第三節 昭和時代

 日本の工業の中で、一番おくれていた化学工業もしだいに発展し、化学肥料の国内生産も、ようやく盛んになって、本町においても、農家に化学肥料が導入されるようになった。また、産業振興のための金融も、円滑になって、各地区に産業組合が設立され、農林産物の移出も容易になり、産業の振興が四地区におしすすめられたので、町民の所得もようやく向上してきた。
 昭和12年(1937)、第二次世界大戦の勃発によって、農家の主要労働力であった男子は、出征又は徴用され、学徒もまた出陣或は軍需工場に動員され、さらに、女子学生女子青年も、続々と戦争遂行のために動員されたので農家の生産はいちぢるしく低下した。こうして国民生活は窮乏のどん底におちこんでしまった。かくして国の総力をあげて戦ったが、昭和20年(1945)8月15日敗戦をむかえたのである。
 昭和21年には、農地改革が行なわれ、更に農業災害補償制度が生まれ、昭和21年から24年にかけて農業改良普及員が派遣され、更に昭和26年には、農地法が施行され、農業委員会がつくられた。この間、道路(農林道)の整備も着々すすんで、農業経営の環境も整備され、さらに、住民の生活指導機関も設置されてきたうえに、農機具の近代化、土地改良、用水路の改修もなされ、さらに、農業技術の向上、金融機関の設置、加えて昭和35年、町の産業振興計画が樹てられ、着々と成果をあげてきたのである。更に、本町では、地域の特殊性を考慮して、果樹、畜産の奨励などを加えて、産業の総合的科学的、近代経営への道を歩みながら、新町建設への道を力強く歩みつづけてきた。しかし、昭和35年以後は、政府の高度成長政策の余波をうけて、人口は都市に流出し、産業工場をもたない本町の人口は、毎年減少の一途をたどっている。昭和43年NHKが、全国都道府県の人口過疎過密を調査したところ、過密は、東京都はじめ21都道府県、過疎は、長崎・高知・山梨をはじめ、25県と報道されている。町当局ならびに住民は、工場の誘致を熱望し町の人口増加と発展を願っている。