第二節 産業経済と農民のすがた

一、幕府の体制確立と農民

 前に述べたように検地や、郷村制などの制度によって幕府は、政治経済面で完全にその体制を確立した。「農は国の大本なり」と称して、農業の重要性を強調し、また「士農工商」といって農民の社会的地位を高くかかげながら、庶民の大部分を占める農民を幕府体制確立の犠牲にし、確実に封建社会の枠桁(わくけた)の中へ封じこめて、土地に縛りつけ身うごきできない状態に追いこんだのである。また幕府では経済体制確立のために、未開拓の土地を開墾させて石高をふやし、年貢高をふやすことなどにつとめるなど、摂取をねらいながら、農業の振興をはかった。本町においても、寛文9年(1669)9月8日甲州河内領下山未改新田御検地水帳、天保9年(1839)相又西之入新田開発など、多くの古文書があることから、数多くの場所で開田が行なわれたと推測される。なお詳細は開田の項にある。

二、幕府の殖産興業政策と産業

 国史連絡甲斐郷土史の中に、「当代に入り、特に幕府の保護奨励もあったので、産業は全国的に発達し、当国の如きも見るべきものがあった。中にも、葡萄(ぶどう)・製紙・蚕糸・織物・煙草(たばこ)・甘草等特筆すべきものがある」と、見えている。このように、江戸中期以後幕府は、生産物をふやし産業を盛んにして農民の貧窮を救うため、また、幕府の財政を豊かにするため、農民に市場めあての作物などをつくらせ、また製紙・蚕糸・織物なども奨励して、殖産興業に力を入れはじめた。
 製紙は、平安時代にはじまり、武田家の保護によって漸(ようや)く発達して、徳川時代になると一層隆盛になった。市川(西八代郡)は、良質の紙を多く産出した。毎年幕府から御用紙の命をうけた。幕府は、運上紙取立役人をおいて取立ての事をつかさどらせた。寛政5年(1793)、運上紙を金納と定めた。村役人は、隔年に御用紙を取集めて、束紙のきり口に朱判を押すことにした。岩間・西島などでも良紙をつくったので、運上紙取立役人がおかれた。幕府は、製紙の原料である三椏(みつまた)の栽培を保護育成したのでますます盛んになった。
 やせ地をかかえ、水害や獣害、冷害、干害などになやまされ、さらに貢租や課役に苦しんだ東西河内領民(身延町を含む)の唯一の副収入源であり換金資源となるものは、三椏、楮(こうぞ)の栽培であった。文化11年(1814)5月14日(1770年幕府は農民の強訴を禁じた)三椏の売買について、保村(早川町)名主後見秀八、十島村長百姓九兵衛両人を総代にあげ、東西河内領八十七カ村挙(こぞ)って駕籠(かご)訴を敢行した。この駕籠訴代表7名の中に、本町関係では、下山村名主−太兵衛、相又村名主−栄助、大島村長百姓−文兵衛、和田村名主−重郎右衛門らが、訴状の中に見えている。このことからして、本町でも村民の生活に、重要な三椏づくりが、相当多かったと推測されるのである。
 さて、紙の原料である三椏、楮は、ほとんど市川、西島の紙漉(かみすき)業者によって使用され、紙漉業者は、仲買人から問屋の手を経て買い入れたのである。市川、西島の人々は、御用紙の生産をしていたため特権意識がつよく、原料生産者の農民に三椏、楮の売買をめぐって、圧力を加えたので、むずかしいトラブルが生じていた。
 市川の「紙漉業史−村松志考」によると、次のように見えている。「武田氏より特典が与えられ、徳川氏時代に至って更に特典が与えられた、御用紙上納に要する原料は、毎年紙漉人一同が、会議を開いて、此の年の紙漉人数を調査し、御用紙数量に対して必要量を算定した上、楮三椏仲買人並びに売方と協議して価格を協定し、各原料生産村に対して所要数量を割当て、原料の確保をはかった。なお、御用紙漉出完了までは、他国へ無断で原料を移出することを禁じ不足の場合は、村役人をして探索(さく)させるなど特別の権利をもたせた。しかし、価格は、比較的低廉であった」とある。ところが、寛永21年(1644)、代官秋山半右衛門、名原兵衛支配のとき売物自由となった。これによって、市川西島紙漉人から、原料高のため御用紙並びに船役運上御上納に差しつかえる。これを理由に、市川代官所に願い出て、信州売の荷物を、生産者になんらの通知もしないで差留の封印をした。この一方的なとりきめに対して、自由販売ができるように東西両河内領民が、敢然たって駕籠訴(かごそ)を敢行したわけである。この結果原料は、国内に限り売買すること、値段は市川西島両村立相場として、下値の場合は山口番所手形下付を、仲継問屋連から支配役所に申渡して、他国出しをすることで解決し、秀八、九兵衛は後に罰せられた。
 本町においては、三椏、楮の栽培が換金の重要な財源として、昭和の初期までつづけられた。そして昭和20年頃まで、一部の山畑に僅かに名残をとどめていた。なお、大正5年(1916)大河内村取調書によると、「文化九年(1812)に家庭工業として、紙漉帯金三十一軒、九滝六軒、角打二軒、大島十六軒あり、明治年間一軒もなしと」あり、文政11年(1828)から明治3年(1870)まで、約42年間の甲州相又村御年貢割付帳(相又区所蔵)によれば、各年に紙漉船役、1升8合が割付けられている。本町内の身延下山豊岡地区にも、紙漉きが行なわれていたことが推測される。
 このように、本町内においても、紙漉が行なわれたのは、製紙の原料である三椏、楮が自家で生産され、また仲買人の手を経ないで容易に入手できることなどからではないかと思われる。