第二節 新仏教の興隆

 日蓮聖人の出られた鎌倉時代の宗教としては、新仏教の興隆を挙げねばならない。しかし新仏教が興隆したことは、旧仏教が直ちに無力化したことを意味しない。旧仏教は依然として社会上大きな勢力をもっていた。また旧仏教、ことに奈良仏教の中にも、新仏教の興隆に刺戟されて革新の気運が見えたことは注目される。新興の仏教は武士および庶民の間に普及した点において旧仏教と異なる。真言宗も、天台宗も、立宗の初めにおいては奈良仏教に反逆する日本的な新仏教であったが、やがて貴族仏教に堕した。一部の上流階級の宗教と化した旧仏教に対して、新興階級の武士および庶民の仏教として興隆したのが鎌倉時代の新仏教である。
 平安時代前期に開創された天台(最澄767−822・805開創)・真言(空海774−835・806開創)の両宗も貴族化し、また奈良の諸宗も次第に形式化世俗化の様相を強めて行った。南都北嶺の諸寺、すなわち興福寺・東大寺・延暦寺・園城寺の大寺院は広大な荘園を所有し、武装した僧、すなわち僧兵をたくわえて諸寺互に争い、大寺の焼亡相次ぎ、殊に興福寺の奈良法師や延暦寺の山法師は、春日の神木や日吉(ひえ)の神輿を奉じて乱暴を働らき、朝廷に強訴し、白河法皇を大いになやましたことは有名である。
 仏教には釈尊の入滅以後の仏教流伝の状態を予想した正像末の三時説がある。すなわち仏滅後の教、行、証の三法を具備する時代を正法(1000年間)、次いで教行があって証のない時代を像法(1000年間)、教のみあって行、証のない時代を末法(1万年)という。そして当時一般に用いられた仏滅年時は、周の穆(ぼく)王53年(949)であったから、その後2001年すなわち末法に入った初年は永承七年(1052)に当るものとした。
 前述の様に教界の俗化、僧兵の横暴、政治の腐敗、天災地変の頻発等を眼前にした人々は、上層下層を問わず末法の到来を信じ、恐れおののき、仏法滅尽の末世を悲しんだ。
 世を覆(おお)う末法意識によって此世を厭うべきものと観じた人々は、救済を浄土の彼岸に求めんとするに至った。厭離穢土(おんりえど)、欣求(ごんぐ)浄土を教える弥阿(みだ)信仰は、時代人の帰依(きえ)を集めたのであった。そしてこれらは鎌倉時代の新仏教興起の基盤をなすものであるが、今日蓮聖人出現前後の仏教界を一瞥(べつ)するに、最初に良忍の融通念仏宗が挙げられる。

一、融通念仏宗

 聖応大師良忍(1072−1132・61歳寂)は初め叡山で修学し、23歳で大原(山城)に隠遁(とん)し、来迎院を建ててもっぱら浄土の行を修した。

二、浄土宗

 明照大師法然(源空・1133−1212)が浄土思想を大成して念仏往生の一宗浄土宗を開いた。良忍の弟子叡空について勉学し、智慧第一法然房といわれた。源信(942−1017)の往生要集を読み、その指南によって善導の「観経疏」を極め43歳安元元年(1175)一向専修の念仏宗を開いた。

三、浄土真宗

 法然上人の専修念仏をさらに徹底せしめたのがその弟子親鸞上人(1173−1262)である。承元元年(1207)師の法然が流刑に処せられた折、彼も越後に流されたが、謫(たつ)居5年建暦元年(1211)許された。赦免の後、承元元年(1207)関東に移り、常陸を中心として念仏を弘通することおよそ20年、後帰洛(らく)して多く著述に従い弘長2年(1262)11月28日90歳で寂した。
 元仁元年(1224)52歳の時顕浄土真宗教行信証文類(6巻・略称教行信証)を著わして、ここに浄土真宗を開いた。ちなみに日蓮聖人開宗は30年後(1253)。
 親鸞上人の帰洛(らく)(1235・63歳寂)後、東国に弥陀の信仰を弘めたのは浄土宗鎮西派の然阿良忠(1199−1287)である。彼は日蓮聖人と同時代に鎌倉に念仏を弘めた。鎌倉幕府の上層部や上級武士と結びついた彼は、念仏を排撃する日蓮聖人と対立し、日蓮聖人の佐渡流罪(文永8年1271・50歳)の画策者は極楽寺忍性と良忠だと日蓮聖人からいわれている。

四、禅宗

 教外別伝不立文学、直指人心見性成仏を主張する禅宗は鎌倉時代に支那から伝わったが、禅宗各派の内、我国に伝わったのは臨済禅と曹洞禅黄檗禅である。
(一)臨済宗
 栄西禅師(1141−1215)備中の人、前後2回宋に渡り、臨済禅を伝えた。後鎌倉に下り、正治2年(1200)平政子の帰依によって寿福寺を創建、建仁2年(1202)頼家の援助によって京都に建仁寺を建立した。教義が簡素で武士の間に信仰された。建保2年(1214)将軍実朝に「喫茶養生記一巻」を録させたことは著名である。翌3年75歳をもって示寂した。
 臨済禅の興隆はわが国高僧の輩出にもよるが、他面またこの時代に、宋の禅僧が多数来朝したことにもよる。
(二)曹洞宗
 臨済宗が鎌倉を中心に政治的権力と結びついたのに対し、それとの接触を避けて独自の展開を示したのが、承陽大師道元禅師(1200−1253・54歳寂)の伝えた曹洞禅である。始め栄西禅師やその嗣明全(仏樹1184−1225)に師事したが、貞応2年(1223・日蓮聖人誕生の翌年)明全に従って入宋し、在宋4年曹洞禅を伝承して帰朝した。禅師は権勢に接近せず、市井の住居を避け、閑寂の地にあって偏に学道坐禅に努めたが、後、永平寺を開いた。ここで地方の武士や民衆を教導した。
(三)黄檗宗
 支那より渡来した隠元隆禅師が将軍家綱に謁し、のち寛文3年(1663)6月御水尾天皇の帰依を受け、山城国宇治に支那住山の地名を踏襲し、黄檗山万福寺を開き大本山となし、爾来533ヵ寺の末寺を携え、天下に黄檗の禅風を弘めた。
(四)律宗
 平安時代初期には、鑑真(がんじん)律師(686−763)の伝えた戒律は次第に衰微し、中期を過ぎるとその法脈もほとんど絶えた。しかし、鎌倉時代に入った一般社会の復古的傾向や、浄土宗や禅宗等の興隆に刺戟を受けるとともに、心ある仏教徒の反省と自覚とが促進され戒律の復興を志し律僧の養成に努めた。
 良観は、関東に下り北条氏と結び極楽寺に晋(しん)山して、その庇(ひ)護のもとに教えを弘めた。彼は日蓮聖人によって痛烈な攻撃を受ける立場にあったので、聖人の法難の裏には常に良観の影が動いていた。
(五)華巌宗
 なお、この時代華巌宗の高弁もまた有名である。(1173−1232)
 建永元年(1206)後鳥羽上皇より華巌興隆の地として栂尾山を寄せられ高山寺と称した。一世の師表として公武の尊信を集めた。
 以上が日蓮聖人出現時代の日本仏教界の概観である。