第五編 自治のあゆみ

第一章 総論

 地方自治のあゆみは、明治維新の行政近代化を第一歩として今日におよぶが、太平洋戦争の終末を境として、その基本理念も、制度のあり方も180度の大転換をとげたのである。
 この二つの時代をそれぞれ象徴する「大日本帝国憲法」と「日本国憲法」の条文を一読するだけでも、いかにその変革が大きいものであったかを理解することができる。
大日本帝国憲法(明治22年(1889)公布)
 (発布勅語より)
国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ
 (第一条)
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
日本国憲法(昭和21年公布)
 (前文より)
ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
 (第九十二条)
地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律で之を定める。
 (第九十三条)
地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙する。

第一節 地方制度と自治の歴史

 地方の行政を、住民の意志にもとづいて、住民の手によって作られた地方団体が、自主的に処理するという住民自治、団体自治の理念は近代民主々義政治の根本思想であって、専制的な中央集権的政治理念に対立して生まれたものである。このような意味での地方自治が制度として確立するのは近代社会が成立した後のことだが、その母胎となるべき自治の歴史はかなり古い。
 たとえば中世ドイツ都市国家の中には団体自治の萌芽が認められるし、イギリスでは12世紀に各地方に自由民の集会が組織され、住民自治の長い伝統を誇っていた。
 アメリカでも英本国からの移民が早くから自治的な地方団体を組織し、地方行政を処理していた。
 近代地方自治の柱というべき団体自治は主としてヨーロッパ大陸において、また住民自治の原則は主としてイギリス、アメリカで発達したといわれている。
 自らの力で近代社会を切り開いた先進欧米諸国では、国民が民主々義の1番身近な形としての地方自治に参加する歴史の中で、その観念と制度をみずからの手で作り上げ、発展させてきたのである。
 これに遅れて、外的圧力と国家権力の強い指導により急激に近代化をなしとげた日本ではかなり事情は異なっている。明治政府は欧米の制度を形の上ではかなり取り入れて、明治22年の旧憲法を頂点とする各種の制度を布いたが、府県別、市制、町村制にしても、その前身である諸法令や制度にしても、依然として「政治はお上のもの」という抜きがたい中央専制的観念が支配する限りは、もっぱら上意下達の手段となり、自治とは名ばかりであった。
 旧憲法下のわが国には、真の意味での地方自治は存在しなかったといってよいであろう。
 ところが、第二次世界大戦後制定された日本国憲法は、地方分権、地方自治の原則を特に1章を設けて保障し、民主化をはかったのである。地方公共団体に対する政府の統制は弱められ、その長と議会は共に住民の直接選挙によって選ばれ、住民には首長や議員のリコールや、条例改廃制定、監査などの直接請求権が付与されるなど、画期的な改革が行なわれ、昭和22年施行の地方自治法によってこれが確立された。
 以来20余年、わが国の地方自治は漸く制度として国民生活の中に定着して来たといえるが、後述するように、憲法の理想とする「地方自治の本旨」が完全に実現されるにはまだまだ多くの障害と、解決すべき課題が山積し、むしろ中央集権化への逆コースの危険さえ叫ばれているのが実情である。

一、地方制度の沿革

 わが国の地方制度の沿革は、大別して次の4期に分けて考えられる。
(一)第一期 大区小区の時代
 明治4年(1871)の廃藩置県により府県を単位とすると同時に、戸籍法が制定されて、在来の郡、町村は廃止され、県を大区と小区に分け小区に戸長、副戸長をおいた。
 明治5年には戸長は区長と改められ、町村に戸長がおかれた。府県も何回か廃置分合されたが、一応形式的な体制がととのえられた。
(二)第二期 三新法の時代
 大区、小区の制度が形式的で慣習を無視したものであったため、明治11年(1878)の郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則のいわゆる三新法が施行された時期である。府県の下に旧来の郡町村を復活、三府五港その他人口の集中する地を区とし区、町村を自治団体とした。
 また公選議員による府県会を設立し、地方税の支弁、徴収を議決するものとした。
 区町村にも区・町村会を開くことが認められ、地方制度の基本的制度が定められた。
(三)第三期 町村制の時代
 明治21年(1888)市制・町村制、23年府県制・郡制が公布されてからの時期である。郡制は大正12年(1923)に廃止された。府県制・市制・町村制もしばしば改正されたが、第二次世界大戦終了後まで続いた。
 この制度の目的は中央集権による国家の基礎の強化にあり、国家的監督によって自治機能は拘束されていた。ことに府県は国の行政機関であり、知事が中央政府の任命によるなど、地方団体の自主性と、地方住民の自治性とをいちじるしく欠いた官僚行政であった。
(四)第四期 地方自治法の時代
 敗戦により政治体制が民主化され、地方分権の強化と地方行政の民主化が推進された時期である。地方自治は憲法に保障され、昭和22年地方自治法が施行された。
 地方団体を統制してきた官僚制の強力な根幹であった内務省も廃止された。
 しかし、この民主的自治制の運営のためには地方財政の充実が必要とされ、シャウプ勧告にもとづき、中央と地方との税源の配分、事務の再配分がはかられ、市町村の再編成が検討されたが、財政的独立は確立し得なかった。
 一方、昭和27年、講和条約の発効を契機として地方自治制も改革された。すなわち27年、31年の自治法大改正、29年の警察法改正による自治警察の廃止、31年の教育委員会公選制の廃止など、いずれも中央集権化の方針がとられている。
 他方、28年の町村合併促進法により市町村の再編成が促進されたが、30年末地方財政再建整備促進特別措置法が制定され、国の援助措置をてことして財政統制が強まり、この面からも中央集権化が進められている。

二、府県制・市制・町村制と地方自治法

 戦前と戦後の地方制度をそれぞれ規定する府県制・市制・町村制と、地方自治法との比較を通じて、両時代の地方自治のあり方の違いを考えてみたい。
(一)選挙権と選挙管理
 町村制の時代を通じて常に制限選挙が行なわれ、当初は納税額による選挙人と議員の等級制があり、府県・郡会は間接選挙の時代もあった。
 大正10年(1921)には等級制はなくなり、町村税の納税者全員に投票権が与えられ、大正15年(1926)には普通選挙制が施行されたが、これとても男子のみの権利であった。
 婦人参政権が認められ、20歳以上の男女に首長、議員の選挙権が保障された戦後は、住民参加の幅と厚みは格段に拡大されたのである。
 また、町村制時代、役場が管理した選挙事務は、議会が選挙した選挙管理委員会によって行なわれることとなり、選挙の中立公正化が制度の上でも規定されたのである。
(三)地方公共団体の権能
 府県制では、県は政府の任命する官吏たる知事が、内務大臣の指揮監督のもとに行政事務を執行し、県会に対しても強い原案執行権をもち、知事が議長となる参事会等を通じてほとんど諮問機関的な存在においていた。
 市制・町村制において市町村は一応自治団体とされてはいたが、市町村長や議員の就任の認可・予算の決定をはじめ、行財政上の決定事項のほとんどが知事、または政府の許可を得て初めて効力を発生するものが多く、実質的な自決権はなかった。甚だしい場合は、知事が議会の選挙した町村長を認可せず、官選の町村長を任命することさえあった。
 地方自治法においては、政府および知事は市町村に対して「技術的な助言又は勧告」を与え、「資料の提出」、財務事務についての報告を求め、実地視察や出納検査をすることができるにとどまる。
 府県は市町村を包括するが、市町村と対等の地位にあるものとされ、一般的には上下、監督の関係にはない。
 ただし、地方自治法第146条は、「国の機関」としての市町村長に属する国の事務の管理若しくは執行が法令の規定、主務大臣、知事の処分に違反したり、怠ったりしていると認めた場合は、知事が市町村長に命令し、裁判を請求し、又は市町村に代ってこれを執行し、またはこれを罷免することができることを規定しており、首長は一面では公法人としての自治団体の長でありながら、他面「国家の機関」として国の委任事務に拘束され、国や知事の指揮監督を受けるものとされている。
 国の委任事務がますます増大してくるに従い、首長に対する国の監督権は強まってくるわけで、財政上の要因とあわせて「3割自治」が憂慮されている所以(ゆえん)である。
(三)首長と議会の関係
 市制・町村制においては、議会が首長を選挙する制度であって、いわゆるパーラメンタリー・システム(議院内閣制)をとっていた。同時に町村長が議会の議長をつとめることとされ、議会と執行部の分離、相互抑制という現在の形とは異なり、議会が首長の諮問機関になる要素が強い。
 議会は長に対して不信任の権限を有せず、逆に首長は議会に対し原案執行権を有し、すべてにわたって知事、国の指揮、統制という後光をもって臨んだのであって、その優劣はおのずから明白であった。
 県会においては知事が官選ということで、いっそう議会の権限は弱いものであった。
 戦後の自治法は府県、市町村にプレジデント・システム(大統領方式)を採用した。すなわち、首長も直接公選で選ばれ、同じく直接公選で選ばれた議会と同等の比重で、執行権と議決権を分離し、相互のチェック・アンド・バランス(抑制均衡)の妙を発揮して行こうという考え方である。
 議会は独自の強い調査権や意見書提出権・決議権・長の不信任・解職権を持つ一方、長は議会の解散権・議決に対する拒否権などを持ち、両者がその分を守って協力し、行政の運営に当たることが期待されているわけであるが、昭和38年の財務会計制度の改正にも見られるように、議会の議決権の縮少、長の権限の強化をはかる傾向が一貫して見られ、全国町村議長会をはじめ地方議会の反発を買っている。
(四)住民と自治体
 町村制時代には、全く認められなかった住民の直接請求権(条例の制定・改廃・事務の監査請求・議会の解散・議員・首長・副知事・助役・出納長・収入役・選挙管理委員・監査委員・公安委員・教育委員などの解職請求権)が保障されている。いわゆるリコール制は住民自治の強化を象徴する規定である。
(五)その他
 府県・市制にあった参事会制度がなくなったこと、首長の原案執行権がなくなったこと、監査委員制度、議会事務局の法制化など、総合していえることは、官治的・形式的自治から、民主的自治への大きな転換がはかられたことが理解されるのである。

三、地方自治今後の課題

 前述したように、長の権限拡大や、委任事務の拡大から来る国の監督権の強化のほか、財政面からの中央依存度強化など、地方自治の発展を妨げる問題は少なくない。これについては、行政事務の再配分、税減の再配分が地方側から強く叫ばれてきたが、なかなか実現は難(むず)かしい状況である。また、激動する社会状勢に伴って、国は広域的行政をうち出し、府県の再分合、或は府県廃止や首長官選論・道州制・広域行政圏などが盛んに論議の的になり、推進もされているが、このような新しい中央集権化への動きと、民主政治に欠くことのできない地方自治の原則とを、どのような形で調和、対応させて行くかということが今後の大きな課題であろう。