第二章 町の先人

  望月小太郎
 慶応3年(1865)11月15日身延に生まれる。山梨県師範学校に入学、官費生となり明治16年(1883)卒業して大里小学校に奉職する。一年余で出京、慶応大学に入学し在学中に議会法その他を飜訳(やく)して中井桜州に認められ、卒業して首相山県有朋に推されてロンドン大学に留学、八ヵ年政治経済学を修め、パリストルの学位を得て明治28年(1895)帰朝する。
 明治28年山県公に随(したが)いロシア皇帝の戴(たい)冠式に、翌30年伊藤博文公に伴われて英国女王即位50年祭に参列する。
 明治33年(1900)伊藤公立憲政友会を組織するに際し、尾崎(がく)堂と志をともにして参じ、35年山梨県選出衆議院議員となり爾(じ)来当選すること7回、国政に参与すること30余年、議会屈指の雄弁家、政界随一の外交家として名声を馳(は)せ私設外務大臣の称があった。
 明治36年(1903)日露の国交急を告げるや単身入露し、そのことに当たって帰国以来開戦の要を説き、37年支那に渡り日支の友好につとめ、大正10年(1921)第一次世界大戦の終結に際してワシントン会議には海軍軍備の比率に関して強硬意見を吐いて活躍する。
 大正14年(1925)憲政会顧問となり国会に明治節設定の建議をなしてその制定をみる。
 昭和2年(1927)友人の補欠選挙応援中病を得5月19日逝去する。
 日露戦争時の功により勲四等旭日章を受け第一次世界大戦時の功によって勲三等瑞宝章を授けられ、没して特旨をもって従五位に叙(じょ)せられ旭日中綬章を贈られる。
 故山にゆかりをもとめて鶯渓と号し、漢詩文を能くし、書に長じ多数の作品を残している。
 著作に「世界における明治天皇」「独逸の現勢」「華府会議の真相」ホーマリー著の「無智の勇気」を「日米必戦論」として飜訳し、また日刊英文通信・日刊英文日本経済を刊行して世に行なわれた。
 記念碑が題字を尾崎堂、碑文若槻礼次郎撰、望月日謙上人書で身延山竹之坊境内の墓所の脇に建てられている。
 身延町が産んだ山梨県を代表する卓抜な政治家で今も郷党は一度外務大臣になって欲しかったと語っている。
  大正十年終華府会議向加州
河嶽英霊護此身   論壇百日舌鋒新
微躬唯識酬君国   説尽西隣一億民