第三節 日蓮聖人の略伝日蓮聖人は13世紀の初め西暦1222年(後白河天皇貞応元年)2月16日(太陽暦4月6日)に、房総半島の突端、千葉県天津小湊に誕生された。父を貫名次郎重忠、母を梅菊といい、幼名を善日麿と命名された。善日麿は12歳の春、小湊より西北の山頂にある清澄寺の道善坊に仕えて修行し、名を薬王麿と改めた。この清澄寺は奈良朝(710−794・84年間)の末、宝亀2年(771)に不思議律師によって開かれ、その後平安朝に至って、承和年間(834−847)比叡山の第3代座主慈覚大師円仁(794−864)の天台密教の法灯を伝えた関東屈指の名刹(さつ)であった。 師の許において給仕修学すること5年、16歳の嘉禎3年(1237)受戒得度し、是聖房蓮長と名を改めた。 蓮長は寸暇を惜しみ、山内の諸先輩について学び学問は次第に進んだが、同時に新たなる疑問を持った。山中の学匠は皆天台または真言の学を修めながら、行は浄土の念仏という、知と行と不一致の行学を行ない、それを異としない態度は何故か、また仏法の開祖は釈迦牟尼仏であるのに、今数多くの宗派が別異を構え、我こそは仏の正意を得たものと主張している。所詮仏法は一味であるべきはずであるのに、この混乱はどうしたことであろうか。真実はいずれにあるのか、更にまた仏の教えが弘められると、国は平穏で民は安泰であるというのに、どうして「承久の乱」(1221)のように一天万乗の君主が、義時のために破られるような結果になるのか、その理由は何か。蓮長は必死になって清澄の蔵書を読み疑問解明に努力した。 如上の疑問を解くことのできる、また一切の経論、一切の宗旨を批判し得る「日本第一の智者」になさせ給えと、清澄山の本尊であった虚空蔵菩薩に3、7日の祈願を志した。そして純真無垢(く)の真剣なる祈願は通じた。それからは、心身にわかに爽快を覚え、眼前一時に開明の思いをされて勉学も日に日に進んだのであった。 蓮長の研鑽は昼夜を分かたず続けられた。しかし後年「本尊問答抄」に「遠国なる上寺となづけて候へども修学の人なし」と記されているように、清澄山の環境は到底熱烈真摯の求道に励む蓮長の心を満たすことはできなかった。こうして遂に教を求めて諸山遊学の途に上ることとなり、暦仁元年(1238−17歳)まず鎌倉に向った。鎌倉にあること4年、広く諸寺を歴訪し、主として念仏と禅とを学んだが、当時の鎌倉は、後年のように学府として盛観はまだ見られなかった。仁治3年(1242)21歳の春、ひとまず清澄に帰省した。そして「戒体即身成仏義」1巻を執筆されたが、本筆は最初の著作である。 同年更に天下周遊の大志を懐(いだ)き、当時仏教教学の中心地、叡山遊学の途に上ったのである。時あたかもこの年6月15日北条泰時が鎌倉で60歳で死ぬと間もなく、彼等のために承久3年(1221)佐渡に遷された順徳天皇が、配所にあること22年、9月12日46歳をもって真野で崩御されたのであった。 蓮長は、叡山において深く伝教大師の真意を探り、その間あるいは三井の園城寺に、あるいは奈良に諸宗を尋ね、高野山に登り、京都に出て学ぶ等、研鑽の歳月を閲(けみ)すること11ヵ年の長きにわたった。こうして清澄にあって発願したように、一切の経論、諸多の宗旨を究尽して積年の疑問は漸く解決した。すなわち仏法はただ一味なること、仏は釈尊一仏であり、法華経こそ釈尊の正意である。今や仏教は蘭菊の美を競っているが、国が乱れ、民が不幸に泣いているのは、すなわち法華経の正意が忘れられているためであるとの確信に到達されたのである。 心中深く決するところあった蓮長は、建長5年の春比叡山を下り、故郷に戻り、父母師匠等に久闊(かつ)を叙した後、清澄山の一室に籠(こも)ること7日、何事か深く考えるのであった。当時のことを後年開目抄に次のように述べられている。 日本国にこれを知る者はただ日蓮一人なり。これを一言申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし。いはずば慈悲なきに似たり−いはずば今生は事なくとも、後生は無限地獄に墜つべし。いふならば三障四魔必ず競ひ起るべしと知りぬ。王難事出来の時は退転すべくば一度に思ひ止むべし。
こうして広く仏法の正邪を判別し、一切衆生をして正しく知らしめ、正しく歩ましめ、正しく栄えしめるために、迫害を恐れず、ここに建長5年(1253)四月廿八日、清澄山頂において、太平洋の彼方より暁闇を破って輝き登る旭日(あさひ)に向って、南無妙法蓮華経と高らかに唱えて開宗の宣言をされたのである。この時新たなる出発を記念して蓮長の名を日蓮と改名した。これすなわち、法華経の末法弘布の導師たることを表示せる御名に外ならない。そしてこの日より法華経第十三勧持品に説かれている、所謂三類の強敵群り起り、昼夜を分かたず迫り来る法難の裡(うち)に終始する法華経色読の行者の伝道の幕が揚げられたのである。 天に向って開宗の儀式を行なった日蓮聖人は、次に人に対して説法の第一声を放った。清澄寺内外の僧侶および地頭の東条景信等が、固唾(かたず)をのんで、いかなる談義を行なうかと、傾けた耳に響いたのは、痛烈なる諸宗の批判であった。 一代聖教総じて内典外典に亘りて残り無く見定め、生年三十二歳にして建長五年癸丑四月二十八日、念仏は無間の業なりと見出しけるこそ時の不詳なれ、如何せん、此法門を申さば誰か用ゆべき。返て怨をなすべし。人を恐れて申さずんば仏法の怨となりて大阿鼻地獄に堕つべし。
最初の説法は寺中の大衆を驚かしたのみならず、地頭の憤怒をかった。彼は、強情な念仏者であったため、師の道善房は景信を恐れて勘当した。聖人の父母はどういう態度をとったか。父母手をすりてせいせしかども、師にて候ひし人かんだうせしかども−ついにおそれずして候。
の文に、父母の慈愛に満ちた態度と困惑の状が偲(しの)ばれる。四囲の情勢から、両親としても詮(せん)方ないことであったろう。末法の衆生に法華経を説けば、直ちに迫害が起るという経文は即座に事実となった。 法華経を身に行ずる、すなわち色読の第一歩を踏み出した聖人は、故郷を出るに当たってまず両親を教化されて、妙日、妙蓮の名を授けた。故郷を追放された聖人は、伝道の舞台を覇(は)府鎌倉に選んだ。名越の松葉が谷に草庵を構えて伝道の本営とし、日々小町の辻に立って宗教革命の旗を飜(ひるがえ)した。道行く人々に対し、諸宗の邪義を徹底的に糾弾し、救世護国の教法は、法華一乗に限ることを力説した。斯(か)く聖人の破邪折伏(しゃくぶく)の説法は、次第に理解者を増し、約4ヵ年の間に富木常忍、四条頼基、工藤吉隆、池上宗仲、荏原義宗、進士義春など有力な武士の改宗入信者を見ることとなった。また比叡山より聖人を訪ねて、門下最初の弟子となった日昭上人の縁によって、後年師孝第一といわれた日朗上人も門下に加わり、聖人の身辺に給仕するに至った。 文応元年(1260)7月16日に前の執権北条時頼の近侍、宿屋光則の手を経て一書すなわち立正安国論を時頼に提出した。現在種々の天災地変による災難が頻発し、国民塗炭の苦しみにあるのは、これひとえに仏法が一国挙りて邪なる故であって、特に念仏の流行によることを、経証を挙(あ)げてこれを論述し、若し今にしてこれを改めなければ、内乱と外敵の起ることを論断し、正しい教法の信仰、すなわち法華経を弘めねばならぬことを主張したものである。この立正安国論の建白は、為政者にとって甚だ不遜(そん)な革命的態度に思われたことは当然で、この上奏によって以後公私のあらゆる迫害が聖人の身辺を襲った。
伊豆流罪中に伊東の地頭伊東八朗左衛門尉信濃守の病気平癒祈祷の布施として、海中出現の立像の釈尊像を贈られた。以後聖人の全生涯にわたり随身仏として給仕供養されたものである。 竜口法難に次いで聖人は佐渡へ流され、これとともに、聖人の有力な門下僧俗は投獄され、教団はほとんど壊滅状態となった。聖人は佐渡へ流罪されて、これまでの法難が経文に合致し、いよいよ自身が法華の行者であるとの信念を固められた。苦難の日々であったが、しかもその間において、最蓮房、遠藤為盛すなわち阿仏房日得、千日尼、為盛の弟盛国、国府の入道等の熱心な信奉者を得たのである。 昔から佐渡に流罪せられた者で生還した者は稀有(けう)とされた。承久3年(1221)7月北条義時のために佐渡に遷された順徳上皇も、配所黒木の御所に座して、郭公の声を聞いては「鳴けば聞く聞けば都の恋しさに此の里過ぎよ山時鳥」と詠ぜられ、涙にくれて22年間仁治3年(1241)9月12日46歳をもって佐渡に崩御されたのである。しかるに日蓮聖人は、天の計らいともいうべきか、文永11年(1274)(53歳)2月14日執権北条時宗より、佐渡流罪の赦免状が鎌倉の門下に下された。師孝第一の日朗は歓喜勇躍、これを携えて佐渡に向ったが、途中天候に妨げられて20余日目の3月8日一の谷に着き、師弟相抱いて再会の喜びの涙に咽(むせ)ばれたのであった。 鎌倉以上に忍難の佐渡の生活ではあったが、その中でともに不惜身命に法華経の修行に精進した。阿仏房夫妻、国府の入道他の人々は、赦免を喜ぶ反面、別れては再び会うこと難き別離の悲しみに泣いたことである。されば聖人も、 しかるに尼ごぜん並に入道殿は、彼の国に有時は人めををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせめをもはばからず、身にもかわらんとせし人々なり。さればつらかりし国なれども、そりたるかみ(髪)をうしろへひかれ、すすむしか(足)もかへりしぞかし。いかなる過去のえん(縁)にてありけんと、をぼつかなりしに、又いつしかこれまでさしも大事なるわが夫を御つかい(使)にてつあはされて候、ゆめか、まぼろしか、尼ごぜんの御すがたをみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ。日蓮こい(恋)しくをはせば、常に出る日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまらせん。
3月13日佐渡を出発、同月26日に無事鎌倉に到着した。この路次に当たる越後の国府(今の高田)信濃の善光寺の念仏、禅、真言等の法師達が途中要撃の準備をしたが、国府から多数の兵士が途中の護衛についたのでどうすることもできなかった。六月十六日(建治元年(一二七五)五十四歳) 日蓮花押 さどの国のころの尼御前 聖人は実に文永8年(1271)10月以来前後4ヵ年(30ヵ月)にして鎌倉に戻り、鶴岡八幡の参道に近き、夷堂橋ぎわの法華経堂において弟子檀越に再会した。次で4月8日侍大将平左衛門尉頼綱に面会し最後の国諫を試みられた。 惟(おも)うに、文応元年(1260)(39歳)7月16日、立正安国論の献策。 文永8年(50歳)9月12日、逮捕に向った平左衛門に対する「我を失ふは日本の柱を倒すなり。内乱外敵は立処に起る。」との警告。 文永11年(53歳)4月8日、平左衛門に外敵(蒙古)の来襲を告げ、「真言師に祈祷を任すべからず。真言師に祷古調伏を任すならば、いよいよ国亡ぶべし。」との前述3回の諫言をもって「余に三度の高名(手柄)あり」と述べ、かつ「此の三ヵの大事は日蓮が申したるにあらず、只ひとえに釈迦如来の御神(みたましい)我身に入りはからせ給へるにや。我身ながらも悦び身にあまる。」と述懐されているが、しかしながら身命を捨てての前後3回の至誠も遂に通じなかった。斯(か)くて、 抑も日蓮は日本国を助けんとふかく思へども、日本国の上下万人一同に、国のほろぶべきゆえにや、用ゐられざる上、度々あだをなさるれば力およばず、山林に交り候ひぬ。
すなわち3度国を諫めて用いられず、この上は古賢の例にならって身を山林にひそめ、末法万年に法灯をかかぐべき法器の育成につとめんと決心され、領主南部実長公の御招待を受けて身延山へ入山されたのである。入山途中の情景を次の様に叙(じょ)している。 五月十二日鎌倉を立ちて甲斐の国へ分け入る。路次のいぶせさ、峯に登れば日月をいただくが如し。谷に下れば穴に入るが如し。河たけくして船渡らず。大石流れて箭をつくが如し。道は狭くして縄の如し、草木しげりて路みえず。
この時出迎えた実長公は、 今生は実長が身に及ばん程は見つぎ奉るべし。後生をば聖人助け給へ。
と誓われた。斯(か)くて聖人は実長公の館に留まること1週間、5月24日に、法華取要抄を執筆された。その翌6月17日に西谷に構築の草庵が完成して移られた。すなわち満1ヵ月を要した訳(わけ)であるが、この1ヵ月の間、聖人は甲信地方を遊化されたと伝えられている。 この小庵こそ万年の闇を照らす根本道場の基礎となったのであるが、4年の後には、「柱朽ち、壁をち、月は住むにまかせ、風は吹くにまかせ、−中略−十二の柱四方にかふべをなげ、四方の壁は一そにたうれぬ。」というようになったので居合わせた学生達を督励して応急修理をした。(建治3年冬) さて御入山以来聖人は日々読経、門下僧俗の教養指導、多数の重要な著述等の御日常の裡に、しかも人の子として涙ぐましきまでの追孝感恩の日々を過されたのであった。しかるに聖人の永年にわたる昼夜不断の伝道と幾多の法難を克服した健康体も、御入山後次第に不調を覚えるようになった。 日蓮力下痢(くだりばら)去年十二月卅日(建治3年56歳)事起り、今年六月三日、四日、日々に度をまし月々に倍増す。定業かと存する処に貴辺の良薬を服して今百分の一となれり、しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給うか。地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給へるかと疑ひ候なり。
また弘安4年10月22日富木殿への御手紙に 度々の貴書に対して返報をしないが、老病の上に加へて最近食も進まずして気分勝れぬので、申訳無いことである。
と述べられている。同年12月8日上野殿尼御前への御手紙に 但し八年の間病と申し、としと申し、としとしに身よわく、心をぼれ候へる程に今年は春よりこの病をこりて、秋過ぎ冬にいたるまで、日々にをとろへ、夜々にまさり候ひつるが、この十余日は食もほとをど(殆ど)とどまりて候
と述べられ、次で「去年九月五日故五郎殿御逝去由」に対し、「日蓮は所労のゆえに人々の御文の御返事も申さず候ひつるに、此の事余りなげかしく候へば、筆をとりて候。」と記されている。弘安5年(1282)には、持病いよいよ重らせ給うたにより、弟子、信者の勤めもあり、久方振りに安房を訪れ、かつ常陸の湯治を志して、9月8日身延山を御出立、同18日、武蔵の国千束郷の池上宗仲の館に着かれた。そしても早聖人は故郷の安房へも、湯治にも往ける身ではなかった。同月25日大衆のために最後の講義として、「立正安国論」を講ぜられ、10月7日、すなわち遷化前7日、波木井氏への書翰に、 我此山は天竺の霊山にも勝れ、日域の比叡山にも勝れたり。然れば吹く風も、ゆるぐ木草も、流るる水の音までも、此山には妙法の五字を唱へずということなし。日蓮が弟子檀那等は此山を本として参るべし。此則霊山の契也。
また、身延は万年にわたり棲神の地たることを示されて 縦ひいづくにて死に候とも、九箇年の間心安く法華経を読誦し奉り候山なれば、墓をば身延山に立てさせ給へ。未来際までも心は身延山に住むべく候。
翌8日本弟子6人(いわゆる六老僧)を定められ、滅後弘通についての御遺誡があった。13日辰の時(午前8時)御自筆の曼茶羅(まんだら)と随身の釈迦仏の御前、長老日昭上人の打ち鳴らす鐘の音と、一会の大衆の誦経の声に囲繞(ぎょう)されて、61歳を一期として、円満寂静の涅槃(ねはん)の相を示された。この時大地にわかに震い、満山の桜が一時に返り咲きしたと伝えている。14日子の刻(12時)葬送荼毘(だび)の儀を行ない、遺物を配分し、21日遺骨を奉じて池上を出立、同25日身延山に入り、日法上人は、おすがたを作り、77日(11月29日)に奉安し、百ヵ日忌(弘安6年正月23日)舎利を納めて五輪の墓石を建てたのである。
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