第二節 キリスト教

 本町内におけるキリスト教は、下山の荒町に伝道所が1箇所あり、また角打にかつて外人宣教師が在住し、伝道に従事したことがある。
 キリスト教の主な活動は、ほぼこの程度であって、大きな動きが見られないのはやはり身延山の膝元という特別な環境によるものであろう。
 特に旧身延町と旧豊岡村は、古くより1村1宗といわれ、他宗教は入りにくいようであった。
 従って、キリスト教も旧下山村と旧大河内村に主として見られ、下山の場合は、荒町の山内椿房が責任者となり、大正14年(1925)5月に日本メソジスト教会の峡南教会下山伝道所として設立され、当初は鈴木良四郎牧師の指導で、伝道がおこなわれた。
 また、これと同時に日曜学校が開設され、校長には山内椿房、教師には有泉不二隆・山内一海等が当たり毎週開校して、昭和39年まで続いた。
 一方、伝道所は毎週金曜日に伝道集会を開き、随時、名士を招いて特別集会も開かれ、特に年末にはクリスマス特別集会を催してきている。
 また、毎週土曜日には英国人宣教師コーツが、甲府のキリスト教青年会館より来所して伝道につとめたが、大正7年(1918)交通事故により死亡した。
 この殉教死を弔い、後世に伝えるため、昭和42年の秋に記念碑を下山地内に建立した。
 敗戦以後は、日本基督教団の峡南教会下山伝道所と改称され、現在は市川教会の深沢仁司牧師が、出張伝道に来所している。また、日曜学校は家屋改築のため一時休校しており、近く再開されることになっている。
 次に丸滝では、昭和26年に米国人カンラド・ミラー夫妻がきて、民家を借り日曜学校を開設し、主として青少年を対象として伝道しつつ、昭和32年まで在住した。
 その後、同じく米国人が交代して、伝道に尽したが、間もなくして帰国し、教会の設立までには至らなかった。