第十六編 町民の記録

追憶

角打 中村十郎
 県の山林課を退職し富士身延鉄道へ奉職するため、大正9年10月17日(甲府市制祭の日)鰍沢の山林課出張所員およびその家族と、借家していた増穂村最勝寺の人々に送られて、鰍沢船場で特別仕立ての富士川下り船へ一家5人乗り込んだ。(船頭は当時有名だった色黒の黒常さんを船長として外に2人)皆さんの万歳の声を合図に、纜(ともづな)は巻き上げられ岸を離れて二軒屋鬼島と見送りの人々が見えなくなるまでハンカチを振り、涙を流して別れを惜しんだ。天神ヶ滝へかかると流れが右へ折れ人々の姿も見えなくなった。
 流れは急に激しくなり畳々たる岩にくだけて物凄く、しぶきは膝をぬらして船は激しく揺れ子供は騒ぐ、船頭が手にしている竿はまるで弓のように曲る。飯富もすぎる頃早川が水音高く合流して急に水嵩が増し、妻も子供もこんな大きい川があるかとびっくりした風情だった。間もなく屏風岩にさしかかり竿を岩に突いたところポッキリと折れてしまった。永年の手練で船頭は急がず焦らず竿を取りかえた。子供は無心だが私と妻は顔色が変り生きた空はなかった。難所を脱し波高島帯金塩之沢をすぎ(塩之沢に今のように日軽金のダムはなかった)角打へ着いてほっとする。所要時間2時間ぐらいだったと思う。
 身延駅吉田屋飲食店の裏ヘ船をいだ。当時鰍沢と岩淵の間を定期船で物資を交流し、人の往来も船によるのみだった。身延線が身延駅へ開通したのが大正9年5月18日だ。勿論石炭をくべる汽車ポッポだった。身延線は最初富士川の右岸即ち今の国道52号線沿いを通る予定だったが田畑が多く、地主の反対もあったので山岳地帯の栄村や、大河内村へ隧道をあけて通ることにした。それ故に駅の名前にしても井出福士・内船南部・下山波高島など両岸の地名をつけたのも面白く、いかに会社が神経を使ったかということがうかがえる。私の仕事は富里村(今の下部町)湯之奥の恩賜林払い下げの立木6万8,000石を伐採し、製材製炭する山林部主任というわけで、毎日の出張が始まった。身延駅の社宅を出掛け丸滝・塩之沢・帯金・下八木沢・上八木沢・波高島・上之平・下部温泉・湯の奥へと草鞋ばきで、湯の奥恩賜林処理の計画に取り組んだ。ひと口に6万8,000石といっても奥山ではあるし面積83町歩という尨大なもの、ほんとうの原始林で樹齢は50、60年生以上、樹種は針葉樹と闊葉樹と半々ぐらい、伐採した跡へは204万9,000本(坪1本)の扁柏(ひのき)を植林する県との契約であった。まず湯の奥へ事務所を設け、伐採・炭焼・搬出・製材の計画を立てた。所要労働者200人余りの募集等々昼夜の別なき奔走であった。
 山林事業なので護身用に拳銃の携帯許可を受け、腰へ下げて夜も歩くことがあった。1ヵ月に2回は定期的に富士駅の身延鉄道営業所へ支払金を取りに行く。身延駅から汽車は2等と3等と仕切って2等は50人乗りが1両、3等は80人乗りで1両、つまり2両編成、その2等へ乗るお客など稀れで身延山の法主か、会社の重役級の人ぐらい、私は草鞋ばきで2等車へ寝ころんで富士駅へ往復する。汽車ポッポだから片道2時間半もかかる始末だった。山林処理の仕事も段々進んできたし、身延橋の工事もかなり進展した。この橋は会社の技師三角鎌三(みすみかまぞう)工学士がアメリカへ行き、研究の上設計したのであってワイヤーロープの吊橋(延長140間幅2間半)会社の規模が小さく、しかも赤字続きの会社として50万円もかけて架けるということはかなりの問題もあったが、将来を考えて着工の段取りになったのだ。橋の路面は今のアスファルトとちがい負担重量の関係から全部檜の板を使うことになり、この全部を湯之奥山から出してきて使った。足掛け13ヵ年の間に潜水夫など幾人かの犠牲者を出したりした。漸く大正12年8月完成し東洋第1身延橋と銘を打ち片道5銭、往復10銭の賃取橋とした。ただし身延町と大河内村の住人は無料とし1戸1枚の渡橋券を交付して利用してもらった。この橋がいかに頑丈なものであるかということは関東大震災にもその後数次の台風等にもビクともせず現状を保っていることでよくわかる。
 その後東京の人が富士川飛行艇を計画し、プロペラの音高く身延駅鰍沢間を毎日定期運転した。会社としては始めの計画通り身延甲府間の鉄道敷設がきまり、路線測量も進み用地の買収に着手した(私はこの用地買収にも従事したが地主が頑強で収用法にかけた所もあった)なにせ突貫工事だったから身延駅へ建設事務所を置き、三角技師長を所長にして、大車輪でかかったが民有会社だけでは容易でないので政府に働きかけ、津田沼の鉄道連隊から相当長い日数1個大隊の派遣を受け、一気に工事を進め昭和3年4月甲府へ乗り入れることができた。電化関係については大正15年東京電力と電力売買の契約成立し身延駅へ変電所を作り富士郡之頭から送電し取りあえず昭和2年身延富士間の電化ができ汽車ポッポが姿を消した。甲府の方へは市川大門へ変電所を作り、一気に電車で開通した。岐南の天地がいかに交通の難所だったか今にして思えばまさに隔世の感ありという外はない。