第二節 日蓮聖人入山以前の身延

一、七面山と修験道

(一)修験道の歴史
 日蓮宗新聞(昭43、10、10発行第542号)によれば、吉野大峰山にも七面山と名付ける山があり、かつて回峰修行のコースであったことが出ている。記事によると「身延七面山と大峰七面山との類似点について。」とあり、大峰七面山は大日岳に至る道程から遥拝することのできる位置にある。また七つ池の一つは遥拝所の近くにある。しかも山容が身延七面山と極めて類似している。身延七面山は七面大明神を神体としているが、大峰七面山の神体は不詳である。しかし、山の位置から釈迦・大日・弥勒とならぶ菩薩を祀ったものと推定される。七面山にとって重要な問題は池大神として祀られている尊像は「役(えんの)行者」か、少くとも後世それを神仙思想によって修正したものであろうと推定されることである。山麓の神力坊、十万部寺、妙石坊等に祀られている「妙法大善神」はもと天狗であったとされるところから、これは関東修験の特徴を示していると考えられる。この史実に基づく限り、身延七面山は大峰七面山の真言系修験と関東修験の集合した初期の形態であったものと推定されるのである。このように、日蓮聖人入山以前の七面山の信仰的な存在点について貴重な示唆を与えている。そこでこの立論をもとにして推敲を試みたい。
 修験道とは、常に山谷曠野を跋渉して咒文を誦し、艱難に堪え苦行をし、霊を感得し、肉身に悟りの境に入り、神変を現じ、一切の邪鬼悪魔を排除して安泰の生活を得せしめる法である。聖不動経に「験ありて法の成ぜんことを欲せば、山林静寂の処に入り清浄の地を求めて道場を建立し、護摩事をなすべし。速に成就することを得ん。」とあり、これを修験宗といわず修験道というのは、一宗一派に偏せず広く諸宗に通ずるが故に「道」を用いたのである。
 修験の起源は、約2,500年前印度の釈迦の説法にまで遡る。釈迦入滅後880年を経て印度に出生した龍樹菩薩を伝灯弘法の大先達とし、支那においては帛尸梨密多羅、日本においては役小角(えんのおづぬ)に始まる。
 役小角は舒明天皇の6年(634)の正月奈良県南城郡茅原に生まれ、城山の岩窟に金銅孔雀明王を安置し、草衣木喰、持呪観法、遂に験術を証得した。後紀伊・大和・摂津等の高山大嶽を踏破し、金峰山、大峰山、高野山、牛滝山、箕面山等の行法の道場を開拓した。
 その後やや遅れて泰澄が出て修験道を得て、養老6年天皇の病気快癒を祈祷し平癒されている。平安時代に入って天台の円珍、門人の増命、同門の尊意、余慶、円仁の門人相応等があり、真言系にあっては貞観の末に聖宝、その門下に観賢、後に淳祐等代々相承してそれぞれ天台山伏(本山派)、真言山伏(当山派)といった。こうして修験道の内容外観は漸次整い、鎌倉時代以降全国に伝播し、豊前の彦山、出羽の羽黒山、相模の箱根山、上野の日光山、信濃の戸隠山、摂津の箕面山、加賀の白山、駿河の富士山等にも皆金剛蔵王、もしくは熊野三所権現を祀り大峰修行の風習を擬して、山伏行者を統一し一派を形成した。中でも大峰山と城山を両山または両峰と呼び、その他を国峰(くにみたけ)と呼んだ。諸山の中、彦山と羽黒山は特に著名であった。戦国時代は武士の保護を受け、慶長18年(1613)には幕命により全国の山伏を二分して聖護・三宝の両院に分属し、本山派は聖護院を本所とし、熊野より大峰に入って修行しこれを順の峰入りと称し、当山派は三宝院を本所とし、大峰より熊野に出て修行しこれを逆の峰入りと称していた。この外日蓮宗や大和薬師寺に属していた修験者もあり、徳川初期には勢力が盛んであったが、漸次衰微し、明治になって本山派は天台宗園城寺管長の支配に属し、当山派は金峰山を本山とし真言宗醍醐派に属して今日に至っている。
 天文年間の記録によれば甲斐には当時、本山派85院、当山派214院があり、小室妙法寺、休息立正寺、柏尾大善院、七覚円楽寺、窪八幡普賢寺、藤木法光寺等が皆梁魁であったという。修験道はこの院政時代をピークとし、降って文化、文政の頃には本山派、当山派合わせて凡そ210ヵ寺あったと甲斐国志には見えている。
 徳栄山妙法寺記(現、日蓮宗小室山妙法寺)に
 往古真言宗ニテ肥前上人ト申ハ、東三十三国山伏ノ司ナリ(按スルニ修験本山派ハ天台宗、当山派ハ真言宗也)文永中日伝ヨリ嗣法ス寺境山ニ倚リテ高ク東ヲ表トセリ……西峰トテ後山ニ七面明神ノ宮アリ山上拾町許ニ閼伽ノ池(里人峰ノ湖トモ呼ヘリ)漏閼(ロア)ノ清水ト云ハ山内ヨリ出ツ……開山日伝ノ石塔、妙法比丘尼ノ社ニ木像ヲ安ス、肥前上人在俗ノ婦人舜姫ト云後ニ尼ト為……
 とあるのを見ても、当時東33国山伏の司肥前上人と七面明神の宮との関係を推察するに、七面明神と修験道とは何等かの関係あるように思われる。
 また休息立正寺の縁起によれば
 四十五代聖武帝、行基菩薩創立、子安地蔵寺ト称ス、六十代醍醐天皇ノ延喜三年乙酉住職行敏阿闍梨ノ時真言宗ニ属ス。六十七代三条天皇長和四年乙卯八月覚徳阿闍梨ノ時金剛山胎蔵寺ト改ム、七十二代白河天皇永保三年癸亥覚範ニ及ビ関東以東三十三カ国ノ棟梁トシテ部内ヲ取締ル。此時寺門隆盛、支院千坊末寺数百、八十九代亀山帝文永十一年甲戌十月二十四日日蓮上人ノ当国布教、住職宥範皈伏、三七日滞在、寺号ヲ休息山立正寺ト改ム云々。
 とあるのを見ても小室山妙法寺、休息山立正寺が共に修験道の巨刹であったことがうかがわれる。以上を考えるとき、大峰七面山、身延七面山、小室山妙法寺の七面明神の宮との間には関連性があるのではないかと推測される。
(二)七面大明神について
 身延鑑に
 此の御神と申すは本地は弁才天功徳天女(べんざいてんくどくてんにょ)なり。鬼子母天の御子なり。右には施無畏(せむい)の鍵を持ち、左に如意珠(にょいじゅ)の玉を持ち給ふ。北方畏沙門天王の城、阿毘曼陀城妙華福光吉祥園(あびまんだじょうみょうけふっこうきっしょうえん)にいますゆえ吉祥天女とも申したてまつる。
 山を七面といふは、此の山に八方に門あり、鬼門を閉じて聞信戒定進捨懺(もんじんかいじょうしんしゃざん)に表示し、七面を開き、七難を払ひ、七福を授け給ふ七不思議の神の住ませ給ふゆへに七面と名付け侍るとなり。此の神、末法護法の神となり給ふ由来は、建治年中の頃なりとかや、聖人読経の庵室に廿ばかりの化高き女の、柳色の衣に紅梅のはかま着し、御前近く居り、渇仰の体を大旦那波木井実長郎党共見及び、心に不審をなしければ、聖人はかねてそのいろを知り給ひ、かの女にたづね給ふは、御身はその山中にては見なれぬ人なり。何方(いづかた)より日々詣で給うとありければ、女性申しけるは我は七面山の池にすみ侍るものなり。聖人のお経ありがたく三つの苦しみをのがれ侍り、結縁したまへと申しければ、輪円具足(りんねんぐそう)の大曼茶羅を授け給ふ。
 名をば何と問い給へば厳島女(いつくしまにょ)と申しける。聖人聞し召し、さては安芸国厳島の神女にてましますと仰せあれば、女の云く、我は厳島弁才天なり。霊山にて約束なり、末法護法の神なるべきとあれば、聖人のたまはく、垂迹の姿現はし給へと、阿伽の花瓶を出し給へば、水に影を移せば、壱丈あまりの赤竜となり、花瓶をまといひしかば、実長も郎党も疑ひの念をはらしぬ。
 本の姿となり、我は霊山会上にて仏の摩頂の授記を得、末法法華受持の者には七難を払ひ、七福を与へ給ふ。誹謗の輩には七厄九難を受け、九万八千の夜叉神は我が眷属なり。身延山に於て水火兵革等の七難を払ひ、七堂を守るべしと固く誓約ありてまたこの池に帰り棲み給ふ。
 さて上記の文中に「本地は弁才功徳天なり。母は鬼子母天にして吉祥天女とも申す」とあって金光明経によれば、吉祥天は実父は徳叉迦竜王、実母は鬼子母神、実兄は毘沙門天で、毘沙門天王の妹御であり、「天王に従って北方にあるべし」と疏に示されている。従ってお住まいは、毘沙門天王のお城阿毘曼陀城妙華福光吉祥園におわしますので吉祥天とも申し上げるのである。この毘沙門天王は同経によると、浄信、戒、聞、捨、受、慧等の10種の福利を授け仏法中に法眼を得て聖果を証得することが出来る。とここに吉祥天の鬼門を閉じて七面を開き、聞信戒定進捨漸に表示し云々と遊ばせるか、と解説を試みている。
 (弁才天の一般について)
 弁才天の起源は、印度神話の河川神の一つで梵語のサラスヴァティの訳語で、意訳して妙音天、大弁才天女ともいい、サラスヴァティは河川を神格化した女神であるといわれている。一説にはインダス河を神格化したともいう。印度宗教の出発が自然崇拝に始まっていることを示している。
 神は不死万能で、これを信ずる者はその恩寵を受け幸福であると考えられていた。つまり弁財天は、人の汚れを払い、富、名誉、福楽、食物を与え、勇気と子孫を恵むといわれ、やがて言語の神と同一視されるようになり、学門と技芸の神、雄弁と智慧の保護神となっていった。紀元前1,000年頃のヒンドゥー教(印度教)ではブラフマン(梵)の神の配属神とされている。金光明経では、此の経を受持するものを弁天自ら守護すると説き、その形像については八臂の弁財天を説いている。すなわち、密教では二臂すなわち大日経に「左手に琵琶、右手之を弾奏する」勢に描いており、勝軍の祈りには八臂の尊を本尊とし、智慧、弁才、音楽の祈りには二臂の尊を本尊とする、とされている。
 大百科辞典には「弁財天は梵語羅室弥(ラグシュミー)の訳、吉祥天のことであるといわれているが、吉祥天は梵語摩訶室利(マハーシュリー)であるから吉祥天とすることは誤りである。怨敵怖悩を除き、一切世間を饒益して貧窮を救い財宝を与える神」とされている。
 また仏教大辞典では、「吉祥天を七福神の1人とし、摩訶室利、室利天女、吉祥天女、吉祥功徳天、或は功徳天等という」といっている。なお同辞典で弁財天を妙音天、妙音楽天、或は美音天と訳し、また大弁財天、大弁才天女、大弁天神、大弁財天王、大聖弁財天神と称し、略して弁天という、といっている。また吠陀のスカンダプラーナには、之を太陽女神と名付け、梵天の第二妃とし帝釈および毘紐天が讃歌女天をして梵天と婚せしめたので、この女神は、帝釈および毘紐を呪咀し、遂に吉祥天を従えてグゼラートの海辺に去られたといい、パドマプラーナには毘紐および吉祥天は梵天の請により再び此の女神を召請し、讃歌女天とともに梵天に侍せしめたという。身延鏡に「本地は弁才天功徳天なり」とあるが、弁才天と功徳天とは別神であることがわかる。すなわち功徳天は吉祥天女のことであり、弁才天とは別神である。金光明最勝王経第76弁才天品、第8大吉祥天増長財物品と品を別にして説かれている「弁才天が吉祥天を従えグゼラートの海辺に去れり」、とあるを見ても、吉祥天は弁才天の従神であることが肯定される。「弁才天功徳天女なり」との身延鏡の説は、弁才天と吉祥天とを同一視し混同したものと思われるのである。
 (厳島弁才天と七面天女)
 厳島弁才天は、近江の竹生島、相模の江の島弁才天と共に日本三弁才天と称せられ、またこれに陸前の金華山、駿河の富士山安置の像を以て五弁才天とし、また富士山を除いて大和天川の弁才天を加える向きもあって、本邦屈指の弁才天である。
 厳島は、推古帝の時初めて、市杵島(いちきしま)姫、田心(たごり)姫、湍津(たぎつ)姫を祀ったともいわれ、また往昔は島全体を神体として崇敬した山岳信仰もあったという。
 神主景弘謹検案内に「当社者、推古天皇癸丑之年、和光同塵、垂跡以降、星霜歳重、感応日新、則是、鎮護国家之仁祠、当国第一之霊祠也」とあり、また源平盛衰記の願文には、「本地ノ正体ハ御鏡三面、内証ヲ尋ヌレバ大日也」、とあり、さらに大日本地名辞書弥山の項には「大日堂は麓より十八町、弥山(みせん)の本堂にして所謂神護寺是也、大同元年本堂建立、弘法大師の皈朝正に此年に当たれば、海路の序に立ち寄り給ひて聞き給ひけりと伝説す」
 とあり、密教大辞典には、「弁才天の日本における霊場として、竹生島、金華山、天川、宮島、江の島を日本の五弁才天と称す。但し後二者は明治以来神社となれり」とある。また厳島の本地についての伝説に
 お伽草子、天竺とうしよう国のせんさい王は、父大王より賜った伝家の宝の扇に画いてある毘沙門天の妹吉祥天を見て恋の病に臥す。西方さいしよう国の第三王女あしびきの宮は、その画のような美人であると教える者があった。しかし、その国へは往復十二年もかかるが、家宝である五からすという烏が王のために使して、往復百七十日ばかりで返事をもらってきた。王はますます恋の病が重くなってきたが、氏神の夢想の告げによって、弘誓の船、慈悲の車を造り、五からす、公卿臣下を乗せて、さいしよう国に行き、あしびきの宮を欺むいて本国につれてきた。ところが后達が嫉んでみち腹の病にかかった様をして、仲間の相人に合わせて、「ぎまん国の、ちようざんという山の薬草を王がとってくれば治る」。と言上させて、王を往復十二年もかかるぎまん国へゆかせた。その留守中后たちは武士たちに、あしびきの宮を、からびく山こんとろカ峰じやくまくの岩へつれてゆき殺させた。宮は妊娠七ヵ月であったが、其の時王子を産んで梵天帝釈に加護を祈った。
 その子は、帝釈をはじめ虎狼野の守護によって山中に成長した。十二になった時王が帰国してこの事情を知り、山に尋ねてきて王子を助ける。宮の遺骨を携えてかびら国すいしよう室のふろう上人に頼んで、再生させることができた。ところが王は宮の妹に心が移ったので、宮は日本へ来て、伊予の石槌の峰、さらに安芸国佐伯郡かわいむらに落ちつき、佐伯のくらあとの奉仕によって、くろます島に仮殿を造って住んだ。宮は、いつくしき島なりとこの島をめでたので、厳島の名が起った。この宮を大ごんぜんといい、本地は大日如来で、あとから尋ねて来たせんさい王は、まろうどの御前とよび、本地は毘沙門、王子はたきの御前、本地は不動明王である。
 とあって貞和2年(1346)の断簡絵巻物が現在のところ最古の記録であるが、源平盛衰記巻13にも大同小異の記事が出ている。
 江の島弁才天については
 「伝へ云ふ、文武天皇四年(七○○)役小角はじめてこの島を開く。後寿永元年源頼朝茲に弁才天を勧請せしより云々……島の西端に竜穴あり、是古の窟弁才天にして役小角、弘法、慈覚皆窟中にて参籠す。」
 と伝えている。
 竹生島弁才天は琵琶湖北部にあって、天平10年(738)唐招提寺行基本島に草庵を結び、国家鎮護のために四天王像を安置したと伝えられ、また岩金山太神宮儀軌(行基作)には、
 神亀元年(二二四)聖武天皇霊夢を感じ、勅使都良香を行基の許に遣はし、日本島根天岩金船の在処を奏せしむ。行基乃ち勅使と共に本島に来るに。弁才天女(伊路阿佐邪賀姫第二の分魂)および十五童子現われしを以て第一の宮には大弁功徳天女、十五童子、岩崖に一宇を建立し千手大悲観世音菩薩を安置す。
 とあり、弁才天については神仏一体として祠られた形である。
 日蓮聖人身延入山以前、すなわち平安末期院政時代において、当山派、本山派の修験道盛に行なわれ、役小角の流れを汲む行者全国に漫延し、厳島弁才天を七面山に祀るようになったのではないか。七面山には「なないたがれ」があり、厳島には七浦があって七浦明神といい、山下の七浦に対し、山の七いたがれを称したものと推考されるのである。
(三)身延と七面山との関係
身延の名称
 身延山史に
 往古この地は河内領巨摩郡と称し、身延は巨摩郡波木井郷に属して、飯野御牧と共に南部六郎実長の領邑なり。身延はもと「蓑夫」と書す。波木井の戌亥の隅にあたれり。すなわち東は塩沢、波木井、西は小縄、高住、赤沢等に、南は大城、相又、船原に、北は下山村に接す。西行が歌に
 「あめしのぐ蓑夫のさとの垣柴に、すだちぞ初むるうぐひすのこえ、とありと伝う。しかし、この和歌西行の「山家集」並びに「古今類句寸字篇」等にも出でず。南部近郊に西行坂、西行松のありしことは元政の身延行記に出でたり。西行法師が巡遊せしは明なり。更に勘ふべし。蓋し蓑夫の蹲踞せるが如く欝然として北東に聳え鷹取山これに対す。御遺文に「此の外を回りて四つの河あり。従北南へ富士河、自西東へ早河、此は後なり。前に西より東へ波木井河の中に一つの滝あり身延河と名付けたり。」と仰せらるも「蓑夫」を身延と替え玉へるは入山早々にして文永十二年二月十六日の御消息に「此所をば「身延の嶽」と申す」とあるに徴して明なり。
 とあり、日蓮聖人入山以前は「蓑夫」と呼ばれていたことは明らかである。
 (注)日蓮聖人・報恩抄の末尾には「自甲州波木井郷蓑歩嶽」とある。資料編p53参照
 甲斐国志古蹟部第14「蓑夫ノ里」の項に
 みのふのさと、夫木集、西行法師
 「和歌諸集ニ摂州豊島郡箕面山ノ歌アリ彼ハみのお○○○ト云本州ハみのふ○○○ナリ夫木集津守国助「わすれては雨かと思ふ滝の音にみのお○○○の山の名をやからまし」トアルハ蓑夫ノ滝ヲ咏スルニ似タリ。此類尚多カルへシ蓑生浦ハ筑前ニ在リ是モ諸集ニ和歌アリ。
 とあり、摂津箕面山と本州の蓑夫、筑前の蓑生浦と一連の関連があるように記されている。箕面山は役小角開創の修験の山であり、麓には滝安寺という修験道場があり、しかも弁才天を祀るとあるので、当然山岳信仰を基本とする修験と密接な関係が予想される。
 さらに、大辞典には、箕面山を「ミノモサン」とあって、箕面と蓑夫は密接な関係があるように推察される。奈良朝より平安、鎌倉期の500年間に全盛を極めた修験道は、大阪、奈良の城山、大峰山等よりその源を発し、遂に日本全土の山岳にその足跡が及んだのである。山岳国の甲斐にも当然その足跡は印された。「蓑夫」の名称も平安以降における修験者が、この地に来て摂津の「みのも」をとって蓑夫と名付けたものであろう。往昔は前述の通り、今の身延は波木井郷の中の無名の地であったに相違ない。これを「みのふ」と名付け「蓑夫」とあて字されたのであろう。「蓑を着た杣人(そまひと)が蹲踞している形に似ているので蓑夫と名付けられた」と伝えられているが、身延山の山形はどう見ても蓑を着た杣人の蹲踞した形とは思えない。恐らく後人の付会であろうと思われる。また一説には、「蓑生」と書き、この山に「蓑草が一面に生い茂っていた」ために名付けられたと伝えられているが、身延は蓑草が生い茂るような土壌でもなく、気候も温暖ではない。むしろ高山植物が繁茂するに適した気候風土である。だから「蓑生」も後昆の牽強説に過ぎないものと推察されるのである。
 一体蓑は、蓑草という蓑専門の草があるわけでなく、蓑作りの材料となるものは、稲わら、スゲ、ビロウの葉、藤、棕櫚の皮等を編んで作るものであり(世界百科辞典)、当時未開の身延の地に稲わら、ビロウ、棕櫚、藤等が群生していたとは考えられず、もしあったとしたら、野生のスゲの類であろう。スゲはカヤツリ科の多年生スゲ属の総称で、温帯から寒帯に分布しており、日本にも200種類が知られており、田の畦や路傍の雑草として自生し、茎は三稜形、葉は線形で束生するが、蓑を作るには傘スゲ、ショウジョウスゲではなくてはならず、現在の身延ではこの種のものは見当たらない。こう考えると「蓑生」の名称が「身延」に変ったということは信は置けない。
 身延鑑に
 「身延ノ惣門ノ右方山ノ平ナル処ヲ寺平、塔林ト呼フ、本真言宗の寺アリ」
 と記している。すなわち806年空海帰朝して真言宗を開創してより日蓮聖人身延入山まで412年間に、天台、真言の新興宗教は教勢を大いに拡張したわけである。寺平、塔林に真言宗長福寺(ちゃんぷくじ)があり、真言当山派の修験の道場として、ここがこの地区における行者の拠点であったろうと推察されるのである。寺平の真言宗長福寺を拠点として、身延山、或は七面山等の山々を跋渉し、修行したのではないかと推察されるのである。そして日蓮聖人が文永11年(1274)身延入山後、七面山勧請の弁才天が、聖人説法の座に妙齢の女人に身を変えて聴聞し、法華経の功力によって、末法法華経行者守護神として、また身延山守護の善神として自ら誓願し、七面山に鎮座したのではなかろうか。
 永仁5年(1292)実長は、鎌倉から身延に参詣した日朗上人と七面山に登り、山上に新たに祠を建て、末法総鎮守七面大明神と号した。七面明神が史実に表れたのは、天正20年(1592)に図示された雲雷寺日宝(大阪雲雷寺開山身延末)の曼荼羅の中に勧請された頃で、身延18世妙雲日賢上人は文禄5年(1596)「七面大明神宝殿、常住守護本尊」を図顕していられる。恐らく七面信仰は天文年間(1532)より天正年間(1577)、すなわち身延14世日鏡、15世日叙、16世日整のころ発生し、この3代560年の間に具体的信仰形態が整ったものであろうといわれている。
 また七面山の御神体が蛇形であるということから、法華経提婆品の「八才の竜女」が本体であると推定する向もあるが、草山元政の「七面大明神縁起」には「鬼子母尊天の女なり」と記しており、その所伝は区々であるが、これはあくまで理論を越えた個々の信仰上の問題であるため、一方的な結論は避けるべきであると思う。