第三編 町の歴史

第一章 先土器時代

 郷土身延の地に人々はいつ頃から住み始め、いつその歴史が始まったのか、これは郷土に住むものの抱く当然の疑問であるが、その解明は極めて困難なことである。
 われわれが過去の歴史を知るためには、先人の残した遺跡遺物古記録等によるのであるが、現在、本町に関係のあるこうした遺物は、縄文時代中期のものがわずかに認められるほかは、大部分が中世以降のものばかりである。
 したがって、平安時代以前の本町の歴史は、残念ながら、全く模糊(もこ)としてその実態を把握(はあく)することができない。しかし、広く日本および県下の状態を眺めた時、すでに幾多の史実が確認され解明されている。本町の歴史の解明に当たり、この日本および県下の大きな歴史の流れの上に立って自らその姿が推察できるであろう。
 一体、地球上に人類が出現したのはいつなのか。それは地質学上の第四紀洪積世(60万年−1万年前)の初頭の頃からであろうといわれている。その後彼等は数十万年の間、ほとんど進歩もなく、洞窟等を主な住居とし、石を打ちかいて作った簡単な道具で、狩猟採集等の原始生活を続けていた。考古学上この期間を旧石器時代とよんでいる。そしてこれら旧石器人は主としてアフリカ・ヨーロッパ・アジアの大陸だけに分布していたといわれていた。
 ところで、最近の研究によると、日本にも旧石器時代があった事が確認されるようになった。戦前まで、日本には旧石器時代はなく、人々が住むようになったのも約5−7千年前、大陸から渡来してきた人々であったといい、しかもこのことは明治以来長い間の定説ともなっていた。が、この定説も昭和24年考古学に情熱を燃やす一青年による群馬県岩宿の旧石器時代後期の遺跡の発見と明治大学の杉原荘介らの確認によって、完全に打ち破られた。それ以後、わが国の旧石器時代への関心は急速に高まり、現在では、岩宿遺跡と同様の遺跡が、日本各地から確実なものだけでも数百ヵ所以上発掘されている。更に、その時代の人骨も化石として諸所から発見されているので、今や、日本にも旧石器時代があったことを認めないわけには行かなくなった。これをわが国では先土器時代とよんでいる。
 では、県とその周辺の地域はどうであろうか。昭和26年以来、東京都茂呂遺跡、国分寺市殿ヶ谷遺跡や長野県の上の平遺跡、野尻湖遺跡、同矢田川遺跡、茶臼山遺跡等本県の東西に連なる都県において続々と発掘調査研究が展開され、さきの岩宿遺跡に比肩される先土器文化遺跡が確認された。これら一連の業績により、本県もその刺激をうけ、28年に山本寿々雄等によって東八代郡中道町米倉山付近のローム層(地質学上洪積世に属する地層)中よりナイフ形石器・尖頭器、細石刃等を発掘し、38年には吉田格等によって東八代郡下向山遺跡が調査され、ナイフ形石器、細石核を得た。41年には大月市宮谷地区および袴着遺跡のローム層中より荒割りの片石器と凹痕を有する石器、石皿風の石器を発見した。また北巨摩郡においても、八ヶ岳山麓からこの時代の尖頭器が発見されている。(山梨県の考古学より)

 先土器文化遺物出土遺跡
所 在 地
名 (呼) 称
主 要 伴 出 品
東八代郡中道町米倉山 米倉山遺跡 ナイフ形石器 尖頭器
〃   〃  下向山 下向山遺跡 ナイフ形石器 細石器
北巨摩郡小淵沢町   尖頭器
大月市富浜町宮谷B区 宮谷遺跡 粗石器外
〃   〃  袴着 袴着遺跡 粗石器外
〃  下和田   有舌尖頭器

 以上のことから、県下の各地にすでに1万年以上前に、現世人類の祖先に当たる人々が生活していたことが理解できる。ただ、残念ながらわが身延町および峡南地方には、これら先土器文化の遺跡遺物は発見されていない。もちろん、先土器文化の存在が日本に確認されたのは、近々20年内外であり、また十分な発掘調査が行なわれていないので、未発見の遺跡も多くあるものと思われる。今後の調査研究に期待しなければならない。