第五節 波木井南部氏

一、甲州南部牧と奥州南部牧

 延喜式に御牧・諸国牧・近都牧とあり、御牧はまた勅旨牧とも称し、左右馬寮の直轄であって、甲斐・武蔵・信濃・上野の4ヵ国に合計32ヵ所の牧を置いた。
 官牧としての御牧は、産出した馬を年一回貢馬(くめ)として匹数を割り当てられて、朝廷か幕府へ貢進している。
 甲斐の御牧は、柏前牧(かしわさきのまき)・真衣(まきの)牧・穂坂牧であるが、私牧に黒駒牧・八田牧・小笠原牧・武河牧・逸見牧・南部牧などがあるが、ここでは南部氏に関係のある南部牧について考察する。
 南部御牧は延喜式にはまだなく、南部古文書や、日蓮文書に見える南部御牧は中世的所産になる呼び方である。
 日蓮聖人の身延山御書に南部御牧と出ているが官牧ではない。波木井以南の富士川西岸の地域であるが、時代を経るに従って耕地化され、広大な牧場とはならなかった。
 また、日蓮聖人の御書に飯野御牧とあるのは、波木井、相又、大野付近の私牧を指し、南部牧に含まれるものと思われる。
 当時の武将は駿馬に跨(またが)って戦場を奔馳(ほんち)したので、名馬の育成に力を注いだ。源頼朝は新たに牧場を設置し、御家人中牧士に経験のある者を補任して産馬育成に当たらせた。
 ここに南部の牧士であった南部光行を糠部郡に補任し牧の経営をさせることとした。
 建久2年、光行が奥州下向の際には、波木井郷南部の祖実長を残して他の5人の子を同道し、糠部一戸に行朝を、三戸に実光を、四戸に宗朝を、九戸に行連を、七戸および久慈に朝清を配置して牧場経営の責任者とした。
 南部氏が、室町から戦国時代にかけて、北方の豪族安藤氏・曽我氏、南方の名門斯波氏などを撃破して、中世大名として台頭した最大の原因は牧馬政策の賜である。
 甲斐の南部牧・飯野牧は富士川の流域にあったため、交通の要衝となり、人口の集合によって漸次開発されて水田となり、畑地化して逐次狭少となり、やがて消滅したことと思われる。
 南部光行は、甲斐南部に居館を構え、牧場の経営に力を注いだ経験があったから、頼朝の奥州征伐に従軍し、抜群の軍功によって論功行賞が行なわれ、特に産馬の経験を買われ、奥州産馬の歴史と広大な牧場を有する糠部郡に、産馬行政の主力として封ぜられたと推察される。
 このように歴史をさかのぼれば、昔の飯野御牧波木井の郷、すなわち今の身延町とは緊切なつながりを持つものであり、身延町と、八戸市を中心とした糠部五郎とは不離一体の関係にあるといえる。