綱脇龍妙師 福岡県宗像郡玄海町(旧池野村)池田農儀右衛門の2男として明治9年1月24日生を享(う)け、生来病弱のため福岡県法性寺住職日良上人の得度によって仏門に入り、専(もっぱ)ら修練によって病魔を克服されるとともに日蓮聖人の御遺文と、特に法華経常不軽菩薩品第二十に感激、爾来人間尊重の信念を体得される。明治38年(1905)東京哲学館(現東洋大学)に学び暑中休暇を利用して身延山に参詣(けい)の折三門付近に群がる癩(らい)患者の悲惨な姿とその訴えを聞いて去るに忍びず、祖廟に参籠祈願すること3日、遂に日蓮聖人の啓示を受け救癩の意を決し、日本人最初の私立癩療養所身延深敬園を創立し、自ら園長となって患者の収容を開始した。時に明治39年(1906)10月12日である。因(ちな)みに園名は法華経常不軽菩薩品の「我深敬汝等」より命名したものである。 当時の社会は癩病を忌み嫌うこと甚だしく、師の偉大な人類愛の慈悲を解する者少なく、幾多の障害と迫害中傷が加えられたがますます救癩の意を固められた。国に社会福祉の施策全くなく、僅(わず)かに皇室の御仁慈の他は凡(すべ)ての経費は師の私財と托鉢(たくはつ)や1万人1厘講または篤志家の寄付で賄われたのである。 この難事業を成し遂げてこられた所以(ゆえん)のものは独り師の不屈の精神と限りない人間尊重の大慈悲心によることは言をまたない所である。 大正9年(1920)7月財団法人の認可を得、更に昭和22年新憲法に基づく生活保護法適用施設となり、同26年度より経常費が国庫補助になったことは当然である。 その間昭和5年(1930)福岡市外壱岐村に身延深敬園分園を開設したが、17年軍事保護院の要請によって閉鎖の上敷地を提供し、15年横須賀市大明寺住職となって同30年同寺境内に深愛幼稚園を開設する。 深敬園創設以来救癩六〇余年、病友と不幸病没者の遺骨を守りながら、94歳を迎えてなお終生の業として不退転の忍苦の行をつづけられる姿は実に崇高なものである。 この救癩事業について皇室をはじめ内務省、厚生省、県、町当局より恩賞殊遇を受けられたが、その略歴と功績の概要を摘記すれば次の通りである。
昭和27年より知名寺院信徒篤志家の援助の下に努力を重ね栗生楽泉園に妙法会会堂同32年多磨全生園に、同33年長島愛生園に、同34年邑久光明園に、同38年菊池恵楓園にそれぞれ日蓮宗会堂を建立して宗門に寄与する。
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