第四節 各種選挙に関する啓蒙運動
一、公明選挙運動の歴史
選挙を正しく明るいものにしようという運動は、最近になって急に始まったものではなく、古くは大正12年頃(1923)後藤新平の「政治の倫理化運動」、同じ頃武藤山治の「政治教育運動」の提唱、昭和2年(1927)の「選挙粛正同盟会」の結成等、いずれも政治をより良くするためには、まず選挙を正しいものにしなければならないという点に着目したものである。このほか大阪の武田貞之助が主宰した「選挙道徳向上会」、三重の岩野森之助による「三重県選挙革正同盟」等々の運動があり、実際の選挙で大きな効果をあげた例も多くある。
民間、地方のこのような熱意に刺戟されて、政府もこの問題をとりあげるようになり昭和10年(1935)府県および市町村に選挙粛正委員会がおかれ、これと相前後して民間においても「選挙粛正中央連盟」が結成され、全国的な運動が展開されるに至った。この運動は「選挙粛正運動」と呼ばれ、以来昭和17年(1942)7月中央連盟が解散するまでの七年間にわたり運動を展開した結果、選挙違反・棄権者数も少なくなり、一時は相当の成績をあげたのである。しかし、何分にも当時の時局から来る圧力が強く、ついにはその窮極の理想とする理想選挙を見るに至らぬままに終ったのである。
戦後の公明選挙運動は、昭和27年にはじめられた。当時平和条約成立後初の総選挙をひかえて悪質な事前運動が盛んに行なわれ、国民の間では、このままには放置できない、選挙を何とかしなければならないという声が強くなり、選挙界の腐敗堕落、特に悪質な事前運動に対して強い批判が加えられた。この時に当たって、一大国民運動を展開し、正しく明るい選挙を実現しようという呼びかけが数名の有志によってなされ言論・実業・経済、婦人等各界の全面的な支持を受けて、昭和27年6月4日「公明選挙連盟」の結成となった。
こうして公明選挙運動は、第25回衆議院議員選挙を目標に展開され、さらに引き続いて第26回衆議院議員選挙、第3回参議院議員選挙を経験した。この3つの選挙を通じて公明選挙は国民の間に広く滲透し、かなりの成果をあげたが、一方、公明選挙運動とは結局はひとつの政治教育運動であって、急場の運動では決して充分な効果をあげ得ないこと、そのためには、選挙のあるなしにかかわらず常にこの運動を推進し、有権者1人1人に選挙についての常識と主権者としての自覚を、しっかりと身につけてもらうことが必要だということがはっきりしたのである。
この考えにもとづいて、以来運動の重点は常時啓発活動に置かれ、公明選挙強調期間の設定、政治講座や講演会の開催、社会学級や公民館活動との提携等が行なわれたが、同時に何か常時啓発活動の中心とするに足りる、いわばきめ手といったような活動手段はないかということが考えられたのである。この点から注目されたのが「共同研修」と呼ばれる方式であり、これは常時啓発活動推進の過程で各地に見られた「常会」とか「研修会」とかいった形の小さな集会に端を発したもので、民主的・自主的な方法によって運営される小人数の集会で、お互いに討議懇談することによってお互いを高めて行こうとするものである。「共同研修」は昭和28年後半からはじまったが、何分経験も浅いことであり方法として未熟の点も多かった。
そこでこの「共同研修」について種々研究、反省を重ねた結果、とりあげることとなったのが「話しあい」の方式である。こうして「話しあい」がとりあげられたのは、昭和31年春のことでこれによって公明選挙運動は、その方法手段のうえに大きな転機を迎えたのである。
一方昭和27年以来、民間の公明選挙運動の進展に対し、国・地方公共団体は常に側面からこれを援助し協力して来たが昭和39年には、公職選挙法の一部が改正されて、自治庁長官(現自治大臣)・中央選挙管理会・各選挙管理委員会について常時啓発の義務が明文で定められ、そのための財源措置も行なわれ、国・地方公共団体も積極的に公明選挙運動の一翼をになうことになった。更に昭和32年には「公明選挙常時啓発委託事業」が創設されて、各種の常時啓発事業が国から各選挙管理委員会に委託され、その事業の中心が「話しあい」の実施に置かれることになり、以来すでに12年あまり「話しあい」による公明選挙運動は一層広く行なわれるようになり、地道ながら一歩一歩着実にその歩みを進めてきたのである。
二、身延町における選挙啓蒙運動
身延町における公明選挙の啓発が行なわれたのは、昭和37年5月15日に身延町公明選挙推進協議会が設立され、公明選挙常時啓発事業要綱(昭和32年4月25日自治庁告示第19号)に基づいて、各種選挙の行なわれる都度選挙法を守る運動の展開、民間における公明選挙推進協力者の相互研修、公明選挙強調週間の設定等、公明選挙運動の総合的企画推進を協議し、関係機関との連絡を図って公明選挙の常時啓発事業を進めてきたのである。
協議会は委員17名をもって構成している。昭和38年1月10日の町議会において公明選挙宣言を決議し山梨県において最初の公明選挙宣言の町として注目されたのであった。昭和40年公明選挙運動は「明るく正しい選挙運動」と改称され同年第7回参議院議員選挙、昭和42年第31回衆議院議員選挙とそれぞれ運動を展開してきたのである。
昭和42年4月11日開催の「明かるく正しい選挙推進協議会」においては来る8月の町議会議員選挙に際しての選挙人の自覚をうながし互いに協力して、明かるく正しい選挙の実現を期するため、次の宣言を万場一致で採択している。
宣 言
選挙は自由と公正がその生命である。これがためいろいろなルールが作られている。きれいな選挙は有権者も候補者も運動員もこのルールを誠実に守ることによって明るく正しい選挙に徹することにあると信ずる。
今回の選挙の重大な意義を深く胸に刻み、明るく正しい選挙推進の運動に従うわれわれとして責任のまことに大なることを痛感しこの運動を進めている同志を挙げて目的達成を期せんとする。
同時に全有権者が今こそ勇気を奮って粛正の記録をうち樹て積弊の一掃に当る。よって
一、挙って投票、棄権をしない。
一、選挙法を守り、違反を絶滅する。
一、勇気をもって信ずる人を選ぶ。
これを全有権者に期待しここに宣言する。
身延町明るく正しい選挙推進協議会
選挙の啓発運動に対する世間の批判は最近きびしくなって来ているように思われる。昨年7月行なわれた参議院議員選挙の際、松尾岐阜市長が、明るく正しい選挙をしろと求めるのは市民に対して失礼であるといって、市選管に市役所の建物の横幕や市営バスに巻いた腹かけ幕の撤去を申し入れた。しかし、結局は標語を変えて幕を掲げた。(43年6月16日読売新聞)この言動は大きな波紋を投げかけた。世間の選挙啓発運動への批判の一端の現われと見ることができる。
常時啓発の中心は何といっても話し合いや学習活動であるが、社会教育の中に取り入れて活動に工夫がなされ相当な成果をあげているところもみられる。しかしながら一般に活動がマンネリ化の現象にあり再検討を求める声もきかれる。その原因としては、参加者が極めて少なく、固定的であり集まる顔ぶれも婦人層が大部分で青年層の参加が非常に少ない、また一般有権者の本運動に対する理解と協力の不足、指導態勢の不充分などの点があげられている。
しかし有権者は、何かといわれながらも辛抱強く、徐々に成長してきており、すでに一般的な選挙啓発の時を過ぎて、今後は、有権者それぞれの政治的、自治的資質能力の開発を重点に有権者がともども考える段階に入ったといっても差支えないであろう。
  
|