第二章 明治以後における産業の変遷

第一節 明治時代

 18世紀の末から19世紀にかけて、イギリスを中心とする西欧諸国においていわゆる産業革命がおこった。ジェームス・ワットの蒸気機関の発明や、製鉄法の発明をはじめとする機械・交通・技術の革命的進歩により、従来の手工業的、家内工業的生産様式は完全に駆逐され、機械による工場制大規模生産即ち資本主義の成立がこれにとってかわったのである。そして、その余波はやがて日本にもおよんできた。日本では、1894年から1895年前後に、軽工業を中心として蒸気力による産業革命が完了した。そして、開港によって外国貿易が盛んになったので、明治政府は、殖産興業を富国強兵とともに基本政策の一つとした。したがって、産業経済は急速に発展し、明治5年(1872)には土地改革を行ない、この間小作争議なども起きた。明治6年(1873)7月には、地租改正を行ない、つづいて明治8年(1875)さらに土地改革を行なった。地租改正の条例と規則の要点は次のとおりである。

以前の年貢は土地の収穫を基準として、田租は米納、畑租は現物納又は代金納であったが、新地租は、土地の価格を政府が決定し、その地価を基準として田畑租とも金納とする。
地租の税率は地価の百分の三とし、地租の三分の一以内を村入費として付加する。年の豊凶により税の増減はしない。
地租は耕作者からではなく土地所有者からとる。
地価は土地の収益を算出し、それを年利率六分で資本金に還元してその額を地価とした。

 このようにして、封建時代の物資現物尊重の時代から、物資換金の産業へと移行してきたので、農家も現物温存による自給から、換金へと切り替える形態に移行したのである。この中にあって身延町は、山多く平地が少なく、山間に部落が点在し、加えて交通の便も悪いという悪条件が重なっているので、換金農林産物の産額もきわめてすくなく、わずかに、繭・三椏(みつまた)・楮(こうぞ)・わさび・椎茸・木炭ぐらいのもので、農林産物の加工工場はもちろん、その他の工場設置も望めなかった。