第十三編 人物第一章 名誉町民藤井日静上人明治12年(1879)10月1日東京神田錦町陸軍御用達の薪炭問屋豊後屋藤井太郎太の3男として生まれ、幼名三雄、父は豊後(大分県)臼杵藩主稲葉家の祐(ゆう)筆であったが明治維新後商家となった。 両親とも法華経に深く帰依し、篤信の故に明治26年(1893)9月望月日謙上人によって得度して教仁と改名した。山梨中檀林に学び更に東京錦城中学校卒業後、たまたま日露戦役勃(ぼっ)発して旅順攻囲軍の一員として出征、傷病のため帰還後正則英語学校高等部を終え更に祖山大学を明治40年(1907)卒業する。 明治42年山梨県泉能寺住職、大正12年(1923)京都満願寺住職となり、昭和11年(1936)日蓮宗専任教師、12年身延山御廟別当、13年同執事、17年東京身延山別院、21年身延山総務等を歴任して、34年7月身延山第86世の法主となる。 昭和24年権大僧正に昇叙、34年教仁を日静と改め38年第38代日蓮宗管長に就任する。 その間大正6年(1917)9月活動写真「日蓮聖人一代記」を独力で購入の上、日本全国朝鮮満州中国各地を上映布教して一大反響を呼んだ。これは本邦映画布教に先鞭をつけたものと今日も高く評価されている。昭和35年身延山街頭布教隊を組織してその実績を挙げ、昭和38年12月8日日本仏教会管長となり、真珠湾内アリゾナ艦上にて追悼法要を営み米軍極東海軍司令官、在ハワイ邦人に深い感銘を与えて感謝され、ホノルル市長より名誉市民の称号を受け、更に40年サンフランシスコにおいて世界連邦世界大会に日本代表団名誉団長として参加し、「道義の実践」を提唱しハーグにおいて宗教委員会の組織を実現するなど世界宗教人として活躍する。その途次北米各地を巡教し、訪問地のポーランド市長から名誉市民に列せられた。昭和43年2月11日身延町名誉町民に推戴される。 第86世法主として入山にあたって、(1)常随給仕(2)布教(3)興学(4)山林復興(5)財政の確立の五大誓願をたてられて91歳の今日まで1日として朝の勤行を休まれた事がなく、街頭布教の先達となって全国を巡歴、布教教化につとめ、内にあっては身延山大学学長となって校舎大講堂の近代建築を竣工させ、続いて体育館寄宿舎等の完成を期して研学修道の環境整備に意を注ぎ、また、戦後乱伐のため荒廃した身延山に150万本の苗木を植栽し、赤字財政借財約2億円を整理返済して身延山財政を軌道に乗せ、その運営を確立する等、誓願実現とともに昭和41年には総工費8,000万円を投じて身延町梅平に身延山病院を建設して、地域社会の医療施設の拡充に地域住民の健康保持に貢献されている。 昭和41年私学振興の功労により勲三等瑞宝章を授与される。著述に「救国の宗教に生きる」を39年新潮社より発刊し「教報みのぶ」の巻頭に毎月法話を載せて800万信徒の心の糧となっている。 |