第四章 教会・講社・その他

第一節 天理教

 天理教は江戸時代の後期、天保9年(1838)に、教祖中山みきの天啓によって創始されたものであり、人類の親と称する天理王命(てんりおうのみこと)を神として祀っている。
 以来、幾多の変遷をみながらも布教活動がすすめられ、明治21年(1888)には神道直轄天理教教会本部が公認され、更に同41年(1908)に宗教教派として一派の独立が認められ、ここに天理教は独立の教団として、広く海外にまで知られるに至った。
 現在同教会本部は、奈良県天理市にあって、中山善衛真柱(しんばしら)を中心とし、その信者数は約300万人にのぼるといわれている。
 本町内における天理教は、角打地区に2箇所の教会がある。
 その一は、角打968番地にある天理教身延分教会であり、その二は同じく角打752番地にある天理教富士身延分教会である。
 先ず「天理教身延分教会史」によれば、本町内における天理教伝道の発端は、明治24年(1891)頃に静岡県藤枝の興津源助が、旧下山村において布教を始め、後に甲府へ転じ、現在の甲府大教会の礎を築いたと伝えている。
 その後、明治27年頃に三重県一志郡榊原教会より、小瀬古房吉・前川新蔵の両布教師が南部町にきて布教を開始し、信者の数も次第に増え、同33年(1900)には旧大河内村角打98番地に、上富士川布教所を設立し、中山太十郎が初代布教所長として本部の認可を得、地方庁への届出もおこなった。
 大正8年(1919)に旧睦合村南部の鈴木熊市郎宅に上富士川布教所を移転することとなったが、同14年5月2日旧大河内村角打地内に、天理教身延宣教所を新しく設け、中山太十郎は再びその初代所長となって布教に専念した。
 昭和10年(1935)に同教会の担任を長男の中山近造に変更し、更に同31年1月には中山茂が教会の担任に任命され、今日におよんでいる。
 なお、中山茂現会長は、天理教山梨教務支庁地方委員、山梨教区南巨摩支部長の職についている。
 次に、「天理教富士身延分教会史」によると同教会の起こりは、旧睦合村南部において産婆を開業していた依田勢つが、大正6年(1917)病気にかかり、天理教に入信して上富士川集談所に通うようになったことから始っている。
 大正15年(1926)の春、現在の身延駅前通りに移転したが、勢つはその後も信仰の念厚く、昭和5年(1930)2月天理教校別科第43期六ヵ月の修養課程を卒業し、天理教教師に補命され、富士身延講社を結成して、その居宅に神床を設けて布教につとめた。
 翌6年9月には、夫富重も同教校別科に入り、教師の資格を得たので、講社を布教所に改め、富重の名儀に変更し、次第に教勢は進展して行った。
 昭和22年7月教堂の新築に着手し、10月初旬落成したので、富士身延分教会設立を申請し、本部真柱より同教会の認可と、依田会長の任命があって、ここに教会として正式な発足をみるに至った。
 依田富重所有の宅地の一部を同教会に寄付して、宗教法人となし、現在、部属に公認布教所1、集談所3を数えるに至っている。