第三章 古代と中世

第一節 古代

 弥生時代の次の古墳時代は、4世紀から6世紀の頃までである。
 5世紀にはいると、仁徳陵に見られるようなその壮大さにおいて、世界屈指の大墳墓が築かれるようになった。これを高塚古墳といい、日本各地に続々と造営された。この高塚古墳の発生は、3世紀後半弥生時代末期からであり、5世紀前半に至っても最も盛大となり、以後だんだん小型化し、6世紀後半になって姿を消していった。
 弥生時代初期に発達した農耕生活は、さきの縄文時代の狩猟や採集の生活に比べて著しく生活が安定し、豊かな暮しが営まれた。しかし、その反面時代とともに貧富の差が生じ、いつしかその差は著しく増大し、やがて豪族の出現する結果となった。なおこの時代、大陸から盛んに鉄器が輸入されたが、この鉄器が稲作とともに豪族の出現を促進し、後の統一国家出現の礎となったのである。弥生末期には、これら豪族の支配する小国家群が、日本各地の到るところに出現したが、これら小国家群も4世紀後半には、畿内大和を中心とする一大勢力の政権下に組み入れられて行った。日本武尊の東征伝説の中に、甲斐の国酒折の宮でのひともしの翁(おきな)との出合いの話があるが、おそらく甲斐もこの頃、大和政権下に服属したものであろう。
 大和が日本の政治の中心地になると、その文化は必然的に全国に波及して行った。地方の族長は、大和および畿内に発生した古墳文化を競ってとり入れ、大和政権を背景にして、己の権威を誇示したのである。
 このことは、甲斐の国においても例外ではなく、銚子塚古墳のように前方後円の雄大なものが構築された。この銚子塚古墳は曽根丘陵にあるのだが、この地帯はさきの弥生時代が最も栄えた土地である。従って、その古墳は前期に属し雄大なものが多い。中期になると境川・八代・御坂・一宮方面に広がり、後期に入って盆地の北部、西部に見られる。この峡南の地は、盆地の最南端に当る増穂町にわずかに法華塚・狐塚と称する後期古墳が見られるだけで、それ以南の山岳地帯の合間にあるわずかな扇状地には全く見られない。(「山梨県の考古学」参照)たまたま本町下山地区に、「鳥居の木」というところに古墳があるといわれていたが、上野晴朗の調査によって自然の丘が墳丘と見間違えられたもので、古墳ではないことが明らかとなった。(甲斐路NO.14参照)
 このような豪族の権力と文化を示す古墳は、民衆の血と汗の結晶から生まれたものであり、民衆の大きな犠牲の上に築かれた文化である。では、民衆の生活と文化を示すものは何であろうか、それは土師器である。土師器は、民衆が日常煮炊き用として用いたものであった。だからその発掘発見によって、当時の人々の消息を知る手掛りになるのだが、残念ながら本町にはまだ、発見されていない。隣接南部町においてはその町誌に、縄文遺跡から縄文土器と複合して、わずかに発見されたと記されているのであるから、その地続きである本町においても、発見の可能性はあると思うが今後に期待したい。
 やがて時代は奈良・平安時代と下り、我が国も律令制の完備とともに、国家の政治組織が体系づけられ、国政の基礎が定まった。
 大化以後、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)を廃し、新に国司・郡司を置き地方政権を確立した。甲斐においても峡東の地岡部村の国府や、御坂町の国衙が甲斐国庁の所在地となり、長く甲斐の政治文化の中心となって繁栄した。では本町および峡南の地は、この頃どのような位置に置かれたのだろうか。
 甲斐国志巻の51古墳の部によれば、と。ここにいう倭名抄とは、醍醐天皇の承平年中(931−938)に撰進された倭名類聚抄のことである。この倭名抄には、巨摩郡下に九つの郷名と八代郡下に五つの郷名をあげているが、そのいずれにも河合郷の名が見える。甲斐国志は、その中の巨摩郡河合郷について解説したのである。その解説の通り、大小幾多の河川が富士川に合流しているこの峡南の地こそ、河合郷そのものであり、現在の南巨摩郡と西八代郡のほぼ全域を指したのであろう。峡南の地が、地名として歴史上明確になったのは、この倭名抄に記された河合郷が最も古いものであり、町の歴史を考えるにも重要な資料となる。
 では当時における郡・郷がどのような行政組織となっていたのであろうか、日本書紀の巻25孝徳天皇の大化2年(646)の詔に、「およそ郡は四十の里を大き郡とし、三十の里より下四つの里より上を中つ郡とし、三つの里を小さき郡とせよ」とあり、ここに地方行政区画の最も初期の姿を見ることができる。里は約50戸をもって構成されたといわれているのであるから、ここにいう大郡・中郡・小郡の規模も推定できるのである。また延喜式(927年、醍醐天皇延長年中に撰進された)に、「凡ソ郡千戸ヲ過ギ得ズ若五十戸以上余サバ比郡(隣郡)ニ隷シ地勢分ツニ宣カラザルモノ状ニ随テ別郡ヲ立ツ云々」と、当時、もしこの通りの行政区画が確実に行なわれたのならば、この広大な巨摩郡の地域にもかかわらず1,000戸内外であり、ましてやその中の1郷である河合郷は、百数十戸の微々たる村戸しか存在しなかった訳である。恐らくこの河合郷は国司庁からは遠く隔たり、峻嶮(しゅんけん)な山岳、断絶した峡谷のため、その広大な地にもかかわらず、わずかに広がる山間の扇状地帯に、現在とは比較にならぬ少数の村落が散在していたに過ぎなかったのだろう。このことは更に延喜式内社の項に、甲斐国20社の格式ある神社名があげられているが、この峡南の地にはそれが1つも見いだせない。このことによっても、当時の峡南の地や、本町の置かれた状況が理解されよう。
 なおまた、甲斐国志に「下山、治府ノ方ヨリ指人言葉ニシテ北山向山ト云類ヒナルベシ一時ノ庄名ニシテ南部以北ハ此ノ庄ニ隷スト見エタリ云々」とあるが、この庄とは荘園のことであり、荘園は中央貴族や寺社の私領地のことである。荘園は奈良時代、律令制下における口分田のいきづまりから、743年に口分田永世私有令が施行されたことに始まる。始め有力農民や郡司が、私領を広めることに意を注いだが、やがて国司や軍毅(軍団の武官)がその地位を利用して全国各地に大土地を所有するようになった。しかし、彼等は自己の保身をはかるため、所領を中央貴族や有力寺社に寄進し或は売却して、その貴族寺社を本所(領家)と仰ぎ、己は下司職となって権力の座につき、更に富や武力を貯えた。こうして、11世紀になると彼等の私営田の大半は権門家、寺社の荘園と化してしまったのである。甲斐風土記によれば、往時県下の荘園は40余あったと述べている。下山荘も恐らくこうした中で生れたものであり、しかも河合郷の中では最も早く開発された地域であっただろう。では下山荘の範囲はどこまでであろうか。さきの甲斐国志に見られるように、南部郷以北の河合郷全域を指したものであるのか、それとも、現在の下山地区一円に止まったものなのか、今はそれを明確にはできないが、当時は荘園の四至(四方)に示(ぼうじ)(石等)を置きその範囲を示したので、その遺跡が発見される事によってその範囲も明確になるのである。
 また、この時代に関係の深いと思われる「御牧」について考察を進めて見よう。やはり甲斐国志所載の文を引くと「南部御牧、飯野御牧ハ弘安年中日蓮法師ノ書中ニ見エ飯野ハ南部ノ内ナリ今大野ニ作ル共河内領ニ在リ」と記されている。この中の「御牧」とは牧場のことであるが、このことは、延喜武左右寮の筆頭に、甲斐の三牧として真衣野、柏前、穂坂があげられている。これ等はいずれも官牧であり朝廷直轄牧場である。しかし平安後期地方武士階級の台頭(これはさきの荘園の下司職や国司庁役人であった。甲斐においても源義光の子義清が八代郡青島庄(今の市川大門町付近)の下司職として都から派遣された。やがてその一族が甲斐源氏となり、甲斐国内に覇(は)を唱えるのである)とともに武力としての馬が一層必要となったため、彼等はさきの官牧を押領(おすりょう)し、その上になお新たに牧場を開いた。特に巨摩郡は土地が広く、人口が稀薄だったため、彼等の牧場としては最適地であったのである。
 日蓮在世中の弘安年中とは、平安末から数えて8、90年に過ぎぬので、南部御牧飯野(大野)御牧は、そうした平安期末の社会状勢の中から生れた新興牧場の一つであることは間ちがいないであろう。
 最後にこの時代に関連したことの1、2をあげる。
 下山地区に「寺尾根」という地名があり、そこに寺院跡の礎石が残されている。(一説に下山本国寺の前身平泉寺のあったところとか)ここから加藤為夫が器物を発見し、それについて「灰釉の状態から、平安末から鎌倉期へかけてのものだろう」と、述べている。また身延地区に「寺平」なる地名があるがこれについて久遠寺発行の「身延の枝折」に、つぎのような記事がある「伝説によれば、この地には往古大寺院が存在したということで、地名に関する伝説として伝えられている。その大寺院の五重の塔のあったところと伝えられている地が、お塔林という地名で残っている。宗祖御入山以前の伝説で、現在では地名と口碑以外には何等考証すべきものは残っていない。」と。ここに「宗祖御入山以前の伝説」という点に注意する必要があろう。望月虎茂がこのお塔林の近くの畑から古代瓦と思われる布目瓦を一片採集したが、これだけでは証拠とはならないが参考までに記す。