四 代 師 行
 子と孫とを失った実継は、長継の妹を妻にした政行の子師行を養子に迎えた。それは師行は既に長継の女を娶(めと)っていたからのようで、師行はさらに弟の政長を養子にして娘とめあわせている。
 その間に生れた信政は甲南部六代を継ぐわけであるが、実継が師行を養子に迎えることによって、師行・政長・信政が三戸南部の宗家から波木井南部家に入ったことになる。
 すなわちこの3人がやがて北奥を支配する原動力となった。
 元弘2年蝦夷(えぞ)の乱を契機(けいき)として討幕の機運各地に昂(たか)まり、新田義貞は武家政治の根拠地鎌倉に攻め入って、これを覆滅している。
 この鎌倉攻めに師行は甲斐の本領にあって動かず、長兄時長、その子行長・師行の嗣子政長はこの軍に馳せ参じている。
 時長・子行長は5月7日、師行の嗣子政長は奥州より来て15日に新田義貞軍に加わり、北条泰家の軍と、分倍関戸河原に戦ってこれを破り、18日神奈川に戦い、20日より22日まで鎌倉にて合戦をし、ついに北条氏を滅ぼした。後、晴長・子行長は鎌倉の守備兵となって在住したようである。
 元弘3年新田義貞の鎌倉攻めに加わらなかった師行は、同年従三位鎮守府大将軍北畠顕家(この時16歳)の国代として甲州波木井を出発して糠部に入り、八戸の石懸村八森に「根城」を築いた。すなわち八戸南部の誕生である。
 保暦間記に「兵部卿護良親王…思計給ける程に、東国の武士多くは出羽陸を領して力もあり、是を取放さんと議して云云」また、神皇正統記に「国々山々を回りて」とあるから見れば、南部実継・長継の奏聞によって、親王は奥羽を鎌倉より分離し、南朝再興の拠点とするの意志があったこともうかがわれる。
 しかし建武の戦で敗れた北条の残党は、陸続として北上し、津軽の大光寺城に入り、さらに持寄城で最後の決戦をしようと、安達高景・名越時如を将として、捲士重来を来し、その勢はあなどり難いものがあった。
 浅瀬石文書は南津軽軍の浅石村にある長寿院の延命地蔵尊の胎内から発見され、戦後公にされた文書だが、この中に師行が動員した部隊の名が記されている。
 南部大膳太夫源師行公之大将、結城七郎左衛門尉親光、都築彦四郎入道、中務右衛門、安保弥五郎入道、弾正左衛門尉、浅石城主千徳頼行公之大将、内紀六郎入道、中村弥三郎祐高、伊賀右衛門資郎、毘沙門堂阿闍梨、大館城主鳴海三郎太郎行光之大将、小河入道弥四郎、武石右衛門惟俊、独錮城主浅利六郎四郎之大将、倉光孫三郎、和賀右衛門勝昌、大里城主成田小次郎之大将、滝瀬彦次郎入道、小川次郎宗武
 この中にある中務右衛門は工藤貞行であり、千徳頼行は一戸南部党の総領、中村弥三郎祐高は波木井の南部氏、毘沙門堂阿闍梨は二戸の浄法寺氏であろうと推考される。
 この時捕虜にした人名は、建武元年10月14日、国府に「津軽降人交名注進状」として報告され、全軍に布告された。
 この記録は今なお八戸南部家に秘蔵され、南部家文書に登載されている。
 「二六津軽降人交名注進状一、被留津軽降人交名事」に
 工藤左近二郎子息孫二郎義継等52名の名をつらねてある。
 この戦闘の勝因は、かつて長継とともに大光寺城を攻め大功をたてた工藤貞行がおり、この勝手を知った戦場での作戦がものをいったように思われる。
 師行の孫信政はこの頃20歳前後の若者であったが、その華々しい活躍が注目されて、この時貞行の娘「かいす御前」と結婚している。
 1年後の建武2年(1335)8月突如、足利尊氏は奥州に奥羽管領として、一族の斯波家長を紫波郡に補任し、奥羽の旧勢力を吸収し室町幕府の基礎をつくった。
 この尊氏を討つため顕家の第1回の西上軍は、その年の12月陸奥をたったが、その中に糠部の武将として信政の姿があったが、見送るかいす御前の腕には赤子が抱かれており、さらに胎内にはもう1人が宿っていた。
それこそ南北朝の後半、南朝勤王軍に馳せ東奔西走・大義を全うした信光・政光の二人である。
 この第1回の西上軍は、尊氏を九州に蹴落して凱旋(がいせん)した。
 かくして、南部氏は着実にその勢力を津軽・糠部にのばして行った。
 しかし中央の政情は日一日と悪化し、足利氏は、九州で菊池を破り、4月にはその勢に乗じて捲き返して来た、顕家卿が陸奥の軍をかえして北上したころ、足利軍は北上していたのである。
 しかもその勢力は九州勢を味方につけていよいよ強大となり、これを湊川に迎撃した楠木正成は奮戦して敗れ、後醍醐天皇は延暦寺に遷られた。
 再び顕家に足利氏追討の命が下ったが、今度は足利氏に従うものが多く、その撃攘は困難を思わせた。
 延元3年(1338)顕家卿は第2回の西上軍を結城・伊達・信夫・南部・山下の各部将を主力に3万騎を編成した。
 師行は政長に北奥の守りを托し、かいす御前の父貞行は若き夫妻のために、自ら老骨に鞭うって出陣した。
 顕家の軍は途中足利軍の抵抗を受け、陸路からの進軍は困難のため、その頃、南朝方に味方していた熊野海賊の船を利用して、近江から海路伊勢に転じ、2月21日伊賀から奈良に入った。ここで敵将桃井直常の反撃に遭い、さらに3月16日高師直の軍に阿部野で大敗し、その後5月22日組織的な戦闘を行なったが及ばず、ついに全員壮烈な戦死を遂げた。
 南部師行はよく奮闘し、特に濃州阿字賀川では戦列の5番隊として活躍、家臣西沢民部行広は、1人で敵将11人を討取って全軍にその武勇をとどろかせた。
 このことは、顕家が戦死する7日前に後醍醐天皇への奏文中に、
 辺境の士卒におよんでは未だ王化に染まずと雖も、君臣の礼を正し、忠をいだき節に死する者あげて計るべからず。
 とあり、この時顕家とともに戦死した人名を「浅瀬石文書」は
南部大膳大夫源師行公をはじめとして23名あげている。この中にはかつて持寄城で南部師行と戦い、捕虜となった人々12人が含まれていることを見ると、師行の並み並みならぬ人間性を見出すことが出来る。
 なお「八戸家伝記」には師行の部将西沢民部が、これを幼子右近光広に告げるために郎党小垣内八兵衛・西下小兵両人を帰国させ、戦の模様を記し、師行の家士108人がことごとく戦死したその名を連ねている。
 南部師行の国代としての業績はどうかといえば、師行が根城に入って行なった仕事は、おもに多賀城(宮城郡)にある国府の命を受け、その支配圏の糠部郡を中心として閉伊郡・久慈郡・鹿角郡・比内郡にわたり、外ヶ浜・津軽にも特命を受けて下向し、北畠顕家から国宣(こくぜん)(国司の宣旨)下文(くだしぶみ)(政所より下す公文)御教書(みきょうしょ)(将軍の命令書)を伝達して、圏内行政を行ない動乱の世相を治め、人民を安定させることにあった。すなわち、北畠顕家国宣

 とありこの外にも現在南部文書に集録され発刊されたものも、25種類の多きにのぼり、そのほとんどが土地支配権の国衙認証の仕事であった。その認定には、あくまで慎重を期していたようであり、その一つ一つの処理に師行の豊かな人間性が生かされ、その温情に利害得失を超越して、北奥の豪族が南部氏を主と仰ぐ根本があったようである。
 たとえば、南部師行が八戸に根城を築く前には、工藤三郎兵衛尉が八戸を所領していた。また上尻打には一戸の工藤四郎左衛門入道の子息左衛門次郎がいたが師行の平定軍が入る前に一戦も交えず逃げ去ったらしい。
 このために八戸は闕所地となり、師行、戸貫出羽、河村又次郎入道の3人の預り地となっていた。
 しかし上尻打の左衛門次郎は津軽の持寄城に立てこもり捕えられて、和賀右衛門五郎に預けられたが、それが顕家の第2回の西上軍に従事していることや、また旧八戸の領主工藤三郎兵衛尉も師行に迎えられて被官していることを考えると、その後の待遇がよく、心から国府軍を支持するようになったものと思う。
 師行は国府軍に抵抗した者には徹底した処置を下しているが、態度不明の地頭に対しては、南朝に服させるため、最後まで相手の立場を認めながら宣撫の努力を惜しまなかった。
 また師行は八戸櫛引八幡宮で鏑流馬(やぶさめ)十五番の神事を行ない、各戸各門より勇者が競い、一族郎党の団結をはかった。
 師行の数々の施策は、こうした数々の難問を一つ一つ解決して、地頭を国衛の機構の中に組み入れた才があったからである。
 師行が戸貫出羽・河村入道の同輩を抜いて、八戸、奥羽の主になり得たのは、こうした人間的な魅力もあったが、なんといっても津軽の持寄城の大功がものをいっている。
 次の北畠顕家の国宣によって、事実上の北奥羽の支配者になったのである。

 上の文書によれば津軽の一切のことについては顕家郷から師行に全権を委任され、師行はまさに顕家郷の分身であり、これによって善政をしき、その声価はとみに揚り、国司の信任を厚くして、津軽・糠部・久慈・閉伊を制する原因となった。つまりこの時代の南部氏の総領は、宗家三戸南部氏にかわり、波木井南部氏が掌握していたのである。
   五代政長と六代信政
 政長は謹厳剛直で勤王の志が固く、新田義貞の鎌倉攻めに奥州より馳せ参じてその麾下に属し軍功があって、建武元年5月5日、甲斐国南都留郡倉見山7,000石の地頭職に任ぜられている。以来正平15年8月に至るまで、終始一貫甲斐・常陸・上野・上総・陸奥において幕府方の誘惑を退け、南朝への勤王に徹した。
 南部家文書一二後醍醐天皇綸旨
 甲斐倉見山在家三宇 畠地 町屋敷 南部六郎政長可令知行者天気如此 悉之 以状
  建武元年五月三日  左衛門権佐(花押)
 一三 後醍醐天皇綸旨施行状案
 当国倉見山在家三宇 畠地 町屋等事 任安堵綸旨 可被存知状如件
(建武元年)
  五月十三日          左 衛 門 尉(在判)
(国主代理)
    甲 斐 国 小 目 代 段
 この綸旨によって甲斐国南都留郡内の一部が初めて、地方豪族に知行せられたことを知ることができる。この地は前知行者がない故に、倉見山は明見郷に鎮座する浅間明神の神領地であったように考えられる。そして同月3日には政長を小目代として左衛門尉より執達状が出されている。
 延元元年5月22日堺浦石津で、師行が戦死すると、政長が跡を継いだ。同年7月2日新田義貞は、越前国足羽で戦死し、同じく北畠顕家の敗戦によって南朝は大打撃を受け、奥羽2州は北軍石塔秀慶のために、国府留守役広橋経泰は追われて頽勢止め難く、政長は八戸城にあって動かなかった。
 しかし南朝方は意気沮喪せず、従来の京師の奪還策を一変して、地方に永久的根拠地をつくる方針を打ち出した。中にも東国・奥州に主力をを注ぎ、足利氏の根拠地を根本的に剿滅(そうめつ)しようと企てたようである。
 延元3年7月25日には、親房の次男顕信卿を鎮守府将軍に任じ、後醍醐帝の皇子義良(のりなが)親王(6歳)を奉じ、北畠親房が抱いて陸奥に下向(神皇正統記結城文書)することとなったが、陸地は皆敵の力が強くて通り難く、(太平記)宮方に味方する伊勢の海賊船で、大湊より兵船500余艘を艤して9月2日出発した。(元弘日記裏神皇正統記)
 この一行の中には宗良親王および尊良親王の王子守永親王も加わっていたが颶風に遭って兵船は東西に離散した。
 一行の中には
1、 敵地に漂着して斬られる者、沈む者もあり。
2、 義良親王、顕信、宗広等の乗船は伊勢に帰る。
3、 結城宗広は間もなく同地にて病没する。
4、 北畠親房は伊達行朝とともに常陸の東条浦に着き、小田治久、関宗祐、下妻政康等に迎えられ、佐竹義篤の軍と戦って小田城に入ることを得た。(畑田文書、神皇正統記)
5、 新田義興は武蔵の石浜、今の東京浅草に上陸した。(鎌倉社務日記)
6、 宗良親王及守永親王の乗った船は、遠江の白羽湊に着き井伊直政に迎えられる。(李花集・元弘日記裏)
 その後、親王は井伊城を根拠として、越中・越後・信濃・甲斐に入り、東海・東山・北陸の官軍を督し(李花集)足利氏の東国往還を遮断(しゃだん)しようとした。北畠親房は常陸にあって東国を経略するばかりでなく、陸奥の南部政長と連絡を取り、九州の南軍とも通じて官軍の全局面を指揮した。
(結成文書・阿蘇文書)
 その後、顕信は延元4年の春、海上が穏やかになったため、再び奥州進発の準備をし、伊勢より阿保大蔵少輔は500騎にて供となり、都合1,000余騎、大船17艘に分乗して3月5日大湊を出発して東国へ降る。5月19日顕信は海路小田城に至り、(元弘日記裏)父親房と打合せて、6月1日又奥方に赴いた。(白川文書)
(陸奥の3区分)
 陸奥は当時3分して上奥・中奥・下奥と称したことが、諸書に散見される。すなわち
 上奥−白川・石川・相馬
 中奥−伊達
 下奥−国府の北一帯
 奥方とは下奥にあたる、長継・師行・信政の事績に徴すれば、顕信は糠部郡八戸の根城に赴いたことが推察される。
 延元4年8月15日後醍醐天皇崩御、後村上天皇が13歳で即位する時、楠木・北畠氏等の南朝方武将の多くは陣歿、南朝軍の勢競(きそ)わず足利氏に属するものが多かった。
(尊氏、政長を勧降)
 足利尊氏は3月、政長に書を送って帰降をすすめ、「所領の事望みに任すべし」と誘ったが、政長これを聴かず、根城を死守した。
 この年政長は、越後五郎・成田頼時と大光寺城を攻め、苦戦3カ月にしてこれを破った。
 7月岩楯城を攻め曽我貞光を潰走させた。(曽我・斉藤文書)
 興国元年4月広橋経泰は親房の命により、政長と連携して北畠顕信を6月11日白川城に送る。
 これより陸奥軍は顕信と響応(きょうおう)して、吉良貞経・斯波直持等を渋江松島に攻めようとした。(白河文書)
 7月石塔義房之を聞いて相馬親胤に命じて之を討たせた。(相馬結城文書)10月師冬鎌倉を発し、(鶴岡社務記録)武蔵村岡に兵を集めて下総に向い、結城・山河・西明寺を攻め、23日鬼怒に至る。中御門中将実寛駒城より兵を出し折立渡に迎え撃ち利あらずして退く。師冬これを追って駒城を攻囲する。駒城応戦して年を越す。同2年5月27日実寛檎(とりこ)にせられ、命を落す者三十余人、駒城陥る。(矢部・別府文書)翌廿八日南朝軍力を合せて、八丁目・垣本・鷲宮・善光寺に敵を焼き、29日飯沼城落ち即夜師冬は敗走した。(関城頼書)
 興国2年5月政長の軍は南下して西氏と合流し、白河城の顕信の軍と会し、16日陸奥の国府を回復せんとした。(結成文書)
 9月17日師冬の軍は佐倉・常陸の諸城を落し小田城を攻めようとする、政長は滴石・河村等の奥軍と小田城を助けるため兵を進めた。時に石塔義房中奥の三辺に全力を注いで阻止し、激戦のうちに年を越した。尊氏は大いに怒り興国3年6月曽我師助に命じて八戸城を囲む。この時政長不在、11月10日根城小田治久北軍に降る。(相馬文書)
 信政は根城の兵を励まし冬に至るまで応戦する。政長の将兵は小田城より引返して来て、冬に至るまで激戦数十度にして、敵将曽我師助・越後政光・成田頼時・滝満政等を斬って遂に之を撃退した。(曽我文書八戸系図)
 興国4年正月、師冬の軍は、関城を攻略し、結城親朝は降伏して北朝軍は大いに振い11月11、12日の戦にて関城・大宝城は陥落し、守永親王は陸奥宇津峰城、顕信の下に逃れた。(白川相馬文書)
 北畠親房は甲斐国南都留郡明見郷に逃れ隠れた。従来の阿蘇文書に親房は吉野に還りたりとするは誤りであろう。
 ここにおいて前後6年間、常陸を根拠としての北畠親房の南朝再興の計画はことごとく水泡となる。5年2月師冬は軍を武蔵府中に還し将士の功を録す。(別府文書)これより師冬鎌倉に帰り、閏2月2日上洛した。(鶴岡社務記録)8月霊山城の北畠顕信の軍は出撃して伊達・信の三郡を攻略し、(相馬結城文書)国司顕信は政長の軍功を賞した。
南部家文書、四六、北畠顕信下知状
   北畠顕信(花押)
可令早南部遠江守源朝臣政長領知、陸奥甘美郡高氏跡事
右為勲功賞、所被宛行也 早守先例 可致其沙汰之状 所仰如件
 興国六年二月十八日
 政長朝臣とあるから、従五位上または四位に叙せられ昇殿を許されている。ついで同年3月27日嫡子信政を達智門院右蔵人に、三男刑部信助を兵庫助に顕信より推挙されている。
 この行賞は南朝宮方の「隠れ城」甲斐国富士谷において親房卿の取り計らったものである。
 南部家文書、四八、北畠顕信推挙状
(包紙)    北畠顕信
 南部とのへ    (花押)
 可被挙申達知門女院也
(北畠顕信)
(花押)
 申右近蔵人
  源信政
  興国六年三月廿七日
 貞和2年足利直義は政長に帰降をすすめている。
 南部家文書、五〇、足利直義勧降状
 参御方、令対治奥州凶徒者、所領事、任申請之旨、可有沙汰之状如件
足利直義
  貞和二年十二月九日    (花押)
    (政長)
    南部遠江守殿
 政長はこれを聴かず、中奥の顕信および伊達行朝一族・下奥の政長・滴石氏・西氏等勤王の士は頽勢挽回につとめてやまなかった。
 足利方は7月21日奥州両探題および石塔義房等兵を発して、南朝軍の諸城を攻め、22日藤田城、ついで河俣・霊山・宇津峰の諸城を降す。
 頼信等守永親王を奉じて、留守を政長に托し、海賊船にて甲斐の富士谷隠れ城に至り、親房と謀議した後、吉野に帰った。(南朝編年記略)
 政長これより下奥南朝軍の統師となる。
 正平3年5月親房と謀って岩手の滴石と兵を挙げる。貞和5年政長、安藤・曽我両氏を撃つ。この時政長は顕信の留守国司代として賊軍を敗走させた。
 正平5年6月5日政長は将軍顕信の命を受け、孫信光をして、南部祐仲に津軽田舎郡冬井、田野、間の両郷および外浜野尻郷を安堵せしめた。
(政長没年の異説)
 かくして政長は正平5年8月15日糠部郡七戸を子信政の後家に同八戸を孫信光に譲った。(南部文書)
 譲 状
 陸奥国糠部郡内 八戸
右彼のところハ、くんこうの志やうたるあいた、政長知行せしむるを、信光に譲りあたふる物なり、彼譲状をまほりて、はいりやうすへし
  正平5年戍万八月十五日
   前遠江守源政長   (花押)
 この譲状により政長8月15日病没という説が定説となっているが、政長が主将となって陸奥国府を恢復した軍忠状に対し、寛成親王の御裁可を源清顕が執達した御返事があるので、政長は正平6年なお健在であったことが証される。すなわちその令旨の前段顕信の名を闕き、花押あり

 その文書は年号を欠くが、次の事情を考査すれば
 相馬文書正平6年2月15日招致状および結城文書正平6年12月15日、結城直光軍忠返事と招致状に執達者は「右馬権頭清顕」とあり、清顕は6年以前はその名を見ないので、今の令旨は正平6年以後の執達に係る。だから南部遠江守は政長であると断定できる。従って政長は正平6年12月には存命していたことが推察される。政長は元弘3年、鎌倉攻めに参加してより、ここに20年余、後醍醐、後村上天皇を戴き、各宮を護り北畠親房、顕家を助け、甲斐波木井郷・富士宮・奥羽の天地を股にかけ敵将足利尊氏の再度に及ぶ勧降をしりぞけ、大義を死守して、祖業を完うした功績は燦然として歴史に輝いている。
 後村上天皇は、政長の数々の軍功を嘉賞し、粟田口国安の太刀および甲冑を賜い、陸前加美郡の領地を加増された。
 明治15年、霊を鍋倉神社に祀り、同41年9月9日には特旨を以て正五位を贈られた。