展は、想像に余りあるものがある。 明治4年(1871)廃藩置県によって、江戸から明治へ、甲斐から山梨へと歴史は流れて、明治6年藤村県令着任以来15年の県政は、県民生活を一新して、文明開花の波が国中(くになか)には漲(みなぎ)ったが、産業資源に乏しい河内の地には、遅々として及ばず、狭い痩地を耕し、災害と戦う苦しい生活は、なお長く続いた。 明治36年(1903)中央線開通にもまして、大正9年(1920)5月18日、富士身延線身延駅の開業、昭和3年(1928)の身延、甲府間開通は、鎖(とざ)された峡南地方に、教育・文化・経済・産業を一新して、地方民の生活に大きな希望と光明を与えた。 こころみに、大正から昭和へかけての身延町の変化というか、動きをみてみよう。 大正2年(1913) 身延門内に電灯がつく 大正2年 小林銀行身延支店開業 大正3年 人力車、馬車出現 大正9年 身延土産店開店 大正11年 大野トンネル開通 大正12年 身延橋竣工 大正12年 県立身延中学校開校 大正12年 教報社書店開業 大正12年 身延印刷所開業 大正12年 飛行艇就航 大正13年 電話開通 大正14年 身延自動車株式会社開業 大正14年 高等馬車あらわれる 大正15年 身延鰍沢間バス運行 昭和2年(1927) 富士身延線電化となる 昭和3年 身延実科高等女学校開校 昭和11年 ラジオ161世帯聴取 以上のような動きの中に、製材業、運送業などが興り、身延駅前通り、身延高等学校前通り(梅平二区)が生れるなど近代化の道をたどり、生活環境も急激に変化して、現代生活の基盤がつくられたのである。 この近代化は、社会情勢の赴くところとはいえ、身延線の開通があずかって、促進していることは確かである。 車の走りつづける国道52号線は何をもたらすだろう。新しい動脈として、産業経済の発展、生活圏の拡大をもたらすことをねがっている。 |