第十編 治安と消防第一章 治安警察の起源は、遠く上古五保制(5人組)が相互検察を主眼として、白雉(ち)3年(652)行なわれるに当たって、「凡戸皆五家担保一人為長以相検察勿造非違」と令したことにはじまり、社会における各人の生命財産に対する自衛的活動から出発している。あらゆる面で高度成長した現代の社会生活においても、個人の生命、財産、身体の安全を確保し、互いに住みよい社会であることを万人が願っている。このためには、社会の秩序、治安の維持が保たれなければならない。 本章では、本町における警察制度の沿革のあらましと、治安対策について記す。 第一節 旧来の警察制度一、旧幕時代(代官所時代)武田氏時代には自治警察的5人組の上に地頭があったが、享保9年(1724)甲斐国が徳川幕府の直轄地となってからは、村の治安は代官所が取り締まった。明和元年(1764)市川に代官所が置かれ、当地方はその支配に属した。当時は警察権行使のための役所もなく、時々役人が市川代官所または幕府より巡回して取り締まりにあたった。しかし、事件の裁判および刑の執行は市川代官所において行なった。 当時各村には村役人をおき、その総代は常に市川代官所に伺候し、代官の命令を管轄の村々に伝え、代官所との仲介所となって租税、警備、訴訟などのこと、ならびにこの方面の軽い事件を取り扱った。また各部落には番人をおき盗賊その他の取り締まりに当たり、南部の番人は牢(ろう)屋を有し、付近の罪人を一時収容した。従って軽易な犯人は番人協力して逮捕し市川代官所へ送致し、重大犯人で逮捕困難な者は、市川代官所の出張を待ち協力逮捕した。また通船の取り締まり、宿屋の取り締まり(宿泊人)は村役人においても行なった。当時は栄村十島富士川岸に船番所があり、通行人の船中の取り締まりを行なった。万沢村には万沢関所があり、通行人の諸取り締まりを行なった。犯罪発生防止には村役人および5人組制度が利用され相互責任制によって治安を保った。しかし、旧身延には日蓮宗総本山身延山久遠寺があり、また、徳川御三家の一つである紀伊家のお万の方の菩提寺、大野山本遠寺があり、いずれも寺社奉行の支配であった。また、本遠寺は寺社奉行といえども直接行動に移れず、一応紀伊家の意向を伺わなければならない特別地域であった。 二、明治時代明治の新政府となってからは、代官の手付、手代は廃され、国民の取り締まりは甲府駐屯(とん)の諸藩の兵(鰍沢関門は秋月藩の護衛隊8名—10名で固めていた)によってなされていた。しかしこの関門取締まりは明治2年(1869)2月15日に廃された。明治3年1月捕亡吏と称するものが置かれ取締まりに当たった。一般村方における取締まりは従来と大差なく、村役人や番人等が当たったが、漸次政府の基礎が鞏(きょう)固になるにしたがい、明治5年(1872)甲府に警保寮出張所が設けられ大警視以下が来任し、常に警保寮巡査5—6名が各村々を巡回し警防することとなった。三、南部警察署明治6年(1873)8月鰍沢村に第3連区10番取締出張所が設けられ当地方はこれに属していたが、明治7年6月南部に警察出張所が設けられてからは南部に属するようになった。この出張所は睦合村南部8387番地の民家を借り、所内の組織は明らかではないが、取締まり番人4—5名が配置されたと思われる。明治8年3月太政官通達により捕亡吏、取締まり番人を邏(ら)卒と改称し、更に邏卒を巡査と改めた。明治8年(1875)12月の改正により、鰍沢に第3連区の警察出張所が置かれ、南部は第3連区第2番巡査駐屯所と改められた。位置は睦合村南部499番地の民家を借り、組織は2等巡査を長とし巡査4—6名が勤務した。明治10年2月警察出張所は警察署に、巡査屯所は分署と改められたので鰍沢警察署南部分署となって、南巨摩郡身延村外五ヵ村、西八代郡のうち大河内、栄両村を管轄区域とした。明治11年4月、近隣村々をあげての献金により、同地に峡南に誇る南部警察分署の新庁舎が建設された。この時の材木は大野山本遠寺より寄付された。署の定員は8名となり、2等巡査1名、3等巡査2名、4等巡査5名となった。明治12年(1879)南部警察署と改称、同14年より署長を9等警部とし署員も11名となった。同15年(1882)より署長は警部補となり、明治15年12月からは巡査に帯剣が許された。分署制の復活に伴い、同16年再び鰍沢署南部分署と称するようになり大河内、栄二ヵ村は市川警察署の管轄に属した。明治24年(1891)、警察制度の実施により南巨摩郡警察署南部署と改称し、同27年より再び大河内、栄二ヵ村を管轄し、29年、南部警察署と改称し現在に至っている。この間、駐在所、派出所の設置があり、勤務方法も内勤外勤制となり従来の警備体制に根本的な改革が加えられた。南部分署に設置された巡査派出所駐在所は下記の通りであった。 福居村巡査派出所 明治20年1月設置
署の定員は、明治29年には13名であったが、順次増員され昭和2年(1927)には警部1名、巡査部長2名、巡査19名の計22名の勤務であった。また、明治43年(1910)には40年の水害の反省から本県特異の林野警察課が設けられ、南部署内にも2名の林野巡査が配置されて現在の取り締まりを行なった。この制度は明治44年の恩賜林の下賜により入山者も増えたので巡査も増員されたが、その後、山林行政も安定するに従い機構も旧に復し、昭和21年には廃止された。身延巡査駐在所 明治22年3月設置 大河内巡査駐在所 明治23年1月設置 豊岡巡査駐在所 明治23年5月設置 万沢巡査駐在所 明治23年4月設置 栄巡査駐在所 明治21年8月設置 睦合巡査駐在所 明治22年4月設置 富河巡査駐在所 明治20年12月設置 日清、日露の戦争を契機として警察機構も強化され、大正初期には国家の権威を象徴する警察として思想行政分野まで干渉し、また、昭和の戦時経済時代には経済取り締まりをするなど国家権力の尖(せん)兵としてそのままの姿で第二次世界大戦の終りまで及んだ。 |