第三節 日蓮聖人の入甲と富士埋納経

 日蓮聖人が最初に甲斐に入られたのは、文永6年48歳の5月である。すなわち日蓮聖人が、国難を救うため、また他宗の信仰を改めさせるため、鎌倉街頭に於て獅子吼している最中、名もない一農夫の信者の勧めによって実現したものである。
 小川泰堂居士の日蓮聖人聖伝には
 斯くしてこの頃甲州の農夫なりとて彼処の往還、此処の辻と、大士につき纒ひてその説法をききいたりしが、その法理といい、立居振舞いといい、これ日本第一の名僧なりと思ひ定め、大士の御庵室に来り戒を受けて改宗す。大士その名を問ひ給へども、甲斐の国巨摩郡今諏訪といふ片田舎の賤の身にして、名をきこえ奉る程のものにもはべらずとて立去りけるが、幾程もなく一人の童を携さへ来たりて、これは我が長子にてはべる。あまりに聖人の尊く覚ゆるぞ、何とぞこれを法弟(みでし)になし、炊(かしき)の扶(たすけ)ともなし給はれと願ふにぞ、大士その児を御覧あるに眼光人を貫ぬく。これ尋常のものにあらずとて法弟(みでし)とし、名を日進と賜ふ。時にそが父も側室にありていふやう、願くは我をも御手を労して剃髪せしめ給へ、御門前の塵を払い、御庭の草など除いて事奉らんとあるに、大士頓(やが)て髪をおろし久本坊日元と呼び給ひ親子他事なく仕事(つかえ)けり。
 (久本坊日元、嵯峨源氏安倍貞任が末裔なり。貞任滅亡の時その母懐妊ながら甲州の山里にゆかりありてここにかくれ、その出生の子姓を棄て農民となる。久本坊はその正嫡なり。日進師此時十一歳、後に三位阿闍梨と称す。十三歳の時日朗上人とともに宿谷の土の牢に入り、十九歳の時桑ヶ谷に竜象坊と問答す。正安二年駿州富士郡抽野村に竹養山正法寺を草創し、正和二年五十五歳の時、身延山第三世を相続す。同四世日善上人も久本坊の子にして此日進上人の舎弟なり。)或夜久本日元、大士の肩を摩(な)でながら語るやう、我が生国は至極の山国にて、人間も木石のやうにはあれど、山の姿水の色、風景かへって見処多し。秋よりは寒冷(さむさ)の他国に勝りて凌ぎがたけれども、青葉に茂る夏山は木蔭涼しく、岩間を下る滝津瀬は浮世の塵を洗ふが如し、いつかよき折を得て聖人を伴なひまいらせたし、とありけるにぞ、去(され)ば、我もかねて願はしきことあり、いでや甲斐の国より富士山に登らばやと、思い立日(たつひ)を黄道吉日、これより旅の用意しつつ、程なくこれが道しるべにて甲州吉田に着き給ひける。
 とあり、右文中に「我もかねて願はしきことあり」とあり、すなわち「自分もかねがね甲斐へ行って見たい」と念願しているその願いがはからずも実現したわけである。その願いとは何であるかを忖度(そんたく)するに富士山に登り埋経して国を鎮めるためであった。
 山川智応著「日蓮聖人」には「文永6庚午(1269)、今年富士山に登り、その中腹に法華経を埋めて鎮国に擬す。後世経ヶ嶽と称するは是なりと伝ふ」とある。
 また、「日蓮の生涯と足跡」(小川雪夫著)の中に、「富士埋経の世界的祝祷」と題して、
 日蓮上人の文永六年(一二六九)夏の富士埋経は、前年の十一通の警告状発信を動機として数年来の構想を実現したものと考えられる。田中智学氏は、聖人の登岳目的を世界宣言の一事現とみる点から、世間の雑説を超克して、「世界および国家の前途を祝福された」ものであると解説した。この前途という言葉の中には、世界の平和が保証される本門戒壇建立の暁を意味するものと思われるのであって、これを法華経の教意から敷衍(えん)して、本門の戒壇ということが世界国家の現実の上に展開して行かないような宗教なら、伝教に劣り、鑑真、叡尊にも遜(ゆず)るべき小規模なものである。謂う勿れ、宗教は精神だと。物と融交しない精神なら、それは幽霊教である。謂う勿れ、宗教の対象は、よろず理想だと、理想専門なら、鉄道の架けられない十万億土は人間の用に立たぬ。聖人の「守護国家論」は爾う教えている。若し本門戒坦を風馬牛に置いて日蓮主義を扱うなら、それは念仏のかわりに題目を唱え、アーメンの代用に法華経を誦するに過ぎない。いわゆる、「八万十二の高きを下して、三墳五典の卑きに督く」ものである。と本門戒坦の意義を活釈し、また、「日蓮聖人伝」十講には、「国の代表的名山え生命とせる聖経を納められた密意は、此の年正月一日から「止観」を講ぜられた「日本の柱」とかわるべくもない」、
 と日蓮聖人の富士埋経の深微なる心境を推考してあり、この密意とは深い意義ということで、「かわるべくもない」ということは、富士埋経の心意は「我日本の柱とならん」と大喝された心義と同じだということで埋経肯定である。
 また「高祖年譜」の文永6年の条に「大士甲州吉田に如く、手ら経王全帙を筆して富嶽の半嶺に埋み、以て後世流布の苗根を為す、世々経嵩(きょうがたけ)と名く」とある。この「後世流布の苗根と為す」ということは、前掲の遺文の意を寓したものである。
 また、甲斐国志には
 五合五勺、道より南の厳崛を経嶽と云ふ。相伝ふ、昔僧日蓮の法華経誦せし地なりとぞ。堂一宇あり。其内に銅柱に題目を鋳付たり。但日蓮参籠の地と、少し上に巌穴あり、今姥懐と称す。是日蓮風雨を凌ぎし所なり。其時、塩谷平内左衛門が家に宿し、彼が案内にて登山し、此処を執行の地と定めたりとぞ。
 と往時の事蹟を地域的に説明している。
聖伝には、
 本より久本坊の識(し)る人なりとて神職星屋平内の方へ入奉る。平内喜んで教化を受け、授戒して本尊を賜ふ。この近きあたり法を聞いて帰依するもの多し。後年ここに寺を建て吉祥山上行寺といふ。大士此地に滞留のうち、信者十人ばかりを案内として富士に登山なし給ひ、時に天晴れ風静にして十三州は一望の眼下に逼り、誠に閻浮無雙の名山なりと賞歎なし給ひ、予て書写しありし法華経一部を山の半腹に埋め、巌の上に座して暫時御経あそばし給ひける。其地を今に経ヶ嶽とて其古蹟をとどむ。此(これ)末法万年広布の基を堅めんとの祖意(みこころ)なりといひ伝ふ。それより山を下りて小立村に入り、しばらく憩ひ給ひしに、此里人かねて聞きつる日蓮聖人なりとてここに群参(むれき)て題目を唱へ、各々手に手に紙をささげもちて御本尊を請(こふ)。高祖これを数へ見給ふに二十八枚あり。これ御経の数なりとて、此紙をひとつに粘合(つぎあわせ)て一紙(いちまい)となし大筆に題目を書(かい)て村長(むらおさ)渡辺藤太夫に渡し給ふ。今駿州岡宮光長寺に伝来し、岡宮二十八紙の曼荼羅とて世に名高し、それより山梨郡勝沼北原(現在の休息・日蓮聖人第一の壇越富木播磨守胤継公の所領)を過て田並(たなみ)にやどり給ふ。主翁(あるじ)の願にまかせ、大黒天を画て授け給ふ。今に存在す。又此地に黒川といふは、その頃金銀山有て千軒餘り竈(かまど)賑しかりしかば、大士も此里に入て弘教なし給ひけり。すべて当国は大法有縁の国にやありけん。しばしの弘通に改宗のもの多く。いまに勝沼に上行寺、黒川に法華寺、北原に立正寺等有ってその霊跡をとどむ。それより相州足柄郡板橋といふ地にかかり、象が鼻といふ処の石に腰うちかけ、此のわたりより安房上総の方(かた)波間はるかに見ゆるにぞ、古郷なつかしくおぼしめし、しばし両眼を閉て妙日妙蓮へ御追福の御題目を唱へ給ひける。後に朗慶聖人、この地に寺を建て象鼻山妙福寺といふ。高祖大士は漸やく長月の頃松葉が谷に帰り給ひし。
 とあり最初の甲斐遊化は文永11年卯月、旧暦4月より長月即(すなわ)ち旧暦9月まで半歳にわたって行なわれたと推察されるが、察するに入峡の期間は旧暦4月の1ヵ月余りの間に行なわれたのではないかと推測される。その理由としては文永5年の初めより、蒙古来牒々に及び、かつて8年前、文応元年(1260)立正安国論を撰し、国民の信仰の誤りを指摘し、信仰を改めなければ内乱、外寇(こう)の2難が起るであろうと警告したが、果たせるかな、その的中したるを感知し、これが対策として諸宗への帰依を止めて、一乗妙経を信受せしめんとして構想を練り、それぞれ鎌倉幕府の執権北条時宗、執権代理北条頼綱、その父法鑒房、北条弥源太、建長寺道隆、極楽寺良観等11人に書を送り、捨邪帰正をもって国難を回避せしめんとした。いわゆる乾坤一擲(けんこんいってき)の大諫暁の時であり、蒙古の来寇を目前に控えての時であったため、身心ともに余裕のある時期ではなかったために、富嶽埋経の目的を達成されたのち、有縁の信者方の教化に当たり早々に帰倉せられたのではないかと推察される。右のように未見の甲斐には関心を持ち、親近感を持たれていたことであろう。しかし、此の年には波木井郷まで足を延ばすことはせず、甲斐の東部の巡錫(しゃく)に留まったようである。
蒙古の来襲と埋納経
 日蓮聖人聖伝には蒙古来襲の消息を次のごとく述べている。
 此年卯月の初旬、大元蒙古より又書をもたらして対州に来る。宗対馬守宗資これを追かへす。蒙古の使その帰るさに対馬の国人塔次郎、弥三郎の両人をとらへて船に載せて帰国せりと鎌倉の風評取りどりにぞありける。
 と当時の国際状勢としては、さきに蒙古の大宗(1235)金を亡ぼして支那大陸を手中に収め、高麗国(朝鮮)を降参せしめ、大宗(1241)死後はその子憲宗位につき、その舎弟忽必烈世を継ぎ、世祖皇帝と称し至元元年(1264)には都を燕京(今の北京)に移し、大元蒙古と呼んで世界征服を企図し、日本に侵略の手が伸びて来た。その時の状況を聖伝には次のごとく述べている。
 今年戊辰の春、唐土大元の世祖忽必烈、その国の至元三年、黒的といへる臣下を使として書翰を日本に贈る。朝鮮の国王王植、添書をなして臣下潘阜(はんぶ)といふものを案内として正月十八日京都に達く。其大元の書翰を披見(ひらきみ)るに「大蒙古国皇帝より日本国王に言(まを)す。我が大祖天命を奉じ宋国を亡ぼし、今中国に居て四海を治む。高麗もはや我が手に入る。願くば日本、我が国と好(よしみ)を通じ、和親して相交らば四海咸(みな)一家の如くならん事を思ふて使を遣す処なり」
 とあり、又高麗国王の添書には、
 「我が国、大元の命に従って其徳に懐く、皇帝今日本と好を通ぜんとするは利慾の為にあらず、偏に万国一致の睦をなさんとの心なり。早く貴国の返翰を待つ。
 と書きたり、京鎌倉の詮議区(まちまち)にて、「其書の文言無礼なればとて、返に及ばず、そのまま使者を追帰されける。これ大元蒙古日本にたたりなす始にして」
 とあり、まことに日本の有史以来の他国よりの侵略に遭(あ)う最初であったのである。
 さらに蒙古は文永6年(1269)再び黒的、殷弘の二人を派遣して、日本に回答を求めたが得られず、文永8年10月張良弼等100余人は、壱岐、対馬を侵し筑紫の今津湾に侵入したが、太宰府の軍によって撃退された。ここにおいて文永11年(1274)10月忽孰剤、洪茶丘等をして船艦900艘をつらねて博多湾に来寇したため、鎮西太宰府軍は危機に陥ったが一夜暴風起り、敵船はほとんど海中に転覆、将兵はことごとく海中の藻屑(もくず)となった。
 さらに蒙古は、建治元年(1275)4月国号を元と改め、同時に杜世忠等5人を日本に遣わした。時に幕府はこれを鎌倉竜の口に斬った。さらに幕府は、弘安2年(1279)7月元使夏貴、周福等を再び博多において斬った。それから2年後の弘安4年6月5日元兵10万を乗せた艨艟(もうどう)は博多湾に侵入した。この時博多湾においては彼我対陣し、将に大海戦にならんとする寸前、またにわかに台風起こり元艦悉く覆没し、わが国は敵国の侵略から逃れることが出来た。
 日蓮聖人入峡の前年は、正月早々より蒙古来たり通交を要求したため朝野を挙げての大騒動となり、2月19日には蒙古襲来に対する防備を讃岐国の御家人に下知する等、また、朝廷においては諸宗高僧に命じて異国降伏を祈願する等、戦々競々世上騒然、聖人は蒙古よりの来牒を憂慮し、この所以を広く仏経に照して「念仏、真言、禅、律等の悪法一天に充満して上下の師となる故に此の如き他国侵逼の難起れるなり。法華不信の失に依て後世は無間地獄に堕すべし。早く邪見を飜し、達磨の法を捨てて一乗正法に帰せしむべし。」と述べられた。
 また自ら挺身して国難を救わんとし、「日蓮は日本第一の法華経の行者也、蒙古国退治の大将也、一切衆生の中に於て最もこれ第一とは是也。」(与極楽寺良観書)この大信念のもとに「鎌念殿、宿屋入道、平ノ左衛門尉、弥源太、建長寺、寿福寺、極楽寺、多宝寺、浄光明寺、大仏殿、長楽寺等11ヵ所に書を送りて、「法華を謗る者は三世諸仏の大怨敵也。天照大神、八幡大菩薩等此国を放(捨)ちたまう。故に大蒙古より牒状来る歟、自今己後各々生取(いけどり)となり、他国の奴となるべし。」(謹上弥源太入道殿)との大信念のもとに身を以て国難に対処せんとせられていた時である。この時に臨んでの入峡は単なる物見遊山ではないはずである。すなわち前掲の山川智応著の「日蓮聖人」に「富士山に登りて埋経して国の鎮めとするため」と記されているごとく、埋経の功徳によって仏菩薩の加被力を得て国難を救わんとせられたのである。ただし、ここにおいて埋経とはいかなるものか説明を必要とする。
 埋経とは経文を書写して山頂等に埋め国難に遭い、または悪世に法滅せん時に遠く将来をおもんばかって経文を筒に入れて土中に納め、未来の広布の時を期するためである。蓋(けだ)しこの写経埋蔵の事は、古く中国においても行なわれた。すなわち、今から1400余年前、陳の文帝の代、南岳慧思禅師立誓願文に、南岳慧思が金字般若経並に法華経を書写し、これを衡山に埋置し、弥勤の世(釈尊入滅してより56億7000万歳の後に、娑婆世界に出世して教を弘む)に至って出現せしめんと誓願したことが記されている。また日本においては今より1135年前(昭和44年)慈覚大師円仁叡山横河に庵居し、如法経を書写す。(慈覚大師伝、明匠略伝、元亨釈書之)とあり、慈覚大師伝には、
 年四十に及ぶの比、身羸れ眼暗み、命の久しからざるを知る。是に於て此の山(比叡山)の北洞幽閑の処を尋ね、草を結びて菴となし、跡を絶ち終りを待つ、今の首枴厳院是なり、俗に横川と曰ふ、蟄居三年、練行弥新なり。中略、其後疲身更に健に、暗眼還って明なり。是に於て石墨草筆を以て手自ら法華経一部を書写し、四種三昧を修行し、即ち彼の経を以て小塔に納めて堂中に安置す。後此堂を号して如法堂と曰ふ。後長元四年(一○三一)八月に至り、首枴厳院覚超等は発願して、この書写の法華経を経筒に納め、之を横川如法堂裏に埋置し、以て当来の法滅に備えんことを願じ、尋いで延久五年(一○七三)首枴厳院長吏良正は、三十番神を勧請して如法堂守護神となせり。近時大正十二年横川如法堂址の地中より堂筒を発掘し、中に五筒三個、経筥及び水晶玉一個の納置せられたるを発見せり。是即ち長元四年の埋納に係るものなるや疑を容れず、之より先寛弘四年(一○○七)藤原道長は法華三部等の経を手写して大和金峰山に埋納し、尋いで康和五年(一一○四)十月僧京尊は法華経一部を書写して、伯耆東伯郡舎人村倭文神社に奉納し、共に弥勒の出世を待たんことを願じ、其後徳川中期に至るまで、其の行事は道俗の篤信者によりて盛に営修せされ、書写の経は之を経筒に納置して、仏寺社殿又は墓辺等に埋蔵し、遂に全国到る処に如法塔、如法経塚等の造立を見るに至り、近時発掘せられたる経筒等亦少からず云云。
 また参考太平記第五に
 昔鎌倉草創の始、北条四郎時政、江の島参籠して子孫繁昌を祈けり、三七日に当りける夜、赤き袴に柳裏の衣著たる女房の端厳美麗なるが、忽然として時政が前に来りて告て曰く、「汝が前生は箱根法師なり、六十六部の法華経を書写して六十六箇国の霊地に奉納したりし善根に依て、再此土に生るる事を得たり。されば子孫永く日本の主と成て栄花に誇るべし、中略、其後弁財天の御示現に任て、国々の霊地へ人を遣して法華経奉納の所を見せけるに、俗名の時政を法師の名に替て、奉納筒の上に大法師時政と書たるこそ不思議なれ。
 と云い、埋納経の功徳甚大なことが挙げられている。
 更に法華経法師品第10に、法華経の修行法として、受持、読、誦、解説、書写の五種の修行が明らかにされているが、日蓮聖人もこの五種の修行を実行されたことはもちろんである。ことに「書写」の行については、地引御書に
 坊は十間四面に又庇さして造あげ、二十四日大師講並に延年心の如く仕りて、二十四日の戌亥の時、御所(もと)に集合して、三十余人を以て一日経書き(書写)参らせ云云。
 とあるに見ても写書は自らもなされ、また、弟子檀那にもすすめ、功徳の甚大なることを教えられた。よって文永6年春の入峡は、霊峰富士への埋経によりて国の鎮となし、法華経の法力、仏護念力によって蒙古襲来の大国難を回避しようとされた行動に外ならぬと推察される。
 故に入峡留錫の期間も短かく、行動範囲もごく一地域に限られていたわけである。
 なお、日蓮聖人身延入山以後の身延山関係の歴史は第11編第1章に詳述する。