第十二編 家と生活第一章 家第一節 家の制度の歴史一、相続の歴史と意義日本の社会において、家が社会の基本的な単位であるとみる見解はかなり多い。たとえば、藤間生大の「日本古代国家」の第1章「古代家族」の「はしがき」の中にも「まことに家族は人間生活の最低の単位であるが、最も身近かな人間生活の根拠として、いつの時代においても重要性をもっている」とある。ところで、西洋の近代では、家族は夫と妻との個人的結合を中心とする集団であるのに対し、日本では、家は家屋や家業の運営の集団であって、この意味で社会における生活の単位として存在してから、それは成員の生死を超えて、連続することを目標とした。 だから家においては、代々の夫婦はそれを担って行く役割を持つものと考えられ、つまり、家の存在ということを重要に考えてきた。 家を存続させるために、家督および家産を継承する相続の制度もしくは慣行が成立する。 相続の制度や慣行は、時代により、地方によってさまざまに変わってきているが、農村においては、長女相続とともに末子相続の慣行も各地に少なくなかったといわれている。 本町の調査をしてみると、長男相続が最も多く、次に長女に婿を迎えて相続する場合が多い。長男相続がわが国に確立されたのは、足利中期以後であったとされている。しかし、この制度が完成したのは、江戸時代にはいって、武士の相続法として、採用されてからであった。長男相続は、武士階層において家の権威を継続するという要請にそったものであるが、武士以外の農・工・商も、明治8年(1875)の太政官指令で、華士族と同様長男相続に従えということで明治民法に引継がれ、新民法が生れるまで維持されたのである。 また、初生子が女である場合、その長子である姉が弟である長男を差しおいて家督を相続する。いわゆる姉家督の例が、わずかであるが、豊岡地区に見受けられた。 この姉家督の慣行は、農業や漁業において家内労働力を確保、補充する必要性から発生したものであり、農民や漁民の生んだひとつの知恵であるといわれている。 これらは、いずれも一子相続の制度であり、1人の手に家督ならびに財産の全部、もしくは大部分が受け継がれていたのである。 封建的家族制度に慣れ、しかも農地を分割して譲渡すれば生活がなり立たたないまでに零細化した農家では、このような相続制度もだれあやしむことなく今日まで続いてきたのである。 しかし、現在の民法は、家という制度を認めていない。したがって、戸主というものもなくなり、家の相続、家督の相続というものもなくなって、諸子の均分相続に変わってきた。しかし農家の場合、実際には長子以外は相続を放棄して1人の者に一括相続させ、そのほかの子どもには、独立または進学や結婚の際配慮するというのが普通である。 相続制度が家の財産の相続から個人の財産の相続へとかわってきたのには、それなりの社会的要請によるものと、それを容易にした社会的条件があるように考えられる。 つまり、現代はみんなが自分の生活を自分で守っていかなければならない社会となったことである。そして人々は、思い思いの職業について収入を得、その収入で自分あるいは自分と家族の生計を立てなければならない世の中になった。ここに、家は次第にその生産性を失い、共同消費の場となってきたのである。 また、昭和30年(1955)以降の日本の資本主義の急速な発展と、それに伴う全国的な工業化の開発が、労働の機会とその生産性を高めてきたことも大きな理由である。 こうした時代になると、農業経営もこれまでの旧式なものに満足してはいられないし、農家の主な労働力である世帯主や長男なども他産業へ通勤する者が増加してきた。また出かせぎあるいは転出する者も多くなってきた。 中には、同じ町内にあっても、若夫婦が老夫婦と別に住む、いわゆる核家族化への傾向が出てきている。 このように、家そのもののあり方と、相続の歴史は、時代とともに著しく変化してきている。 二、分家近代の家は、横に一夫一婦を中軸とし、縦には親子を中心として、比較的小人数の者が血によって緊密に結ばれ、一つの共同体として、精神的にも物質的にも生活を共にしているのであるが、古い家のあり方は、次節の苗字と家紋のところで述べるように、一部落に同姓が多いことからも、かつては、一つの大家族的構成をなしていたものと思われる。これらの同族家族は、ひとつの血族団体として、かつての経済上の共同性は消失しても、今日なお共同で祭祀をすることなどにその形骸(がい)を残しているものを諸所に見ることができる。その一つの例は、角打における市川家である。市川家はその本家のほかに分家が7軒あるが、その所有地は「地の神」を中心として分布しており、その一帯はすべて市川一族の所有地で、中には売買によって他に譲渡されたものもあるが、それは一部分に過ぎない。「地の神」の周囲には各家別々の墓地がつくられている。「地の神」の祭は10月25日であって、その時には、本家の主人が司祭して、他の分家はそれぞれ参列する。 ここでも大家族が漸次分裂して祭りを共同ですることにそのおもかげを止めている。興味あることは、その所有耕地の連接していることで、最初の祖先が開拓し、次々に分家とともに土地の分割が行なわれたことが明らかに立証できる。 次に、農民が家督を相続する場合、前項の相続の歴史と意義のところにも述べたように長子なり、または末子相続が一般的な傾向であったが、次、3男を分家することも慣習的に存在していた。しかし、幕府は、貢物の低下と個々の農家の零細化をおさえるため、一定基準を設けて分家創出を禁じていた。寛文13年(1673=延宝元年)6月に次のような「分地制限令」を出している。 一 名主百姓名田持候大積名主弐拾五石以上、百姓拾石以上、夫より内持候ものは石高猥分申間敷旨被仰渡
事実、山間で耕作地の狭いこの地方では、分家の創出には相当困難を伴ったことがうかがえる。一般に分家を創出する場合の分け前は、本家の資産状況や分家の事情によっていちがいにいえないが、この地方では、一部の資産家を除いては、本家の農地を細分化することを極力さけ、たいてい、家屋敷と菜園程度を与えて職人として自立させる例が多かったようである。旧下山村を例にみると、文化年間下山村の男831人中204人が大工であり、文政年間は、308人の働ける男の内8割が大工になっている。これは耕地がせまいため活路をこの道に求めたのであるが、作間大工とか百姓大工と呼ばれたゆえんもこのような経済的、社会的な背景から生じたものである。また楮(こうぞ)・三椏(みつまた)の栽培や船頭稼ぎもこの地域にかなった職業であった。また幕末期から明治にかけての収入源として船頭宿や煮売りなどもあった。2、3男の分家も、古くは抱屋というような生家に同居したり、長屋住いをしたりして相当期間生家に奉仕して、しかるのち、1戸を構えるというのがならわしで、現在のように結婚と同時に分家するというようなことはあまりなかったように思われる。また、分家にはこのような2、3男の分家と違って、末子をつれて隠居したり、後妻を迎えたりした場合に、実子をつれて分家した例もあったようである。これらは「いんきょ」という屋号が残っていることからもうかがうことができる。女子の分家は子ども数が少なかったり相当な理由があった場合行なわれた。 分家した場合、本家と分家との関係は、本家、分家、大家、新家の関係が続く、そして分家は、しんや、にいえ、にいや、しんたく、あたらしや、にいしえ、などと呼ばれている。 戦後、分家の制度はなくなったが、近隣へ独立する者、町営住宅へはいる者、他出して家を建てるもの、社宅、アパート、官舎、間借り、などにより独立し、結婚と同時に一家を構えるいわゆる核家族が多くなった。 三、奉公弟子入り江戸中期から明治にかけては、2、3男に限らず、小農の家では、養育とかせぎをかねて、長男や子女も富裕な農家や都市の商家へ奉公に出た。百姓奉公は、年期を定め身代金をもらって主家の農耕に従事した。女子であれば子守りをしたり、下女奉公などをした。「五郎八ただ奉公」という言葉もあるように、年貢米の納入につまったり、借金の代償として奉公に出たことが、その契約書に身代金なにがしとあることからもうかがうことができる。本人がもし逃亡した場合は、その身代金を返すことを主人と奉公人と請人の三者で約束している。 また、都市の商家へ丁稚(でっち)奉公に出る者も相当多数あったようである。この中には、手代、番頭と昇進して店舗を持つようになる者もいたが、その数は少なかったようである。 丁稚奉公の中で、この町では職人になる者が多かったようである。このことについては、前項の「分家」のところで下山大工のことについて述べたが、下山に限らず、農業の合い間に大工をする作間大工あるいは、百姓大工のように弟子入りによって技術を習得したのである。 戦前、実際に弟子入りした人の話によると、弟子入りは、一般に小学校4年ないし6年を卒業した年から6年間の年期で徴兵検査(満20歳)まで親方のもとで修業した。 この弟子入りには、本弟子(ぶっこみともいう)と寄弟子とある。本弟子は、主家が一切のめんどうをみた。寄弟子は、生家の農繁期には帰省して農仕事を手伝うかわりに本人のこづかいや衣服は、生家でめんどうをみるという区別があった。 また、徴兵検査になると、親方は着物・羽織ひとそろいを用意してくれるのが普通のならわしであった。 徴兵検査が終るとたいてい入営まで「お礼奉公」をした。そのお返しとして親方は諸道具一式を与えて労をねぎらった。 戦後、このような奉公、弟子入りの慣行は全くなくなってしまった。 |