第二節 県政のあゆみと身延町

 「明治元年戊辰三月十二日、東海道副総督ノ命ヲ承テ参謀海江田武次甲府ニ至リ国事ヲ代理ス。是ヲ本県立庁ノ始メトス……」
 山梨県史第一巻冒頭には上のように書かれている。
 王政復古の大号令により徳川300年の封建制支配体制から近代的中央集権国家への脱皮と改革の巨歩は着々として進められ、その一環としての山梨県の行政面での改革もまためまぐるしいものがあった。
 この年、鎮撫府から甲斐府へ、甲府・市川・石和の三代官所より郡政局へと制度の変革が相次いだ。甲斐府というのは、明治新政府が全国の重要な国に府を、一般の国には県を置いたもので、当時府がおかれた国は、東京・奈良・大阪・長崎・京都・函館・越後・渡会・甲斐の九府だけであった。甲斐が維新時に重要視されていた天領であった所以(ゆえん)である。
 明治2年(1869)7月28日、甲斐府が廃され甲府県が建てられた。
 更に明治4年11月20日、廃藩置県により山梨県となり、今日におよんでいるわけである。
 初代県令土肥実匡は、全県下を巨摩・八代・山梨・都留の四郡、さらにこれを80区に分ち、明治4年8月郡中総代を廃し、各区に戸籍法に基づく正副戸長をおいて統治の体制を布いたが、間もなく5年(1872)10月には中央政府の指令により各区に区長・副区長をおき、各村の名主、長百姓を廃止し、これに代えて戸長・副戸長をおいた。
 この時、現在の身延町地域は、旧大河内地区の上八木沢・下八木沢・帯金・大垈・椿草里・大崩・丸滝・角打・和田・樋之上・大島の11ヵ村が、内船・上佐野・井出・十島・下佐野の五ヵ村と共に八代郡第16区に所属、下山地区の粟倉村・下山村と、身延地区の波木井・大野・梅平・身延の4ヵ村、豊岡地区の小田船原・門野・大城・相又・清子・光子沢・横根中の7ヵ村の計13ヵ村が巨摩郡第34区に所属したのである。
 区長、戸長設置の事情を山梨県史により見よう。

  明治五年正月十八日 各区正副戸長ヲ置く
  八月日詳ナラス 郡中総代ヲ廃シ各区正副戸長ニ達スル書に曰
    先是六月十八日 村吏改称ノ議ヲ大蔵省ニ申禀ス 八月廿七日指令日
今般庄屋名主年寄等都テ廃止戸長副戸長ト改称シ是迄取扱候事務ハ勿論土地人民ニ関係ノ事件ハ一切為取扱候様可致旨御達有之候処当管内ノ儀ハ先般御達ノ戸籍法則ニ因テ凡千戸内外ヲ以壱区ト定メ区内七八ケ村ヨリ弐拾四五ケ村ニ至リ候モ有之毎区戸長壱人副戸長弐人ツツ置専ラ戸籍調中ニ有之候然ル処各村吏員ノ称廃止戸長副戸長ト改称致シ候上ハ右戸籍法ニ因テ相設候長副ハ区長副区長ト改称可致儀ニ有之候哉決兼候間此段相伺候也
 壬申六月十八日 山梨県
 大蔵省御中

 すなわち、明治4年の戸籍法に基づき各区に戸長副戸長をおいたところへ、追っかけて村々の名主の代りに戸長をおけという政府通達である。それでは区にも村にも戸長ができてしまうので、先に決めた区の戸長は、区長と改称したらよろしうございましょうかとお伺いを立てているわけである。
 これに対する政府指令はまことに素ッ気ない。

  指令
書面庄屋名主年寄等改称為致候者ノ外戸籍法ニ因テ相設置候戸長副戸長ハ都テ相廃止可申事
    壬申八月廿七日 大蔵大輔 井上馨
  郡中総代自今相廃止候条是迄取扱候事務正副戸長ニテ可取扱事
 但 御用聞詰合ノ儀ハ戸籍調所定詰并当番ニテ可相心得事
    壬申八月

 すなわち、山梨県の問には直接答えず、単に戸籍法による区の戸長は廃せよとのみである。この朝令暮改ぶり、不親切ぶりにはさぞ県も迷ったことであろう。
 十月に至ってようやく、区は正副区長、村々は正副戸長ということに決まるわけである。

  十月廿五日 各区正副戸長ヲ廃シ各村ヲシテ更ニ正副区長ヲ選挙セシム其移牒ニ曰
    毎区戸長副戸長廃止更ニ区長副区長ノ称ヲ以壱区一人宛置候条区内村々ニ於テ篤ト人選致シ一村限リ封書ヲ以来ル十一月十五日限リ可申出候尤給料ハ可為民費条区限リ相当取定可伺出事
 但 区長副区長人選中ハ是迄ノ通元正副戸長ニテ事務可取扱事
右ノ趣無洩可相達者也
 壬申十月廿五日
同日 名主長百姓ヲ廃シ各村正副戸長ヲ置カントシ其選挙法ヲ布達ス曰    
      今般大小切安石代廃止ノ上ハ村費等精々減少無之テ不相叶ニ付従前ノ組分ケハ勿論小村ノ分ハ可成丈最寄ヘ合併村吏人員減省候様毎区協議ノ上早々可申出事
    一、 名主長百姓相廃止更ニ人撰ノ上毎村戸長副戸長ヲ置候条別紙規則照準公平ノ入札ヲ以選挙致シ来ル十一月十五日ヲ限可取極事
但 戸長副戸長選挙候迄ハ元名主長百姓ニテ是迄ノ通事務可取扱事
右ノ趣無洩可相達者也
 壬申十月廿五日
村吏改置定則
    戸長ハ一村壱人ニ限り副戸長ハ村高ニ応下ノ通
     
百石以下 副戸長壱人
百石以上三百石迄 副戸長弐人
三百石以上五百石迄 副戸長三人
五百石以上八百石迄 副戸長四人
八百石以上千石迄 副戸長五人
千石以上 副戸長六人
 但 給料ハ民費タルヘシ尤各村事務ノ繁簡ニ因テ人員給料共増減アルベシ
    戸長ハ村内土地人民ニ関係ノ事件士民ノ別無ク都テ取扱副戸長ハ是ニ次テ事務ヲ輔ケ貢納夫銭勘定取立方等専務一々戸長ノ改ヲ請可申事
    戸長副戸長勤務無年限タリト雖モ詮議ノ品ニ寄転役退役申付候儀可有之其節ハ更ニ公選ヲ以可相定事
    入札日限取定前以一村無洩相達尤戸数多ノ村方ハ両日ニ割合入札可致事
    入札済翌日封ノ儘県庁ヘ持参官員立会ノ上開封致シ高札ノ者ヘ可申付事
    右規則ノ条々堅可相守事
 壬申十月

 区長、戸長の入札(選挙)の指令である。当初は任期無年限ということであったが、明治12年になって任期3年と定められている。
 次に12年の戸長選挙法を掲げる。
  二月七日 戸長選挙法ヲ制定布達ス曰
    甲第四拾五号
明治九年三月甲第九拾六号布達正戸戸長選挙規則相廃シ戸長選挙法別紙ノ通相定候条此旨布達候事
 但 現今奉職中ノ者ハ改選ニ及ハス尤モ任期ノ儀ハ此法頒布ノ日ヨリ起算ス可キ事
      明治十二年二月七日 山梨県令 藤村紫朗
  戸長選挙法
 
第一条 戸長タルヲ得ヘキ者ハ満弐五歳以上ノ男子ニシテ其町村ニ本籍ヲ定メ満壱年以上住居シ其町村ニ於テ地租ヲ納ムル者ニ限ル 但左ノ各款ニ触ルル者ハ戸長タルヲ得ス
第一款 懲役実決ノ刑ニ処セラレタルモノ
第二款 身代限リノ処分ヲ受ケ負債ノ弁償ヲ終ヘサル者
 
第二条 戸長ヲ選挙スルヲ得ヘキ者ハ満弐拾歳以上戸主ノ男子ニシテ其町村ニ本籍ヲ定メ且其町村ニ於テ地租ヲ納ムル者ニ限ル 但前条第一款第二款ニ触ルル者ハ戸長ヲ選挙スルヲ得ス
 
第三条 戸長ヲ選挙セントスルトキハ郡長ニ於テ予メ選挙ノ投票ヲ為スベキ日ヲ定メテ其町村ニ報告スベシ
 
第四条 選挙ノ投票ハ郡長ヨリ附与シタル用紙ニ被撰人ノ住所姓名年齢等詳記シ撰挙予定ノ日之ヲ郡長ニ出スベシ
 
第五条 郡長ハ投票ヲ調査シ其最モ多数ノ者ヲ当選人トシ同数ノ者ハ年長ヲ取リ同年ノ者ハクジヲ以テ之ヲ定ム若シ当選人其選ヲ辞スルカ或ハ法ニ於テ不適当ナル者ハ順次投票多数ヲ得タル者ヲ取リ本人並ニ選挙人ニ示シ県庁ニ具申スベシ
 
第七条 選挙ノ際事状該町村ノ治否ニ関係スルト認ムルトキハ選官ヲ以テ特ニ任シ或ハ其当撰者ヲ改撰セシムル事アルベシ
 
第八条 戸長ノ任期ハ三年トシ三年毎ニ改選ス 但前任ノ者ヲ再選スル事ヲ得
 
第九条 戸長任期中ト雖トモ第一条ニ掲クル各款ニ遭遇スルカ或ハ他村ニ移住スルカ又ハ事故アリテ退職スル時ハ更ニ其欠ニ代ル者ヲ選挙スベシ
 
第拾条 前各条ノ外選挙ニ係ル細則ハ郡長ノ定ムル所ニ従フベシ

 当時の村は全般に規模が小さく、幕末期に788ヵ村を数え、100石以下の小村も少なからずあり、行政上の機能内容も単純で、統一国家の地方機構に要請される行政能力は至って乏しかった。
 そこで政府・県令は、旧幕時代の旧弊をかゝえる村役人制度や、弱小村を脱皮させ、行政単位を大きくし財政規模をも拡大するため、前記の区制や、合村を推進したのである。当初合村は思うに任せず明治5年に僅か2ヵ村(八代郡金沢村、巨摩郡本建村)しか実現しなかった。
 明治6年(1873)に入り政府は大蔵省達を以て積極的に町村合併を促進するようになった。その主目的は町村費を節約し、住民負担を軽減するということであったが、真のねらいは中央集権的な地方統率と管理の強化にあったことはいうまでもない。
 本県の場合、明治6年(1873)2月に大阪府参事より転じて若冠29歳で山梨県権令に着任した藤村紫朗によって、明治7年以後強力に合村が促進されたため、全国的に見ても非常に異例な多数の町村合併の姿となって現われたのである。
 すなわち、明治5年に僅か2件にすぎなかった合村件数が7年には48件、8年には実に103件の多きをかぞえそれまで約800に近かった村は一挙に半分以下の340ヵ村余りにまとめられたのである。
 藤村権令の合村についての布達は次のようなものである。

    布達
   無益ノ冗費ヲ省キ有用ニ転ズルハ尤急務ニ付、追々相達候趣モ有之処管下村々ノ反別少ナク人口多カラザル小村不少右等ハ便宜合村不致テハ毎年無用ノ労賃ヲ増シ不便利ニ付、既ニ処理ヲ辨ヘ速ニ合併イタシ候村々モ有之或ハ即チ今協議中ノ向モ有之趣ニ候処間ニハ旧来ノ慣習ニ固着シ偏見ヲ主張シ無謂苦情相唱ヘ候村々モ有之哉ニ相聞不都合ノ事ニ候右ハ篤ト利害損失ヲ考究致シ早々協議ヲ遂ゲ、反別戸数人口並ニ地理ノ実況ヲ取調速ニ合村ノ見込申出就テハ秣場堤防修理等ノ儀ニ付自然故障ノ次第アリテ等閑ニ打過候等事情有之モ難図ニ付左ノ通相心得協議可致事。
    合村ニ付心得
 
一、村持山或ハ入会山等アル村ハ、他ノ村ヘ合併スルトモ事実差支アルニ於テハ、其持山入山ヲ共同セザルモ苦シカラズ。
但シ協議ノ上可成或ハ双方互ニ便利ヲ得一和親睦共ニ業ヲ営ム様心懸クベシ。
 
一、川筋水害之アル村ト其患ナキ村ト合併スル時ハ、水防入費等ハ従前ノ通関係ノ村ニ於テ相辨ヘ、其害ヲ蒙ラザル方ニ於テハ其入費ヲ課出セザルモ妨ゲナシ
 
一、用水堰入費等之アル村ト合併スル時ハ、従前ノ通用水関係ノ村々ニ於テ其入費ヲ辨ヘ関係之ナキ方ニ於テ其入費ヲ課出セザルモ妨ゲナシ。
但シ右二ケ条若シ連年災害打続ク故莫大ノ費用ヲ要スル事故アリテ難渋イタセル時ハ、協議ノ上之ヲ補助スルハ艱難相救ヒ吉凶相扶クル交際上ノ義務ナレバ此旨厚ク会得スベシ。
    右之趣管内無洩相達スル者也
     明治七年九月二十五日
  山梨県権令 藤村紫朗

 この合併促進により、明治7年(1874)に大河内村が、また明治8年には身延村と豊岡村がそれぞれ発足、同じ下山村と粟倉村が合併し福居村としてスタートしたのである。
 前述のように明治6年4月、着任早々の藤村権令は、「市町村伍組編成法」並に「区長戸長公選法」を制定し、区長・戸長・伍長の公選制を布いた。
 これは10戸から12戸の伍組(現在の隣保組)から公選により伍長1人を、更に伍長の選挙で区長を、区長の選挙で戸長を選出しこれを県庁が任命するというもので、形式としては明治22年の町村制施行に先立つこと十余年にして人民公選による自治制の原型ともいうべき形態を取ったものとして、高く評価される。
 もちろん当時のことで、公選とはいっても、一部の旧名主、お旦那衆に独占されて、今日の民主的自治とは程遠いものであったには違いないが、いずれにしても自治制度のあけぼのとして注目すべきものがあろう。
 次に区長および戸長の任務を命じた布達を掲げる。

    区長心得べき条々
 
一、区長の儀は、区内諸町村戸長共へ伝達之事件を始、平生諸世話駈引等其役務たり、時により一区内の総代にも相立べき事に付、謹んで御仁政の御趣意を奉じ精勤を遂ぐべき事。
 
一、区内諸町村より申出る儀を、是非をもわかたず差押え情実を上達せず、或は公事訴訟等に付、賄賂を受依怙之取計致す間敷く戸長共へも此旨常に申聞かすべし、自然不心得え者有らば速かに申出べき事。
 
一、追々相達する趣沈滞なく速かに戸長共へ伝達し旨趣審に申聞すべき事。
 
一、役威に傲り、驕奢尊大之所行固くこれを禁ず、常に正真篤実を旨として、諸町村役の模範と相成る様心を用いべき事。
 
一、町々村々懇和互に扶助保護の手立をなし、常に華美の奢を警め、無益の費を省き職業を勧め区中成立之心遺肝要たるべき事。
 
一、善を勧め悪を戒しめ、風儀を宣に導き、区中永世之繁栄をはかり窮民救助凶年手当等怠なく心配遂くべき事。
 
一、隣区相親しみ万端申し合せ、聊隔絶する事有之べからざる事。
 
一、常に戸籍の取調べ怠らず、支配之区内に不審のものの留置すべからざる事。
 右之通可心得もの也
  明治六年第四月
             山梨県
 
    戸長可心得条々
 
一、戸長之儀は、支配内一統之者へ伝達之事件を始め、平生諸世話駈引等其役務たり時に支配内の惣代にも可相立事に付、謹而御仁政之御趣意を奉し精勤を遂べき事。
 
一、役威に傲り尊大驕奢の所行堅く誠之、町村内の者より申出る儀は、是非をもわかたず、さし押へ情実を上達せず、或は公事訴訟等に付賄賂を請け依怙之取計等いたすまじく、方正廉直を旨とし条理明らかに可取計事。
 
一、追々相達する趣吃度相守諸布令其外伝達無沈滞速かに取計旨趣審かに町村内之者共へ可申聞事。
 
一、町村内之者離散せざる様注意いたし貧弱のものあらば難渋極まらざる内扶助の手立をなすべし、自然下において心に不任程之事は速かに申出すべく常に華美の奢を警め、無益の費を省き農業を勧め諸人成立の心遺ひ肝要たるべき事。
 
一、隣町村相親み互に気を付諸事申談聊隔絶する事有之べからざる事。
 
一、田畑荒さざる様堤防橋梁道路溝川等修補に怠るべからず、自然水損等にて大破に及び下において普請調べ難き程の事は速かに申出べく荒地場起返しの儀も村中申合せ精々力を尽すべし、若、村内の力に不及事は是亦速に可申出事。
 
一、田畑用水筋山林等境界を正し争論起さざるよう兼て可心付事。
 
一、貢納之米金其外諸上納期限に至り差支ざる様手配方兼々可心懸事。
 
一、官用と号し町村え不当の出金いたさせまじく諸入費は、常に明細書き記し置き総て清廉の取計肝要たるべき事。
 
一、運輸の便を起し、土地を開き、良木を植付物産を盛んにし、永世土地の栄をはかるべき事。
 
一、善を勧め悪を戒め風儀をよろしきに導く事、役人の勤め方にあたり、心得方宜からざるものあらば、慇懃に教諭を加え行状を改めしむべし、且又諸人に抽で心得よろしき者あらば遂一に申出べき事。
 
一、会議集議の節、飲食に長じ又は雑話に打過費用を省ず転業を妨る事堅く禁之心得違無之様町村内へも兼々可申聞事。
 
一、常々戸籍の取しらべ怠らず支配内に不審の者不可留置事。
 
一、溝川道路不潔にして塵芥腐敗し都て臭気あるものは養生に害あり、常に申合掃除等怠ざる様申付事。
 
一、凶年飢歳の手当怠なく心配遂ぐべき事。
 
一、火の元別て入念相慎候様申付事。
右之通相心得べき者也
 明治六年第四月       山梨県
  
 明治9年(1876)10月3日、80区制を施行した。34区は郡に関係なく通し番号で決められ、大河内村は19区、福居、身延、豊岡の各村は18区に所属した。
 明治8年(1875)東京で第一回地方官会議が木戸孝允を議長として開かれ、地方民会案などが審議された。明治11年(1878)4月には第2回地方官会議が伊藤博文を議長として開かれ、郡区町村編成法、府県議会規則、地方税規則のいわゆる3新法が審議決定され、地方制度の大改正が方向づけられたのである。
 山梨県においても、藤村県令は明治9年11月、県会条例を発布、区長34名と公選議員(一定の不動産所有者より選ばれた総代人の互選によるもの)34名の計68名より成る県会を開設し、明治10年5月には初の山梨県会が県令自ら議長となって召集された。
 明治11年7月には3新法が公布され、翌12年(1879)には公選議員による第1回県会が召集された。
 しかし当初の県会は、議決してもその実施は要求できないとか、政府の政策を論じてはならないとされ、決議の効力はあくまでも参考意見として、県庁の諮問に答えるに過ぎない存在であった。
 「峡中沿革史」にも、「当時、官民未だ議会の何たるかを弁ぜざりしを以て、殆んど体裁を得ざりしものあり」と評されている。
 郡区町村編成法にもとづき県はこれまでの区制を廃し、単に地域的名称にすぎなかった4郡を改めて9郡とし、12年1月郡制を布き、郡長を任命、郡役所を開設した。この改正により大河内村は西八代郡、福居・身延・豊岡村は南巨摩郡に所属し、昭和30年の合併までおおむねこの形が続くのである。
 明治12年には町村会規則が制定され、再び合村が勧奨されるとともに各村に村会が開設される。この規則は17年に改正されている。
 17年には町村役所を廃し戸長役場をおいて官選の戸長を任命するようになったが、この年身延村と豊岡村は連合戸長役場をもち、これが22年(1891)8月までちょうど5年間続いている。
 明治22年7月1日、県下に法律第1号をもって市制・町村制が施行された。これは24年施行の府県制とともに、地方団体の組織・機構・権能・議会の編成等を総合して法制化したもので、度々の改正はあったが基本的にはこの体制が昭和22年の地方自治法による民主的地方制度改革まで約60年間続くのである。
 この法律の趣旨は、公布に際して発せられた下の勅語及び理由書に盛られてあるので、これによって充分うかがうことができる。
 
  朕地方共同の利益を発達せしめ、衆庶臣民の幸福を増進することを欲し、隣保団結の旧慣を尊重して益々之を拡張し、更に法律を以て都市及び町村の権義を保護するの必要を認め茲に市制及び町村制を裁可して之を公にせしむ。
    市制町村制理由書
本制の趣旨は、自治及び分権の原則を実施せむとするに在りて、現今の状勢に照し程度の宜きに従い、以て立法上其端緒を開きたるものなり。この法律を施行せむとするには、先づ地方自治の区を構成せざるべからず、地方の自治区は特定の組織をなし、公法民法の二者に於て、一個人民と権利を同じくし、之が理事者たるの機関を有するものなり、其機関は法制の定むる所に依て組織し自治体は即ちこれに依て其の意想を発表し之を執行することを得るものとす。故に自治区は法人としての財産を所有し、これを授受売渡し他人と契約を結ぶ権利を得、義務を負い、又その区域内は自ら独立して之を統治するものなり、然りと雖も其区域はもと国の一部にして、国の統轄のもとに於て其義務を尽さざるを得ず、故に国は法律を以て其組織を定め、其負担の範囲を設け常にこれを監督すべきものなり。国内の人民各其自治の団結を為し、政府は之を統一して、其機軸を執るは、国家の基礎を鞏固にする所以なり、国家の基礎を固くせむとせば、地方の区画を以て其部内の負担せしめざるべからず、現行の制は府県の下、郡区町村あり、区町村は稍自治の体を存すと雖も、未だ完全なる自治の制あるを見ず、郡のごときは全く行政の区域たるに過ぎず、府県はもと行政の区域にして、幾分の自治の制を兼ね有せざるが如しと雖も、是亦全く自治の制ありと謂ふべからず、今前述の理由に依り此の区劃を以て悉く完全なる自治体をなすを必要なりとす、即ち府県郡市町村を以て三階級の自治体と為さむとす、此階級を設くるには、分権制を施すに於いても亦緊要なりとす、蓋自治区には其自治体共同の事務に任ずべきのみならず、一般の行政に属することと雖も全国に統治に必要にして、官府自ら処理すべきものを除く外之を地方に分任するを得策なりとす、故に其の町村の力に堪ふる者が、之を其の負担とし其の力に堪えざる者は之を郡に任じ、郡の力に及ばざる者は之を府県の負担とすべし、其の階級の重複するを厭はずして却って利益ありと為す所以なり。
 維新の後政務を集攬して一にこれ中央の政府に統べ、地方官は各其の職権ありと雖も政府の委任に依て事を処するに過ぎず、今地方の制度を改むるは即ち政府の事務を地方に分担し、又人民をして之に参加せしめ政府を繁雑を省き、併せて人民の本務を尽さしめむとするに在り、而して政府は政治の大綱を握り、方針を援け国家統制の実を挙ぐべく、人民は自治の責任を分け、以て専ら地方の公益を計るの心を起すに至るべし。蓋人民参政の思想発達するに従い、之を利用して地方の公事に練熟せしめ、施政の難易を知らしめ、漸く国事に任ずる実力を養成せんとす、是将来立憲の制に於て国家百世の基礎を立つる根源なり。
 故に分権の主義に依り行政事務を地方に分任し、国民をして公共の事務を負担せしめ以て自治の実を全からんとするには、技術専門の職若は常識として任ずべき職務を除く外概ね地方の人民をして名誉の為無給にして其の職を執らしむるを要す、而してこれを負担するは其の地方の人民の義務とす、是国民たる者国に尽すの本務にして、壮丁の兵役に服すると原則を同じくし、更に一歩を進むものなり、然れども人民をして普く此の義務を負はしむる時は其任又軽しと為さず、故に一朝にして此の制を実行せむとするは頗る難事に属すると雖も、その目的たる国家永遠の計にありて、効果を速成に期せず漸次参政の道を拡張して、公務に練熟せしむとするに在り、是を以て力めて多く地方の名望ある者を挙げて此の任に当らしめ、其地位を高くし待遇を厚くし、無用の労費を負はしめず、倦怠の念を生ぜらしむるときは漸く其の責任の重きを知り、参政の名誉たるを弁ずるに至らむとす、且つ本邦旧来の制度を考ふるに、無給職にして町村の事務に任ずるの例あり、各地方の慣例固より一定なるに非ず、且つ維新後数次の変革に依って頗るこの習慣を破りたると雖も、今日に及んで之を襲用すること尚難からざるべし、是此の制度を実施するに方て多少の困難あるに拘らず漸次其の目的を達せむこと期して疑わざる所以なり。
 然れども他の一方より之を見るときは、又地方の状況に依り多少の酌量を加へざるを得ざるものあり、是を以て町村長は公選となすと雖も、其選挙よろしきを得ざる時は時時官選を許し、或は官吏を派遣して其の事務を執らしむるの例あり、又島嶼の地其の特別の事情ありて此の制を実施し難き地方には、之を行はざるを許すの例あり、其他充分に実地治用の方を与へたれば各地の状況に照して之に応ずるの便あるを信ず、固よりこの法令は人民の情態に依り知識の度に依りて宜きを取らざるを得ず、徒に自治の理論に拠て俄に其の完備を求むるが如きは立法者の慎重を加ふべき所なりとす、是本制多少の斟酌なきを得ざる所以なり。
 本則を施行するについては、漸を以て府県の制度の改正に及ばざるものあり、今其の概略を挙ぐれば郡に郡長を置き、府県に府県知事を置き、其の選任組織等固より旧の如くして之を改めずと雖も、府県令の外に新に郡会を開き、府県郡に各参事会を設けざるを得ず、然れども此等の事は府県郡制の制定あるを待て始めて定まるべき事にして、今は只之を以て本則の参考に供するのみ、本制に制定する市町村は共に最下級の自治体にして、市といひ、町村といひ、郡鄙の別に依て其名を異にするに過ぎず、其の制度を建つる原質に於ては彼此相異るとこなし、元来町と村とは人民生活の状態に於いて其の趣を同じくせざるものありて、細に之を論ずれば均一の准率に依り難きものなきに非ずと雖も、本邦現今の状況を察し、旧来の慣習に依って之を考ふるに、都会輻輳の地を除く外宿駅と称し町と称するものは、施政の大体に於いて村落と異同することなし、故に之を同一制下に立たしむとする施治の細目に至っては或は多少の差異を見ることあるべしと雖も、此等の制度の範囲内に於て執行者の処分参酌宜しきを得ると否とに在るべきものとす、然れども都会の地に至っては、大いに人情風俗を異にし、経済上自から差別あり、故に之を分離して別に市制を立て機関の組織及行政監督の例を異にせり、是固より町村制と其性質を異するに非ず、其市民の便宜と実際の必要とに出で然らざるを得ざるなり、即ち現行の区制に継続する所のものなりと雖も、従来の区は郡の広域を離れず、行政上の吏員を置き、事務を処理するに過ぎざりしも、今改めて独立分離せしめ、従来区の下に町ありたりしも之を改めて市を最下級の自治体と為さむとす而して三府市街の如きは、其の状況又他の都市の地と同じからざるものあるを以て、市制中機関の組織等に於いて二、三の特例を設くるものあり、今此の市制を施行せむとするものは三府其他人口二万五千以上の市街地に在りとす、尤郡制定の時に至つて、その要件を確立することあるべしと雖も、今内務大臣の定むる所に従て之を施行せむとす、区の名称を改めて市と為すは三府の如き一府内の区と混同することを避くるなり、町区は通じて其の組織を同じくすべきは前述の如しと雖も、其大小広狭により、又は貧富繁簡ありて自ら事情を異にするものなきに非ず、故に或は一定の例規を適用し難きものあり是亦酌量を加え、法律の範を広くして地方の便宜を与へんとするものなり。
 
 本県に於いては翌22年6月26日県令第40号を以て
 「内務大臣の指揮に依り本年7月1日より県下甲府に市制を其他の町村に町村制を施行」する旨を市町村に通牒し、なお市町村制公布理由書の趣旨に基づいて、市町村制施行に関する分合村の名称及び区域を下の通り改め、合併する旧町村名は大字として之を残し、飛地は各その所在町村の地籍に編入すること、その他の町村は従来のまゝとすること、組合村とすべき区域は郡長から指示すること等の告示を発したのである。
 この町村制により戸長は町村長に改められ助役収入役以下の官制と、町村会の設置が規定された。
 郡制も同時に施行され、郡長は官選の官吏、郡会議員は町村会および地主代表より間接選挙により選出されるものとし、明治24年(1891)8月に第1回公選を行なってより大正12年まで続いて郡制は廃止となる。
 明治29年には福居村は下山村と改称され、昭和6年(1931)1月1日を期して身延村は町制を施行、身延町として新発足するのである。
 日華事変から第二次世界大戦にかけて、戦時動員体制下に地方事務所の復活、県から隣保に至る常会制度などの戦争協力組織化もなされたが、基本的には府県制・市制・町村制を軸として地方制度の運営がなされたのである。
 戦後、民主々義と地方自治を骨子とする新憲法が制定され、戦前の名目的な自治から、大きく前進して男女同権の完全公選による知事・町村長と議員の選挙、中央集権的な監督統制の排除など地方制度は大きく改められ、昭和22年の地方自治法によって、新らしい地方公共団体=自治体の組織と運営の方針が定められた。
 地方自治法下、新生の歩みを経て、昭和30年、町村合併促進法にもとづく四ヵ町村すなわち身延町、大河内村、下山村、豊岡村の合併により、新身延町誕生を迎えるわけである。