第四節 下山氏と帯金氏の治績

一、下山氏

 清和天皇の皇子、貞純親王の子経基王は10世紀初めのころ源姓を賜わって臣籍に入ったがその子満仲の子、即ち経基の孫、頼信は長元2年(1029)末甲斐守に任ぜられた。
 たまたま平忠常の乱が房総におこり頼信は勅命によりこれを平定した。
 甲斐と源氏との関連はこの頼信から始まったのである。
 頼信の子頼義、その子義光と相うけて甲斐守に任ぜられた。頼義は前9年の役(1051−62)を子義家とともに鎮定したが更に義家は後3年の役(1086−88)に出動し、弟新羅三郎義光の来援協力を得てこれを解決した。
 義光の子義清は藤原氏の青島の荘の下司(げす)職となって平塩ヶ岡に館を構え、義清の子清光は天永元年(1110)平塩の館に生まれた。
 父子はよく協力して八ヶ岳南麓一帯のかつて義光の開拓したと考えられる地に進出した。
 清光には武田家系図によれば13人の男子があり、長男光長が父に続いて若神子の逸見の谷戸城に居して逸見氏を称し二男信義は釜無川をこえて武川荘武田(韮崎市)に進出して武田を苗字とし三男遠光は加賀美の荘(若草町)に出て加賀美氏の祖となった。
 この遠光の長男光朝は秋山(甲西町)に出て秋山を称し、其の孫光重が建仁年間(1201−04)下山領主として来住した、下山小太郎光重である。それより早く遠光の三男で頼朝に従って石橋山に平家と戦った光行が南部領主となったのは文治四年(1188)とされている。
 下山氏は南部氏のように家系が続かなかったのでその系譜を定めるのに困難であるが、日蓮聖人の「下山御消息」同「註画讃」甲斐国志等にその記載があり、「南巨摩郡郷士史概要」にその系譜を次のように記してある。
 「下山御消息」の末尾は、「建治三年 六月 日 下山兵庫五郎 殿 僧日永」、としてあり、「御消息」の諸研究によれば、下山郷の地頭兵庫介光基は氏寺平泉寺において子、因幡房に阿弥陀経を勧修せしめていたが、因幡房四郎は比叡山修学時代相識った最連房とともに身延の山へ赴き聖人の教化をうけ、法華経を信ずることになったので父から詰責されたが、聖人が因幡房に代って念仏宗から法華経信者に光基を教導しようとして「御消息」を兵庫介に送られたので兵庫介も聖人によって入信したとされる。
 しかしこの諸研究にもそれぞれ相違点があって定説はない。
 下山氏の館は現在の下山小学校と本国寺々域にかかり後穴山氏がここに居住した。
 国志士庶部巻之百十六の、「下山小太郎光重」の項に諸書から10人近い下山某があげてあってそれらの中に「東鏡」からの文暦2年(1235)の鎌倉幕府吉例の正月の射手下山次郎入道、弘長3年(1263)正月の射手下山兵衛太郎等があるが光重・光基との関係は不明である。
 またこの頃に建武年間記(1334−35成立)から引付衆として下山修理亮を、また太平記(1371頃成立)から、観応3年(1352)に足利尊氏が弟の直義を討とうとして関東に出兵したさい、「甲斐源氏云云下山十郎左衛門、都合弐千余騎馳参ル」の記事を引いて下山氏の当時の存在を肯定したい記述をし「若州・勢州ニモ下山氏アリ皆本州ヨリ出ト云」としている。
 下山という呼称は今の下山から以北全体についてもよく使用された。以南全体が南部と呼ぶのに対するものである。
 光重の来住は下山の集落としての発達の契機となったであろう。

二、帯金氏

(一)東河内領の概要
 穴山氏による河内一円の支配がなされたのは、信友の時代であったことは今日残っているいくつかの文書から明らかに知ることができるが、初期の穴山氏が南部又は下山に居して、その周辺を部分的に支配していた頃、更には穴山氏の河内入部以前の河内の状態、ことに富士川をはさみ対岸の指呼の間にある東河内領はどうであったか一応明らかにする必要がある。
 すでに三章第一節で述べているように、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏が甲斐国の巨摩郡を中心として、各地に強大な勢力を養っていた頃、八代郡に属する後の東河内領、巨摩郡に属する後の西河内領を合わせて川合郷と呼ばれていた。この中には加賀美・市川・逸見・岩間・下山などの荘園があり、更に南部などのいくつかの牧も存在していた。
 西河内は南部御牧と下山荘の二つより成り、中世末特に12世紀から14世紀にかけ、これ等二つの地域を基盤にして、南部・下山の二氏による西河内の強力な支配がなされていた。穴山氏による河内領支配の初期的段階においては、東河内領においても西河内同様の区分がなされていたと思われる。国志によるととあって岩間の庄と下部の区分は西河内のように、北南とはっきりと支配的に区分されていたとは思われない。国志によると「当領中世分部ニテ六組ト称ス」と、あるように中世において六組と言われていたことは明らかであった。すなわち岩間組弐拾村、古関組七村、田原組四村、常葉組九村、帯金組拾三村、大島組六村の合計五十九村となっていたのである。
 この六組の正分は、何を意味するものか不明であるが、おそらく穴山氏の河内居住以外の勢力である常葉・岩間・帯金氏を始めとして次第に穴山氏の支配下におかれていき、それ等の六組の名称が、これらの各氏と一致することを考えると、彼等はむしろ、穴山氏による被官下の中で一組の統合をまかせられたものであろうと思われる。つまり穴山氏は彼等を自己の支配下に入れて、彼等の一地方における権利を認め、このような小豪族の集りを支配することによって河内全体を次第に自己の権力下に組み入れていったものと思われるのである。
 その点同じ河内にあっても、西河内にあっては下山氏・南部氏のごとく比較的強力に抵抗したと思われるものについては、被官下に置かれることなく諸勢力は完全に排除され直接支配下におかれていったが、国中における武田氏と国人層との争いのようなものでなく、たやすく支配下に置くことができたこと、つまり国人層のような勢力を持ってはいなかったものと思われる。いわば河内地方全体に中世的な社会構造が後進的であったことが、河内地方の統一が容易にできた原因であろう。

(二)帯金氏の家系とその支配

 河内には国志によると「東西河内共ニ西部ヘ引続キタル地ニテ皆加賀美氏の伝領ト見エテ古址ノ存スル事モアリ故ニ南部下山ヲ始メ氏族多ク分処セシ趣ナリ士庶部ニ記スル所ノ帯金、狭野、万沢、岩間、三沢等の諸氏モ其家ニ縁アランコトヲ疑エトモ今訂定ノ所ナシ」と記している。系統的には帯金氏以下加賀美親族衆としては疑問の点もあるが、立証する何ものもない。東西河内は加賀美氏の所領でその支配下にあることからみて、おそらくそれにつらなる一統であろうとみているのである。
 本来加賀美遠光は、国志によると「加賀美次郎と云元暦二乙巳年八月十六叙任信濃守従五位下平家追討賞源氏ノ大将受領六人ノ一ナリ諸家大家系図ニ清光ノ二男信義の弟トス」とあり、「遠光同五年七月奥州征伐ニ従ヒ建久三年同五年ノ記ニモ見エタリ長寿ノ人ナリ加賀美庄ハ西郡筋ニ加賀美村アリ」とあって、さらに「遠光ハ洪徳アリ子孫加賀美、秋山、小笠原、南部、於曽、下山等ノ村流繁栄ニシテ世々美ナリ」とある。
 いずれにしても、遠光一族がこの地に配され各部分的に居住を営んでいたものと思われる。尊卑分脈をはじめ多くの系図によると、遠光男光行が南部を領して南部氏を、同じく遠光の長男で秋山に居した光朝の男光定が下山に居して下山氏をとなえていたとなっているが、国志によると「諸本系図ニ秋山氏紛然トシテ一ナラス大系図ニ光朝ノ男秋山太郎光定(一ニ光、又、市トモ)光定の弟下山小太郎光重常葉二郎光季ト記セリ……」とあり、尊卑分脈との差違もあるが、遠光一族が河内へ勢力をはっていたという点においては、いずれにおいても充分うなずけるものである。そして、これ等各氏ともにその出生と「子孫の伝詳ナラズ」ではあるが、その一時期12世紀後半より15世紀の中頃にかけては、いくつかの勢力の存在を立証する史料を散見することができる。 そしてこれ等は加賀美氏の系統として下山・南部・常葉・帯金・万沢氏等が考えられ、その他本来は甲斐の国とは地縁的関係をもたず単に幕府が河内の一地域を領地として与えたことによって、その地の支配を行なったものとして、岩間・飯富・工藤・四条氏があげられる。
 彼等はいずれの氏族にしても河内地方にあっては部分的な割拠をもって支配していた。そして彼等の権力構造の内容が部分的なものであることは、支配する地域の広さや狭い山峡の地の各部族間を知る史料が絶無に等しい状況からも想像にかたくないわけである。以上のような穴山支配以前の河内地方における勢力関係から見て、帯金氏のおかれている立場も、およその範疇がわかろうと思うのである。
 国志士庶部第十六、八代郡東河内領に「或人云帯金氏ハ本ト秋山氏ヨリ出ツト末知明拠」とある。又前記国志人物部、秋山太郎光朝の項「士庶部にスル所ノ……其家ニ縁アランコトヲ疑ヘトモ……」のように伝えるところによれば秋山氏より出たことになっているが、いつ頃どのように分れたものであるかはまったく知ることはできない。下部町太田氏所蔵系図によると、加賀美遠光の長子を光朝以下長清・光行・光経とし五男に信継(帯金刑部郷正四位下美作守)その子信継帯金刑部郷従四位下美作守(法名静仙院殿梅桂秀香大居士応仁二戊子年九月八日逝去)となっているが、加賀美遠光は国志によると「元仁元甲申年九月十九日逝スト鐫メリ」即元仁元年は1224年であり、吾妻鏡によると、ちょうどこの頃は、源平の騒然たるときにあたり、 頼朝の石橋山の敗報を受けて、武田信義が甲斐源氏一門を引き具して富士川に対し、平家を破ったのが治承四年(1180)遠光のなくなる44年前にあたる。更に吾妻鏡には、逸見光長・河内義長・安田義資・武田有義・同信光・板垣兼信・小笠原長清・南部光行らが、この内乱期に活躍した甲斐源氏の人達として伝えられている。尊卑分脈を始め、諸家系図などを見ても信継なる者は見あたらない。

 史実的に帯金氏があらわれるのは帯金村八幡宮の社記を初見とする。国志士庶部に「本村八幡宮の社記に応仁元亥年帯金刑部亮信継勧請」とある。更に慶応4年即明治元年(1868)甲府寺社総轄に提出の由緒書に「右八幡大神之儀応仁元丁亥年六月十五日郡主帯金刑部亮信継自鎌倉奉勧請……」同上寺記部に「一当寺ハ正和三甲寅年鎌倉相模守平貞時御建立之地ニテ為国家鎮護之寺中帯金村之内ニ諸仏諸社勧請被成候得共時移退転ニおよび候故帯金村之邨主信継再建被成即開基至極先規之通皆御免地之所ニ永禄年中堂宇不残焼失仕候故右証文等焼却いたし其後境内斗除地にて罷在候」とあり、すでに応仁年間には、由緒書によると「郡主帯金刑部亮信継」となっており、当前の郡主並びに村主といわれる立場におかれていたのである。 静仙院過去帳によると信継公法号を「静仙院殿梅桂秀香大居士」「応仁二戊子年九月八日の逝去」となっている。応仁2年は1668年前記太田系図による正四位下帯金刑部郷美作守信継の年代よりどう見ても100年余りの差異があることから、国志にいわれているように「或人云帯金氏ハ本ト秋山氏ヨリ出ツト未知明拠」なのであろう。本来帯金氏が源氏姓を名乗るところをみると前記河内地方が加賀美一統の支配下にあったことと、合わせ考えてみておそらく甲斐源氏の出であることはほぼ間違いないと思われる。八幡社社記に見えるように相州鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したのが応仁(丁亥)元年(1467)である。すでにこの時帯金刑部信継は逝去の前年にあたっていたわけで、幕府をはじめ甲斐一円の政情も誠に騒然としていた時代であった。 郷村的な郡主として帯金郷の支配も一応終り、精神的よりどころを求め、敬神崇祖の念篤いものがあったのではないかと思われる。
 当時信継在世前後の中央地方の政情を見るに応永23年(1416)関東管領上杉氏憲が関東公方足利持氏に対し、叛逆をくわだて関東の動乱がおこった。世に禅秀の乱と呼ばれるものである。上杉氏憲の夫人は甲斐守護武田信満の女であった関係から氏憲に味方したが、形勢利あらず氏憲自害の後、東山梨郡大和村木賊山峠で自害している。応永25年(1418)信満の弟信元を幕府は陸奥守とし、甲斐守護に任じて、信濃守小笠原政康に命じて高野山から同道帰国させた。信元は兄信満に対する幕府の怒りを察し、自ら出家して高野山に閑居していたのである。甲斐の領内にあっては、逸見穴山などの国人層があり、これ等の国人層を平定して信元を甲斐守護に任じようとした。 そのため必要な場合その後見として政康に援助するように命じ、下山居住の穴山氏を討とうとした。年代的には、問題があるが「鎌倉大草紙」に書いてある。然し結果的には鎮圧することができず、信元は間もなく死亡している。
 その後信長の子伊豆千代丸に武田の家督を相続させたが、逸見、穴山などの国人層は幼少のため反対し、輪宝一揆を味方にして服従しなかった。そこで幕府は守護を信重に更迭したのである。また国志によると信元の弟満春を穴山第一代としている。満春は応永24年(1417)5月25日父同様禅秀の乱に関係していたことから、信満とともに没している。伝えるところによると満春の子は素行が悪く、満春の死後穴山の相続は武田信重の男信守の弟信介を穴山の養子とし、刑部少輔といい宝徳2年(1450)3月19日没したという。下山天輪寺に牌子があり、法名を天輪寺殿英中俊公大禅定門と称するところから、穴山氏がすでにこの頃には、下山氏にかわって支配していたものと思われる。 なお甲斐守護決定に際して逸見・穴山の国人が輪宝一揆に見られる小豪族の連合の統轄者として、また河内地方一帯において前記のごとく、地域的支配を認めながらも統一が完成しつつあったものと思われるのである。しかしながら、その支配の過程がどのようになされていったのかは現状では知るよしもないが、ことに亨禄以前(1530)の穴山・武田の関係文書類がほとんど該当地区から見当たらない点を見て支配権力の如何を論ずることが困難である。以上の前後のことからみて帯金の郷もすでに穴山支配下におかれていたものではないかと思われる。
 吾妻鏡などに出てくる南部・下山氏は鎌倉武士団の中での地頭としての存在であったと考えられる。そして彼等の領地は各々南部の牧を中心とする部分であり、下山庄を中心とする御家人であり、鎌倉武士団にはっきり位置づけられたものであったと思われる。
 しかし帯金氏については前記の二氏のような場合とは性格的に多少異なっていたものではないかと思われる。それは彼等が吾妻鏡に出てきているのに対して帯金氏については全然現われてこないことなどによって御家人であったとは考えられない。帯金という地名の場所にあって、相当の支配力を持っていたことは事実であり、それが地頭的な性格であったかも知れないが、どちらかといえば、多少の直営地を手もとに持っているが直接経営を行なっている地主・名主層に近いものではなかったかと思われる。というのは鎌倉末より荘園制の崩壊が段階的に行なわれるのであるが、ことに名主百姓の年貢課役の負担に対する強訴、逃散が全国的に行なわれ荘園制の基盤は次第に動揺を続けていった。
 しかもこの動きは、名主百姓は有力名主又は土豪を中心に相互に結束する傾向をたどり、それが惣村などと呼ばれる郷村結合で、自分たちの村と生活とを守る郷村民としての結集がなされ、荘園領守や在地領主、守護などに対し反抗する程の勢力となり荘園内部から動揺衰退をさせていくのである。
 なおこの動きは地頭・御家人層にも影響していった。さらに中世農民は兵農分離がなされていなかったため、かなり強い実力をもっていたものと思われる。そしてこれら農民といっても、その中にはかなりの上級階層があり、時には農民から上層武士にもなることができたわけである。農民の筆頭は名主であり、名主で有力なものは○○殿などと呼ばれる土豪豪族になるのである。
 そしてこうした存在が、実は帯金氏をして今日までこの家系が存続し得た一つの要因ともなったのではないかと思われるのである。応仁の乱以後、大名領国制の成立によって封建性は、いちじるしく成長したが、その中でとくに注目すべきことは郷村制の発達であった。郷村制とは、近世村落のがわから中世にさかのぼってもちこまれたもので、本来律令体制の動揺がみられる平安初期の郷村から荘園制がうみだされ、更にその荘園制の動揺と表裏の関係であらわれてくる室町又は戦国期の村落の自治的統合をさしている。つまり中世的荘園村落が崩壊して、その中から新しく生れて来た村落結合、何郷何村とよばれるような村落結合をさしているのである。
 当時郷村とは漠然とした集落、近隣位の軽い意味であったものであろうが、この時代の農村構造は独立又は半独立の小農民を加えた村落共同体的の性質が強く、農村の構成は小名主=小地主で、戦国動乱とともにこれ等の独立、半独立した小名主、小地主はほとんどが軍役衆、つまり武士となったものである。
 しかし、これ等の武士はいわゆる下級武士で、軍事編成では各寄親に付属させられる。兵農分離のされなかった武田支配時代は、平時は農民として農耕に従事し、戦時には軍役衆として戦場に徴発されたものである。農民と名主の力関係は千差万別であって、いちがいには論ずることができないが、当時の名主らは惣百姓の意向を無視することができず、おそらくある程度ご機嫌を伺いながら同調していたものと思われる。
 反面国人ら上級権力者たちは、武田などに対する穴山氏の関係、穴山氏に対する帯金氏のように、相当迎合せざるを得なかった。
 また、反対に国人たちは基盤となる各名主層の強い突き上げに苦慮したのではないかと思われる。この間の事情は穴山氏が東河内を5組に分け、各郷の支配権力を認めて再々支配に近い体制をとった点は、まさしく東河内の郷村内の名主層の突き上げと内国の分裂をさけるための手段としてなされたものではないかと思われる。
 戦国期における帯金氏の系譜をたどってみると多くの疑問点に気がつく。その起因はやはり系統的に帯金氏関係の文書がないこと、その2は1、2の系図があるがいささか年代その他に合致しない点があること、その3は浄仙院(静仙院)の過去帳なるものも実は永禄年中に焼失して、現在の建物はその後再建されたもので、その際過去帳始め寺有財産も灰燼(かいじん)に帰したもので、現在のものはその後つくられたものである。以上のことからみて帯金氏に関するものは2ないし3の文書などから憶測(おくそく)の域を出ないわけである。
 しかしその中にあって最も隆盛を極めたと思われるのは初代信継の生前、応仁直前から6代帯金美作守信房あたりまでの140年前後ではなかったかと思う。
 初代信継以下4代までは甲斐国志神社部にとある。静仙院の過去帳と比較してみるに、信継はまったく同名、その子左京進については過去帳では信祐、国志では助継とあり、また太田系図では過去帳と同じく信祐である。当時はいくつかの名前をもっているので同一人であろうと思われる。三代民部少輔についてはいずれも吉継で、四代刑部輔については国志士庶之帯金刑部少輔「北越太平記ニ永禄四年川中島ニテ戦死ス」とある点については、国志とともに合致している。
 しかし静仙院過去帳では
  心空了運大禅定門
  永禄四年辛酉年五月二日
  帯金刑部輔定継公
となっていることからみて、国志北越太平記に「川中島で戦死」とあるのは年月日がいささか合わないことになる。永禄4年(1561)川中島合戦は第4回目で景虎改め上杉政虎が妻女山に布陣したのが同年8月16日であった。すでに信玄は3月海津城に諸将を集め、政虎に対抗しようとしており、4月に入り碓氷峠を越えて上野に攻めこんでいる。
 川中島の合戦は9月に入ってからで、上杉と正面衝突したのは9月10日であったことをみると、定継の戦死は川中島の合戦でなく、それ以前のことになる。
 国志では「同軍談ニハ刑部左衛門虎達トアリ……同人カ」と記しているが、系図では虎達は定継の三男となっている。長男は信行(帯金主膳正)次男信吉(帯金兵部介)三男虎達(帯金刑部介)となっていることなど、前記川中島の合戦などと照合して国志でいう同一人とは思えない。或は虎達が父定継とともに川中島に出陣し所謂川中島合戦にて戦死したものか、虎達のその後については静仙院過去帳にも見えず、判然としていない点がある。
 いずれにしても、第4回目川中島合戦は、前後五回の合戦中最も激戦であった。
 信玄時に41歳、この時信玄の弟信繁も戦死、また信玄がこの戦で車懸の戦法を用いたとか、謙信(政虎)が信玄の本営を自ら襲撃したと言われるのもこの戦であった。おそらく刑部少輔定継は穴山信君に従い出陣したものと思われる。
 信友と信君の支配権の交代は弘治・永禄年間であったと思われるし、また望月喜兵衛所蔵の今川氏真書状によって信君の信州への出陣を知ることができる。つまり、前記支配権の移行を証するものといえる。
其以後者不申承候 仍高白斉注進之分者越後衆雖今出張無指儀退散之由先以可
心安候哉承度候因之陣中江以飛脚申候 恐々謹言
 八月廿九日 氏真花押
 武田彦六郎殿
 また、虎達については前後の関係よりみて、信頼度に欠けるが伝えるところによると3人の兄弟の中で最も優れ、父定継の親任が厚かったといわれており、帯金荘内の支配については長男信行にかわって事実上の権限を持っていたといわれている。帯金氏の名称の出てくる文書はいくつかあるが、直接の署名によるものは天文23年(1554)の虎達(花押)による佐野磯右衛門家文書(現佐野祥盛蔵)が唯一のものとして残っている。 この文書の存在は国志士庶の部、帯金刑部少輔のところに「……大崩村里民ノ所蔵ニ天文二十三年寅六月日マルタキニ於テ恩地ノ事云云虎達(花押)佐野孫右衛門ヘトアリ同人カ 丸滝モ帯金荘ナルヘシ自分ヨリ恩地ヲ出ダセシナラン」と記しいてる。
    姓不詳虎達判物写
虎達花押
まるたきにおいて おんちの事 いつものことく出しおき候者也いよいよぶさたなく奉公可致候者也 仍如件
 天文廿三年□
   五月吉日
  佐野孫衛門
 虎達の帯金氏の中における位置づけも判然としないので、ましてや穴山家中における彼の立場がどのようなものであるか、推測すら無理なことである。しかし、いずれにもせよ、自分の領国内の土地を恩賞として与えるということは、帯金荘の支配権を持っていない限りできないことである。
 虎達の権力の範囲がどの程度のものであるか、およその想像がつかぬでもない。
 本来恩地は鎌倉以後、封建制土地支配が生まれ、将軍なり諸家がその臣下に、代々の奉仕、勲功などにより土地を与え、君臣関係を結んだものである。従って孫衛門なる者が、何かの勲功により丸滝の土地を与えられ、虎達との間に君臣関係が結ばれ、以後もっぱらこれに答えるべく相勤めるようにとの趣旨である。
 孫衛門なる者は、後記穴山氏の中に史料がいくつか載せてあるが国志にも、「大崩の人、弘治三年穴山信友(花押)ノ文書ニ大崩ノ助左衛門尉ト有リ天正八年正月ノ文書ニ大崩ノ孫三郎同十月大崩ノ孫左衛門尉トアリ二通ハ梅雪(花押)皆山造ノ奉公トアリ」多分大崩の村長あたりで、代々山の管理・杣・大鋸などの支配もかねて帯金氏を通して、 穴山氏に忠勤を励んでいたものであろう。この書状は、定継が戦死した永禄4年(1561)より7年前のものである。
 当時の支配の領内は国志村里部に、上野平村より樋の上村まで十三ヵ村帯金組とあるのでその範囲であろう。また帯金村は「南北ハ下八木沢ヨリ丸滝マテ堺内三拾六町拾六間東西ハ拾三町六間、東河内ノ一殷邑ニシテ六組ノ一魁ナリ」とあり、東河内路の駿州境に近い宿場町的存在も合わせ持っていたのではあるまいか。さらに、元亀3年(1572)信君より帯金美作守宛の判物に、
一、中渡場之舟 去歳大水故破損 不再興者往還之士卒 可為迷 然則不嫌郷中 舟木見立可被申付者也 仍如件
  元亀三年三月十一日 信 君(花押)
 帯金美作守殿
五代目「帯金主膳正源信行公」「天正十二甲申十一月八日」逝去(1584)法号「蓮華院殿宗向日修大居士」と静仙院過去帳にはある。太田系図では、4代定継の長男虎達の兄に当たり、さらに6代「帯金美作守源信房公」は信行の子供となっている。法号は「本伝徳心大庵主」「慶長六辛丑年六月二日」の逝去で1601年に当たる。
 信君の書状が「帯金美作守」宛であることからみて、前記弟虎達の恩地云云の書状といい、5代信行の存在は、家督を継承しても実権はほとんどなかったのではないかと思われる。
 信房の逝去の慶長6年からみて、元亀3年信君書状は実に29年も前であり、信行死去の12年前である。この頃天文・元亀の頃にかけて甲斐一円は風水害が多い時であった。天文11年甲斐一円、天文13年6月富士川大出水、鰍沢付近被害大、以下天文15年7月5日、同19年、同22年、同23年7月、降雨旬日に亘り大出水、 元亀元年「風雨にさらに洪水があり、西河内の鰍沢では鬼島山妙現寺の堂宇大破す」とあり、おそらく「去歳大水故」とあるのは、この元亀元年の大洪水により、東西河内一帯が損害を蒙ったものであり、その折、東西河内を結ぶ渡船が大破したものの修理が思うようにできず、戦国の転戦につぐ転戦で交通止めの状態が相続き、渡船用木材徴収を命じたものであろう。 この年代は武田にとっても主として駿河出兵が大部分で、河内の領主穴山信君が江尻城主となったのが天正3年(1575)であったので、河内全域にわたって交通網の整備は穴山氏の運命にかかわる重大事であり、殊に東西河内が富士川によって2分されていることは、大きな欠陥であった。 従って渡船の整備は領国支配上だけでなく、戦術、戦略上も欠くことの出来ない緊急のことがらであった訳である。
 この頃が帯金荘におった帯金氏一統の全盛の時代であったと思われる。静仙院過去帳を見ると、7代以後法号も居士号がつかわれていない。七代帯金兵庫頭信右、慶長12寅正月3「日宗長日栄」となって、8代以降「信士」号になっている。
 天正10年3月11日勝頼は田野で憤死して武田家は滅亡した。時に穴山梅雪壬午の乱により徳川との密約によって武田より自立したが、不慮の死に遭い、やがてその子勝千代も天正15年6月16歳の若さで病死して、徳川家側の臣菅沼定政の支配下におかれ、地侍的存在から一転して一農民に転化していったものと思われる。
 今日吉野一統はその末裔といわれている。またその一族は真疑のほどはわからないが、太田系図によると、
武田万千代信吉様エ随身侍人数百七拾人
 一、高 千石 帯金刑部
 一、高 二百石伊藤義兵衛
 一、高 百五十石久保勘左衛門
 等の名も見える。(帯金では現在も、久保、伊藤、望月、依田、千須和を五苗字といっている。)
 国志によれば、「同十八年(註天正)寅十二月廿九日総州小金三万石ニ封之彼ノ旧臣尽ク附属セラル……」とあることから名高その他についてはともかくとして、或は万千代への随身は架空のつくりごととも思えない。

(三)帯金氏と租税

 郷村内の村には村役人がおかれ、年貢は村に割り当てられ、村の責任で納める方法はなされたようである。この頃の村には印判衆とか郷代官とかいわれるものがおかれ、後の村役人のような仕事をしたようである。国志の中には、
御印判衆武田ノ文書ニ間々見エタリ朱印押ス事ヲ司ル役人ナルベシ天正午ノ時織田家ヨリ出セル禁制書ニ御判銭・取次銭・筆耕料之ヲ出スニ及ズト銘々書添ヘアリ諸家共ニ時ノ風ニテ事アル毎ニ役銭ヲ采ルト見エ御印判衆モ其類ナルヤラン
とある。
 つまり御印判衆とは単なる朱印を押すための役ではなく、年貢その他役銭など取り立てる役で江戸時代における村役人的存在であったのではないかとも思われる。
 現在帯金部落に「ゴハンギョウ」なる地名、屋号が残っているが、おそらく「御判衆のいたところ」「御判形」の言葉のなまったものであろう。
 平凡社刊国語大辞典によると、御判形については「昔将軍または大名等の下にあって御朱印を押すことを司った役人」と見え、さらに判形の項では「書判・印形」とある。
 現在河内地域に残る「ゴハンギョウ」などの屋号や地名は帯金のそれと同じ性格のものであろうと思われる。また御判形なる語句は、いくつかの穴山関係の印判状の中にも見える。天正11年8月5日、勝千代より跡部犬千代あての中に「霊泉寺殿御判形の旨不可有相違之者」とあり、勝千代の父信君の印判状に示してある、年貢高の通り誤りのないようにとのことであろう。
 また甲斐国社記寺記第三巻寺院編(二)八代郡瀬戸村、方外院の信玄公朱印之写の中に「当寺領分之内瀬戸村之儀先年帯金美作守御次を以進候如判形不可有相違条」と見えていることからいずれも年貢に関する印判状であり、前記国志にある織田家より出した禁制書の御判銭に相当するものであろうと思われる。
 帯金氏独自の貢租や夫役を行なったかどうかわからぬが、武田支配時代の穴山氏の貢租の方法がとられていたことは想像に難くないものであろう。
 大体当時の租税は、大きく三つに区分されその第一は年貢であった。税法中その基本となるのが年貢であり、現物による地代である。戦国時代の税法では通常年貢に加知子(地主の地代)が加わり、さらに付加米を加徴された。従って耕作する農民の負担は重税にあえいでいたのである。
 この頃の年貢高は貫高で示されていた。つまり一定の年貢高を永楽銭で何貫文の土地を表示する方法である。貫高は年貢高をいうのだから、田畑の上下や年貢率の多少によっては地積は定まらない。そして幾貫の地というように領地、給地が表現される。 その基準として米は100文が1斗2升から4升、麦は3斗5升である。また銭納ばかりでなく、米麦その他のものでも代納することもあった。この場合銭貨を基本として代納物の相場が掲示された。
 元亀元年(1570)の100貫文を30俵にしている。これ等の基準については現存するものとして、後に記してある穴山氏による南部円蔵院領の検地と下山天輪寺領検地により、その換算率は武田支配時代でも一様ではなかったことがうかがえる。
 第2に年貢以外の雑多な雑税がある。その中で基本となるものは反(段)銭・懸銭・棟別銭である。
 反銭は不時の費用をまかなうため、田畑1反を単位として徴集する臨時の租税で武田支配時代は完納化して年貢の付加税となった。反銭は銭納がたてまえで春秋2期に徴収するのが普通であった。
 懸銭は、本来は反銭の付加税で後単独税となり、通常秋に1度徴収した。
 棟別銭は屋敷1軒を標準とする家屋税で銭納と現物納とがあり、これも通常臨時税であったものが定納化した。武田の朱印状に「家五つ棟別役」とある。それは年貢負担の単位となる農民の住む家であるが、棟別は棟役であるから侍・地下人は勿論、寺家・社家その他どんな家でも貢租の対象となる。 このため棟別帳がつくられ「棟別改めの調衆」によって取り扱われていた。
 棟別銭徴集は極めて厳しく、信玄家法の中にもいくつか定められている。
一、棟別法度之事既以日記其郷中江相渡之上者雖或逐電或死去於其郷中速耳致弁済為其不改新屋也
一、他郷江有移屋人者 追而可取棟後銭之事
一、其身或捨家或売家国中徘徊者何方迄茂追而可取棟別銭
一、棟別詫言一向停止畢 但或逐電或死去者就有数多 及棟別銭
一、倍者可被露 糺実否寛宥之儀随其分限可今免許
 武田における棟別銭に対する規定は多く、これよりの税収を相当重視していたことが判然とするのであるが、帯金郷中にあって今日残っている文書類の中でも、これ等棟別銭に関するものが多いことを見ても当時果てしていた役割がある程度理解できるのである。
 弘治3年(1557)2月12日の信友よりの、大くつれの助左衛門宛の判物、天正8年(1580)正月廿六日信君より大崩の孫三郎宛の判物、天正8年10月12日梅雪より大崩の孫左衛門宛の判物はいずれも山林経営に対しての功績をたたえ、これに対する穴山親子の棟別銭免除のものである。また、天正8年(1580)の大垈村平左衛門所蔵文書に「棟別銭・機役・普請役」免許の判物もある。
    (穴山信君)
   花押
於ぬ田在家 五間棟別機役 普請役共ニ令免許之者也 仍如件
  天正八年庚辰
    十月十二日     若林外記 奉之
 この中にある「在家」とは、家屋と畑とを含む屋敷に住み、比較的まとまって存在する田をその付近に所有するかたちを一括していう。一般的にこの形の農民は辺境の地域に多く、この在家が何軒かで村落を構成する。在家の負担は銭納の本年貢、生産物納、雑生産などである。 戦いの場合は地頭の下に従事し、平時は雑用を課せられる。在家の農民の下には、名子・下人が隷属していることが多い。
 第3には労務奉仕を中心とする夫役がある。夫役は大体農閑期をえらび、一定日数の奉仕をさせるもので、その内容は雑多である。
 土木事業から領家の直営地の耕作、年貢の運送夫役、普請役など数多くかり出されたものである。
 前記の信友、信君の判物にあるように、普請役は、居城居館の構築・修繕などが主で、その他用水溝、堤防の築堤・修復などにも徴用された。通常は年間10日位で、11月から3月頃までの農閑期に徴用されるのが原則であったらしいが、必要とあればいつ如何なる時でも狩り出され、 時には遠く他国の支配地まで徴用されることもあった。
 大垈・大崩の一統に出された「山造之奉公」というのも夫役の一つで植林などのことを行なうものである。林産保護は当時の穴山氏にとり必要かくべからざるもので、占領地支配のためには、戦災地の復興から、さらには支配体制強化のための、村落や町制の整備、 民衆の精神的寄りどころとなる神社・仏閣の建立など、その基本はおびただしい木材を必要としたものである。これ等山林の保護と造林をはかるため、棟別・機役などの諸役を免除して専ら「山造棟梁之間、棟別免許候何も山造共申付何時も板為取、奉公可申者也」であり、或は「私宅壱間棟別諸役令免許之条 山造之奉公可致勤仕之者也」仍如件であった訳である。
 戦国時代の帯金氏支配時代に於ける貢租を始めとする租税関係文書類は、その数も限りがあるので詳細に見ることは出来ないが、一般的には田租が中心であった。しかし地形的にみて水田耕作はわずかな地積しかなく、従って、この地域に於ける租税の対象は、 山林・畑地・棟別などの公事や夫役による徴税に力点がおかれていったのかも知れない。
 残念ながら中世末期頃までのこの種の史料がほとんど見当らず、武田や穴山関係のものからおよそ一般的内容をみる以外に手だてがない。

(四)帯金氏と信仰

 帯金氏が神仏に対して当時格別信仰が篤(あつ)かったが否かについては、何とも言えないが帯金氏に関係する神社仏閣といえば、帯金村八幡神社と、菩提寺である静仙院の二つがあげられる。
 産土神としての八幡神社は帯金氏の居館跡といわれる。静仙院の登り口上小路よりおよそ1キロメートル、部落の最北端、現在の上方地内にある。国志によるととあり、八幡宮の建立は応仁元年(1467)であり、この頃すでに対岸下山では穴山氏が居城を構え、 河内再支配の勢力が強大な権力によっておこなわれていた時代である。これに対して帯金刑部信継は静仙院過去帳によると応仁2戊子9月8日の逝去となっていることから、その前年にあたり人間的にも円熟の域に達していたものと思われる。
 本来八幡信仰は源氏一門の守り神として、また清和源氏の氏神として絶対的なものであった。
 八幡信仰とは、応神天皇または八幡神(三神一体応神天皇を中心にその父仲哀天皇神功皇后)に対する信仰で、そのもとは九州宇佐八幡宮であるといわれ、前皇居の守り神として京都の男山に宇佐八幡を勧請し、石清水八幡となしたといわれている。
 東鑑によると康平6年(1063)源頼義は京都石清水八幡宮を鎌倉に勧請し、石清水の社前で義家は加冠の礼を行ない、八幡太郎義家と名乗ったといわれている。さらに弟新羅三郎義光は、近江国三井寺の鎮守新羅明神社で同じく加冠の礼を行ない、 以後新羅三郎義光と名乗るようになったといわれている。
 甲斐源氏の発祥は国志をみると「相伝新羅三郎義光ノ城蹟ナリト云フ村西ノ山上ニ旧塁之所アリ」とみえ、義光の館址が若神子にあったと伝えているが、この辺は逸見郷の中心であり、後義光の子義清、その子清光に至って再びこの地の支配を行ない、 逸見郷は三庄に分かれ、その中に甲斐国八幡社の総社といわれる大八幡の庄もあった。大八幡の庄名は逸見の八幡社領によってその名がおこったといわれている。
 以下甲斐源氏各氏が各地に分拠して、各の地域にそれぞれこの氏神である八幡を勧請したのも父祖以来の伝統であったわけである。
 従って帯金信継が甲斐源氏の一末流として、源氏の氏神である八幡を勧請し尊崇することが殊のほか篤(あつ)く自分の支配地帯金の館よりさらに上の地に宮を造立しことはむしろ当然である。帯金氏に関する史料は八幡社造立に関するこの社記が最古のもので、 前記のように信継死去の前年にあたるがすでにこれ以前に東西河内には南部・下山・常葉・岩間氏、またこの期には穴山氏など甲斐源氏の有力な権力者が輩出している中で源氏を名乗り八幡を勧請し産宮として自他共に認められたことは、明らかに源氏の一統であることを立証したものであろう。
 さらに甲斐の国の多くの社寺については、武田・穴山時代の諸役免除、寺領其の他に関する権利や慣行は織田・豊臣・徳川支配下にあっても「旧規の例に任せ」られていたことであった。
 天正18年(1590)の八幡神社に関する寺領証文で、この存在を認めることができるのである。
  豊臣秀勝家奉行連署証文
帯金村の内
合四百文
右指出進上候 先書付候 若隠地一銭も於有訴人を可為私曲もの也
  天正十八年庚寅九月六日 
           長谷部次郎兵衛 印
           渥美権六郎 
   百姓中答分爾宣殿 望月頼母頂代
 国志によるととあり、以来代々八幡宮を尊崇してきたことが認められる。
安永年中宮殿回禄ニテ標札・文書・神器等焼失シ今唯帯金氏奉納ノ首鎧一刎ヲ存セリ神主望月日向」
 安永年間は1772年から1780年までであり、当時の遺構は残念ながら想起する位のものであるが、一時は相当の勢威をもっていたものであろう。
 甲斐国社記ノ寺記 第三巻 寺院編(二)
 慶応4年甲府総轄提出の寺社関係の書上げの中に八代郡帯金村曹洞宗静仙院の記に「当寺ハ正和三年甲寅年鎌倉相模守平貞時御建立之地ニテ為国家鎮護之寺中拝帯金村之内ニ諸仏諸社勧請……帯金村の邨主信継再建」とあり、甲斐国志には「開基帯金刑部亮信継、 法名浄仙院殿梅渓秀公居士、応仁二年戊子起立ス」とある。
 また、「開山林桂和尚 正徳元巳酉九月八日入寂」とある。
 寺は帯金氏館跡の後背地中腹にあり、檀那寺として「除地壱反三畝五歩」「山林長五町余 横二町余除地ノ内」とある。伝えるところによると、正和3年(1314)平貞時の建立によるものといわれているが、平家一門の衰運により、 権力の落ちた平家の支援も長く続かず、寺の破損も殊の外はげしかった模様であったが、応仁2年(1468)信継逝去の年再建を果たし、自らが開基となり、法号「静仙院殿梅渓秀公居士」を与えられ、寺は静仙院と呼称した。
 開山の林桂和尚は、その後20年延徳元年9月8日入寂しているが専ら開基帯金氏の菩堤を弔い、今日まで災禍に見舞われたとはいえ、連綿とその後を伝えている。
 終りに、帯金氏累代の法号の一部を静仙院過去幡により揚げて参考とする。
 1、浄仙院殿梅桂秀香大居士
   応仁2戊子年9月8日(1468)
   従四位下刑部卿美作守源信継公
2、心岩光信大禅定門
   文明15卯年8月5日(1483)
   従五位左京進源信祐公
3、大法玄刹大禅定門
   永正17辰月6月7日(1520)
   帯金民部少輔源吉継公
4、心空了運大禅定門
   永禄4辛酉年5月3日(1561) 
   帯金刑部輔源定継公
5、蓮華院殿宗向日修大居士
   天正12甲申11月8日(1584)
   帯金主膳正源信行公
6、本伝徳心大庵主
   慶長6辛丑年6月2日
   帯金美作守源信房公
7、宗長日栄
   慶長12寅正月3日(1607)
   帯金兵庫頭信右
8、宗現日立信士
   慶安5壬辰年5月2日(1652)
   帯金三郎右衛門信光
9、法善日行
   寛政4丑4月3日(1792)
   帯金伝四郎信昌