第二節 弥生時代

 縄文時代の華やかな文化の後をうけて弥生時代が訪れる。弥生時代は紀元前後を通じ約600年の極めて短い期間であるが、これを前期・中期・後期に分けている。
 弥生時代は一般に稲作文化の曙の時代といわれ、大陸から伝来し、全国的に波及していった。その頃の稲作りは極めて原始的であった。田は自然の湿地帯を利用し、種は直蒔きで、自然の成長を待った。実りの秋になれば穂だけを摘みとり、これを高倉といわれる共同倉庫に保管し村共有の食糧とした。なお静岡県登呂遺跡などに見られるように木鍬、田下駄等が発見されているので播種の前の耕作が行なわれたのであろう。またこの時代にはいると石器万能の時代は去り、銅器や鉄器が登場してくるのである。しかし農具はほとんど木製で、鉄器はこれ等木製農具を作るための貴重な道具であったのである。
 次にこの時代の本県のようすを概観すると、主要な遺跡は笛吹川水系が15ヵ所で最も多く、桂川水系5ヵ所、河口湖周辺4ヵ所、荒川水系3ヵ所、釜無川水系3ヵ所が発見されていて、富士川峡谷両岸の峡南地方一帯は縄文時代後期に引き続き弥生時代の遺跡・遺物は皆無である。ただ盆地の南端増穂と三珠町に発見されているにすぎない。(「山梨県の考古学」より)
所在地
名(呼)称
推定時期
主要伴出品
西八代郡三珠町一城林
一城林遺跡
後期
炭化米(焼米)
南巨摩郡増穂町広見
広見遺跡
後期
土器石器
 なお、この時代の遺物を示すものに、土器・石器・木器・銅器・鉄器等がある。土器は縄文土器に比べ焼成度が高く薄手で器質も緻(ち)密となり、壺形が多く条こん文が特徴である。石器はまだ重要な道具であった。打製石器もかなり残されているが、大陸系の磨製のものも多い。石斧(ふ)、石鏃や石のやり先が多く発見されているので狩猟もまだ重要な生活手段であった。石包丁等は稲穂のつみとり用としてこの時代に発達した石器である。またこの時代になると登呂遺跡に見られるように織機などが発見されている。なお本県でも織物痕のある土器が発見されている。(「山梨の考古学」による)
所在地
名(呼)称
推定時期
伴出品
大月市宮谷 宮谷遺跡 中期 土器(織物痕あり)
 織物の原料は苧麻(からむし)で紡鍾車で糸をつむぎ、地機で織られた。人間が布製の衣類を用いたのはこの弥生期からといわれている。なおこの期の終りころには養蚕も行なわれた。魏志倭人伝に「邪馬台国女王卑弥呼(ひみこ)が魏王に絹布を献じた」、とあることから明らかである。