第二章 身延町の歴史の流れ太古甲府盆地は漫々と水をたたえた一大湖水であったとか、富士川の渓谷をとりまく山々は、海底火山の大爆発によってできたといわれる甲斐の地に、われわれの祖先は、いつの頃から、どのような生活をしたのだろうか。考古学の上では、その遺跡・石器・土器・その他の出土品の研究によって、各説があるが、次のように分けている。 1、石器(無土器、先土器)時代 7・8千年ないし1万年位前からさらにそれ以前の時代。笛吹川の沿岸の、曽根丘陵、八ッ岳山麓等から石斧・石棒・石鏃等が出土している。 2、縄文式時代 およそ8千年前頃に始まる。八ッ岳・大菩薩山・曽根丘陵・ ![]() 3、弥生式時代 短い期間で土器の型からみて数百年間といわれている。高地から低地に広がり、曽根丘陵一帯からその低地、または河川の流域、扇状地の農耕に適した笛吹川、荒川沿いの甲府盆地にまでおよび、土器に鉄器、銅器をまじえて出土し、三珠町などからは多量に炭化した米粒さえ発見されている。 この時代が、日本人が農耕によって米食をはじめ、大陸からの文化を受け入れ、生産経済生活を営んで、集落を構成する基をつくった時代といわれている。 4、古墳(土師(はじ))時代 3世紀から4世紀頃に、応神陵・仁徳陵が作られ、大和・畿内に古墳が興隆しているが本県に影響を及ぼしたのは、半世紀位おくれているのではないか。 古墳は、王家・地方豪族・集落の首長等の墓として造られ、豊富な副葬品を伴っており、竪穴住居跡の発見とともに多くの土師器や、種々の果物の種子が出土している。 その遺跡は、弥生文化の栄えた地域である。曽根丘陵や甲府盆地の低部の沖積地に数多く発見されていて、中でも、豊富村の狐塚から出土した鏡(大陸製)は有名である。 住居跡からは、米・柿・くるみ等の炭化したものが、見出されている。 ひるがえって、身延町の先史時代の文化をみよう。そのためには、富士川沿岸とその流域の遺跡、遺物の分布状況を眺めることが大切である。 この地域は、山地性で谷が深く、山地が河岸に迫る狭い段丘、または、その山腹にわずかに耕地が存在する程度であることから、その分布も県内でも最も少ない地域であり、考古学上は未開発の地方とされている。 この峡南地方は、昭和時代に入って、はじめて南部町本郷原間から、土器が発見されたのを機縁に、南部町・富沢町・下部町等の200メートル程度の高度の台地性山腹の数ヵ所から、石鏃・石錘・石斧・石皿・石棒・土器の一部が発見されているに過ぎない。 身延町の状況は、身延地区寺平・豊岡地区大久保・清子丸山から石器と土器の破片が発見されているだけであるが、夏草道中身延講座で来身した講師の考察によると、これらの土器は縄文中期の土器とのことである。なお大河内地区桜井からも石器と土器がわずかではあるが発見されている。 先史時代にこの身延町にも、先住民族が居住した事実は、数少ない出土品とはいえ、動かし難い事実であるが、未だ住居趾、古墳等が発見されていないので、その究明は、後に期したい。 弥生式時代、古墳時代に、近畿地方では、国家統一の業が進められ、内には律令の制定によって、諸国に国司を置いてその支配下に収め、外には三韓・隋・唐と交通して、大陸の文物、制度をとり入れ、併せて仏教の伝来により、奈良、平安の文化の華を咲かせている。 日本武尊が東征の途次、酒折の宮に立ち寄られて、片歌を唱和した翁を賞して、東国造を賜わり、次いで景行天皇が巡幸されて、武田王子を淳川に封じて、甲斐の統治に備えたという古事記の記録は別としても、甲斐国が奈良、平安朝の頃から中央政庁と往来がもたれたことは「天武即位前紀」に見えており、「延喜式」には甲斐の山梨から、青梨五担を貢進したことの記録をみてもわかる。 大宝元年(701)大宝律令が制定されて、甲斐国は上国に編入された。「続日本紀」に「天平3年(731)12月甲斐国守田辺史広足、神馬を献す」とある。 この時代まで下って来ると集落が発生して、中央政庁の租税対象にされるまでに、甲斐の国もなっていたのである。このようにして、地方豪族が出現し、東国に勢力を得た清和源氏の一流である源頼信が甲斐守となり、つづいて新羅三郎義光が国守となるに及んで、その子義清が青島荘(市川大門町)(※資料編P30〜32参照)の下司(げす)職として赴任してきたのが、平安朝末期の律令制度の崩壊期である。 義清が甲斐に留まって、この子孫が甲斐源氏として栄える。 義清の子清光は10余人の子を甲斐の各地に配し、牧の経営を基盤にして、勢力を伸ばす。 中でも次子信義は、武田荘武田に住んで、武田を称して武田氏の祖となり、三男遠光、加賀美荘(若草町)を占めて、加賀美氏という。 その一族が河内に分拠し、身延を含めて河内地方の歴史の第一頁がはじまるのである。 遠光の長男光朝(秋山氏)より下山氏、常葉氏が分れ、また、帯金氏もその支流といわれる。 三男光行が南部に居して、南部氏となり、その子実長は、飯野の御牧(大野・相又・波木井)3ヵ郷を領して波木井南部氏の祖となる。 このように河内に勢力を張った加賀美氏の支族が、甲斐源氏の一族とともに、挙って源頼朝に協力して源平の戦に功名を馳せ、鎌倉幕府創建の一翼を担って甲斐源氏の声名を高くしている。 波木井公南部実長は、父光行とともに鎌倉幕府に仕え、永仁5年(1297)没したが、その子孫は代々波木井郷を本拠として南朝に味方し、義軍に参加して誠忠を尽すこと200年、八代政光は奥羽の八戸に移ったが、その事績はゆかりを持つ身延の誇りといえる。 波木井氏の一族は、この地身延に根をおろして、杉山殿・原殿・宮原殿・西谷殿・小田殿・船原殿・その外身延山の法灯を継いだ記録が見える。 中央では南北朝合一し、足利幕府が確立して、甲斐国も勢力交替期か。武田氏の勃興とともに、南部氏が奥羽に去って、武田の支流穴山氏が代って居を南部に占めた。 穴山信友は河内の中央下山に移り、その子信君(梅雪)と2代にわたって、武田氏支配の下に、在地の豪族を被官化して河内一円を手中に収めた。父子ともに、殖産興業につとめ、寺社を建立して、民心を掌握し、開発に専念、分国的支配をして繁栄を極めた。 穴山信友父子は、武田信虎、晴信(信玄)父子の親族(信友夫人は、信玄の姉、信君夫人は信玄の娘)として、武田氏の柱石となって、勢威を振ったが、天正10年(1582)3月、勝頼が織田徳川の連合軍に敗れ、田野に自刃して武田氏滅亡の年の6月、宇治の田原で信君は不慮の死を遂げ、その子勝千代また天正15年、16歳で没して、その後を絶った。 このようにして中世戦国の世に、身延を中心とする諸豪族の栄枯の歴史が繰りひろげられた記録の古文書が、数多く町内各所に残っている。 また、波木井公実長は、鎌倉幕府出仕の折、日蓮聖人に深く帰依して、聖人入山の機縁となり、文永11年(1274)5月聖人を迎えて、草深い身延の谷に教化の法灯がともりはじめて700年。身延山の歴史は、身延の町の歴史とともに織りなされてきたのである。 武田氏滅亡後の甲斐の支配をたどると、織田・豊臣氏によって支配されたが、いずれも短かい年月で、慶長以降徳川氏の所領として、格別に重視された。 天正10年(1582)3月11日武田氏を滅した信長は、駿河を家康に与え、甲府に河尻秀隆と武田氏の遺臣穴山梅雪を配して伏見に帰った。その6月信長、本能寺の変に遭い、また、梅雪同じ6月不慮の死を遂げ、秀隆も、土豪一揆にたおれた。その機に乗じて家康は、主のない甲斐に再入国し、平岩親吉を甲斐の郡代とし、武田の遺臣成瀬正一・日下部定好を甲斐奉行に挙げて、行政にあたらせ、関東入国までの9ヵ年を支配したが、北条氏を滅した秀吉は家康を北条氏の所領である関東におくって、甲斐に豊臣秀勝を封じ、つづいて加藤光泰、浅野長政父子が受封したが、浅野幸長、慶長5年(1600)和歌山に移封されて、再び家康の支配下に入る。その間僅かに20年間である。 慶長以降、徳川氏の所領となって、慶応3年(1867)徳川幕府大政奉還までの267年間、江戸城防備の外郭となり、軍事的枢要拠点としての統治を受ける。 その間宝永元年(1704)甲府宰相綱豊が五代将軍の嗣子となって、幕府に入ったあとを、甲斐源氏の出である武川衆から身をおこして、累進した柳沢吉保が受封して、入国した。このことは、長い江戸幕府治下の歴史の中で、ただ一度の大名支配の時代である。 吉保、父祖の地、郷国への入国は、この国を子孫の永領の地と期したことであろう。郷土人にとっても、その施政は、好ましい雰(ふん)囲気を与え、文化の進展をみようとしたが、僅か20年でその子吉里が享保9年(1724)大和の郡山に転封となって、数々の治績を残して去った。 これよりまた幕府の天領となり、老中指揮下の甲府勤番が府中(甲府)を、勘定奉行支配下の三部代官が地方を統轄した。 代官は、一般村方の戸籍・訴訟・逮捕・風教等の総てを司ったので、善きにつけ、悪しきにつけ、村々の領民の生活は、常に左右された。 また、天領下の村々には、名主・長百姓・百姓代の村方三役がおかれた。この村方三役は、代官支配を受けて、封建体制下の末端機構となって、納税その他の事務を、つかさどらなければならなかった。 名主は村(現在の大字)の長であり、長百姓は、その補佐役、百姓代は、百姓の代弁者で、小前百姓などの、名主への要求はすべて、百姓代を通じて、行なうことになっている。 村には五人組があり(組は長い歴史がある)、その組頭は、組中から選ばれて、その権限は非常に強く、村は名主、長百姓、組頭によって、代表された。何事につけても、この三者によって、代表されている文書が町内に多く残っている。 組頭は、その組の婚姻・相続・廃嫡・売買等一切の世話をし、組は組頭を中心として農に励み、奢侈を抑え、賭博を禁じ、届出、納税を怠らずに、互に法度を守り、耕作を助力し合い、艱難を助け合って、親戚同様に睦み合い、1人でも掟(おきて)に背(そむ)く者があれば、組全員が処罰を受ける仕組になっていた。 町内の旧村々に、五人組御仕置帳、御法度書、御条目等の名で、家別人別帳、宗門改め帳とともに納税の割付書、納税皆済目録と合わせて、1番多く残っている文書である。 代官陣屋は、はじめ甲府、上飯田、石和(後に谷村に支所)に設けられたが天明中(1780年代)上飯田陣屋が廃されて、寛政中(1790年代)市川陣屋(市川大門町)が設けられた。 市川代官の管轄は、石高74,876石、村数247ヵ村、外領地(社寺領)石高822石、9ヵ村で、身延町の村々は明治維新までその支配をうけていた。 明治維新は、幕府の末期的物情騒然とした中で、慶応3年(1867)10月14日徳川慶喜は大政奉還を奏請し、12月9日明治天皇が王政復古を宣して、封建的武家政治から立憲政治の近代国家への出発の幕があがる。 明治元年(1868)4月江戸城は官軍に明け渡され、政令一途に出ることになり、甲府城も3月12日無血開城して、官軍の手に帰した。 山梨県史に、「参謀海江田武次甲府に入り、国事を代理したのが、山梨県庁のはじめ」とある。戊辰(明治元年)3月東海道副総督柳原前光が、次の第一声を発している。 今般王政復古真の天領と被仰出候に付追々自朝廷御沙汰可有之候共一応是迄通相 心得万端支配頭へ相付夫々職業勉励可致旨東海道副総督御沙汰候事 辰3月 東海道副総督参謀 海江田武次 3月23日柳原前光が入甲して、県庁職制のはじめである官員職制を定めた。 6月甲斐鎮撫府をおき、旧来の三部代官を廃して、三部知県事を任命し、行政に当らせた。11月鎮撫府を甲斐府と改め、三部県庁を郡政局と改称し、翌年3月甲府県となって、郡政局は本庁に合併された。 明治2年7月土肥実匡権知事として来任、翌3年知事となって政をとる。5月田安領104ヵ村(石高47,960石余)を合して、甲斐四郡(山梨・都留・八代・巨摩)が甲府県の管下に入る。明治4年廃藩置県により、山梨県となった。 明治5年(1872)四月、大小区制を施行して、県下4郡を80区に分け、各区に正副戸長をおいて、戸籍事務をとらせる。 この時大河内地区は八代郡16区に、下山・身延・豊岡地区は巨摩郡34区に属した。10月正副戸長を廃して正副区長を選び、名主、長百姓を廃し正副戸長を各村において旧制を改めた。この戸長が現在の町村長の前身である。 明治6年藤村紫朗が県令として本県に着任以来、その進歩性を発揮して、教育・殖産・衛生・交通・治水・警察と県政全般を振興して、本県草創時代の基礎を確立して、県勢発展の途をたどり、その治績を大いに挙げた。 明治5年土肥県令の発した町村合併の布達は、大小切税法を改正して、増大する負担を村費節約で補わせようとして、合村を勧めたのであるが、大小切騒動をひきおこし、その実績があがらなかったが、6年政府は大蔵省達を出して積極的に合村をすすめ、藤村県令の強い指導により、5年には2ヵ村の合併が、7年48ヵ村、8年には103ヵ村合併をみて、全国的にも異例な多数町村の合併を実現している。 こうした中で本町旧4ヵ村も誕生したことは、冒頭にも述べたが、当時の町内記録を総合すると、合併時の戸長は次の通りとなる。 4ヵ村誕生(年次順)
明治12年(1879)府県会規則によって、県会が開かれ、南部出身の近藤喜則が初代県会議長に選ばれているが、これよりさき、藤村県令は県会規則を公布して、10年5月甲府一蓮寺で本県初の県会を開いたが、その歴史的県会に、本町和田の市川重門が公選議員として参会している。 その後明治22年(1889)市制・町村制が施行されて、自治制度が発足し、24年府県制を実施した。これから山梨県としての地方自治行政は、中央政府の任命する県知事の統制下におかれることになったのである。 このようなめまぐるしい変革の中において、町村制施行時の村長として、下山村遠藤文五郎、身延村豊岡村(兼任)清水為八、大河内村片田貞治が選ばれている。 身延町旧4ヵ村が、それぞれ誕生してからの変遷を見ると、明治17年(1884)身延村と豊岡村が連合役場を持ったが、22年町村制施行に際して解消し、同年大河内村が大垈区の川向を富里村(現下部町)に分割している。 29年に福居村が下山村と改称し、昭和6年(1931)に身延村が、日蓮聖人入滅650遠忌執行を機に、町制を施行して身延町となるなど、幾多の変遷を経て、昭和30年2月11日の建国記念日に、1町3ヵ村が大同団結して、現身延町となったのである。 初代町長佐野祥盛、二代河井直一の後をうけて3代・4代現町長佐野為雄が2期在任中で、新町発足以来15年間、数度の台風災害を克服復旧して、道路網の整備、教育設備・社会福祉施設の拡充・産業構造の改善等の実をあげて、明るい町の建設を目指している。 県行政の出先機関その他の公共機関・学校等が集中して峡南の文化行政のセンターにふさわしい身延の町の歴史は、700年のゆるがぬ伝統を誇る身延山の法灯とともに、燦(さん)として輝き、明日の歴史を開いてゆく。 |