第十一編 宗教

概説
 身延町における宗教分布の状況を、仏教寺院について見ると、日蓮宗と禅宗の2宗にとどまる。本町に日蓮宗の多いのは今更いうまでもない。禅宗(臨済宗三ヵ寺、曹洞宗六ヵ寺)は下山および大河内に所在する。武家によって深く信仰外護された禅宗は武田氏の力によって当町にも栄えたものである。往昔この地区に真言宗寺院があったことは、諸伝の資料で明白であるが、これは南部氏が初め真言宗であったことから当然と思われる。
 神社は往古より民族の信仰の中心として各地に奉祠された。その起源および発展は幾多の変遷を経過しているが、地域住民と深く結合し、住民は氏子として、祖先伝来の家の宗旨とは別に崇敬し、神社の維持につとめてきた。
 近代に至りこの地域に、天理教、キリスト教の布教が行なわれてきたが、信奉者は多数ではない。また近時新興宗教の信者もあるが、その数はまだ少ない。

第一章 日蓮聖人と身延山

第一節 日蓮聖人出現前後の社会並びに仏教状勢

 わが世の春をうたい、さしも栄華を極めた平氏も寿永4年(1185)3月長門(山口県)の壇の浦に全滅した。建久3年(1192)源頼朝は、征夷(い)大将軍となり鎌倉に幕府を開いた。元久元年(1204)将軍頼家は、母政子の父北条時政に伊豆で殺され(年23歳)政権の大勢は北条氏に帰した。頼家の弟実朝(1192−1219)が将軍となったが、承久元年(1219)鶴ヶ岡八幡宮において別当公暁(頼家の子)のために殺され(28歳)源氏は3代で亡びた。
 この時朝廷では後鳥羽上皇が院政をとっていたが、かねてより幕府打倒、政権回復の志があった。承久3年(1221)5月執権北条義時(1162−1224)追討の院宣を下した。しかしこれに応ずるものは少なく、一方頼朝の後室政子(1156−1224)の下知に振い立った関東勢は、20万の大軍をもって約1ヵ月にして京都を占拠、幕府は後鳥羽・順徳・土御門の三上皇を配流した。世にいう承久の変は、日蓮聖人誕生の前年であった。
 日蓮聖人のおられた鎌倉は非常な不安と恐怖のさ中にあった。将軍の地位も執権の立場も不安定であり、御家人、大名も明日の身の知れぬ有様であった。加えて天災地変が頻(ひん)発していよいよ社会不安を増した。承久元年(1219)より文応元年(1260)に至る42年間に記録に載せられた災禍は次のように数えられている。
天災 180 地震 114 大風 78 洪水 19 火災 54 炎旱 6 飢饉(きん) 7 疫癘(れい) 16 騒乱 38 計 512
 そして最大の国難蒙古の来襲があった。
 鎌倉時代の初め、蒙古の鉄木真(てむじん)は遊牧民族を統一し、蒙古国を建てて、成吉思汗(じんぎすかん)と称した(1206)。そののち、蒙古は次第にその版図を広め、東は高麗、西はロシア・ポーランド・ハンガリー、南は安南に至る大帝国を形成したが、5代忽必烈(くびらい)のときに、都を大都(北京)に定め、国号を元と称し、南宗を滅ぼし、(1278)さらに進んでわが国に襲来した。文永・弘安の役がこれであるが、幸いわが国はこの難をきり抜けることができた。文応元年(1260)日蓮聖人の「立正安国論」の幕府への上書は、この外難の予言であり、また国政に対する宗教的批判、ならびに献策であった。
 世はまさに恐怖時代であった。神官僧侶は、攘災祈祷に日を暮した。