七 代 信 光
 正平5年(1350)8月15日、祖父政長の譲りを受け家督を継いだ。この年尊氏、直義が不和となり、直義が吉野朝に帰順した。翌6年2月には尊氏と直義が和し、10月には尊氏が帰順して直義を追討、7年には山城国男山に天皇が還幸する等変転極まりない時であった。
 こうした時勢であったので奥州でも国司方が勢力を盛りかえし、顕信は正平6年の頃多賀の奪還に成功した。この主力は南部信濃守だったらしく、7年2月吉良貞宗の命で和賀義勝が押し寄せた府中の名に南部城というのが見えている。3月にはこれも再び奪われ、8年正月には宮城郡山城村の辺で、南部伊予守が敵方に降り、中院大納言が行方をくらましたことも報ぜられている。
 根城南部の信光は幼君であり、新井田にあった叔父政持が後見していたのであろう。信濃守や伊予守の名は系譜には見えないので、おそらくは三戸南部氏であり、伊予守は11代信長であろうと考えられている。信光は正平10年3月15日大炊助に推挙され、11年11月19日には昇進して薩摩守に推挙された。
 正平15年(1360)6月5日には外祖父工藤貞行の重代所領であった津軽田舎郡黒石郷と鼻和郡目谷郷とを相伝領掌するについての顕信の赦書を受けた。同日付で田舎郡冬井、日野間、外浜野尻郷を受けた南部雅楽助は三戸の茂行と推定されたのであるが、政光がそれであろう。
 正平16年11月9日「今後の合戦に忠節のいたすの由を聞こしめされ、もっとも神妙なので御感少からず」とあって後村上天皇の綸旨を拝した。これに添えた顕信書状に「七戸へも同じく下され候、つかわし候よし、つたへられ候べく候」とあるのは七戸在住の政光のことであると思うが今伝えていない。
 なお、これと同文のものを南部左馬助(政持)と南部兵庫助(信助)にも賜わっている。この合戦は相当に重要なものであったと思われるが全く知られていない。
 正平22年(1367)には信光は、甲斐の本領波木井城にあった。正月11日の前例によって家族諸士を招いて武事初めの祝儀を催しているところに、隣郷である神郷(かんのごう)の神大和守が軍兵を率いて来襲した。不意の囲みであったが、たまたま用意していた甲冑を帯びて城外に打って出たので、敵はかえって驚いて退いたが、この時年男を勤めていた15歳の少年西沢平馬は信光の槍をひっさげ、馬に乗って門外に駆け出し、逃げる敵を追って甲1つを奪いとって帰城した。信光はこれを賞して馬と槍を与え、また吉野に報告し、その意をうけて4月に討伐しようとしたところ、大和守は威を恐れてか、戦わずして退散した。後村上天皇は褒賞として桐のトウの金具のついた甲冑1領を賜わった。今八戸市櫛引八幡宮社宝となっている白糸威妻取鎧がそれである。
 6月25日天皇は重ねて「年来軍至忠の次第、叡感少からず、なお殊に貞節をぬきんずべし。天気かくの如し。これをつくせ、もって状す」という綸旨と「甲斐国神郷半分大和守跡を信光に知行せしめる」綸旨を賜わり、同時に政持にも倉見山三分壱中野入道跡を、信助にも神郷三分一を賜わった。
 文中元年(1372)剃髪して聖光と号し、天授2年(1376)正月22日子政経幼少のため、弟政光に譲状を認(したた)めて天寿を全うした。
   八 代 政 光
 政光は成人して母の譲りを受け七戸に在城し、八戸にある兄信光と協力して糠部の治安に当たり、正平16年(1361)11月9日後村上天皇より、此度の合戦の忠節に対し御感なされた旨の綸旨を信光とともに拝した。
 天授2年(1376)家督をついで薩摩守に補任された。弘和2年(1382)沙弥道重と一揆契約状を交し、「大小の事について相互に見継がれ申し、見継申すべく候。若し此条偽り候はば八幡大菩薩、諏訪上下大明神の御罰まかりこうむるべく候。」と誓い合っている。七戸殿と宛名しているので、この頃はまだ七戸在住であったが、まもなく甲斐の本領波木井郷にかえり、八戸の地は長経が成人して支配している。
 すなわち、至徳4年(1387)3月29日前信濃守清長と八戸左近将監(長経)が、また3月晦日には近江守清長と南部左近将監が一揆契約を交している。契約の相手がどこの何人であるかもわかっていないし、用いている年号が永徳も至徳も北朝の年号であることも一つの謎であるが、あるいは混沌たる世相に敵味方が契約を交して相互の安全を保持しはじめていたのかも知れない。
 やがて元中9年(1392・北朝明徳3年)閏10月5日足利義満の願いをいれて、後亀山天皇は京都に帰られ、神器を後小松天皇に授け南北朝は合体した。
 ここにおいて南朝の臣は足利将軍に降らざるを得なくなったが、政光はこれを潔しとせず節を守って屈しなかった。
 この間の消息を八戸家伝記には、
 然るに今元中九年の比、明徳三年南帝熙成王将軍義満卿と和睦し三種神器を北朝に護りて、太上天皇の尊号を蒙り、後亀山院と称す。是に於て、南朝の臣士降る者は存し、敵する者は亡ぶ。其の盛衰恰も掌を反すが如し。政光確固不動たり、自ら以(かも)えらく、干才を取って此に至って則ち節に死し、以て忠を尽し、名を潔しと欲するのみなり。時に嫡家南部大膳大夫守行、将軍義満の密使を受け来って説いて曰く。南北既に合して天下平定せり。故に南朝の臣士、武家に帰除するもの最も多し。今足下何の為に城を守るや、速かに将軍に服して宜しく封土を保つべし、若し遅るれば則ちその征伐を得んのみ。政光答へて曰く、存亡の事、吾既に之を知る。然るに累世朝思に浴す。今豈祖業を忘れんや。抑も孤城に拠て敵するを企つに非ざるなり。唯二君に仕ふるを恥づるなり。
 寧ろ自刃を伏せて武家の粟を食せざるなり。示論厚しと雖も、願はくば復た言ふこと勿れ。守行泣下数行、鳴呼忠なるかな、亦間然なし。昔者吾祖父信長難を避け、身を潜むるや、是の時に当り、足下曽祖師行、祖父政長為に心を尽せり。故に信長終身資用足れり。況や父政行兵を募るの時、謀るに良策を以てし、助くるに金幣を以てして、遂に芳志に依て再び家運を開き、すなはち吾に及んで益々将軍の寵を得たり。其の高思未だ之を報ぜず、坐して其の亡ぶるを視る。慷慨曷(なんぞ)勝意者。冀くば此の本領を去って、師行の旧城八戸に居すれば、則ち南朝の封を失はず、且つ其の土を革(あらた)めずして、将軍自りの命を受くれば、足下一世之に君事すべからざるなり。是に於て乎、何、諄々として論し示し、誠信此に露はる。政光嘆いて曰く、公の教訓至れり尽せり。厚顔をもって曰ふと雖も豈謝せざらん哉。吾今将軍之命を受けずして、朝恩の禄を食(は)めば、則ち仮令尺士の封と雖も、幸と謂ふべきなり。肯んぜざるべからず。守行歓を尽して京師に帰り、即ち実を以て、義満に告て曰く、之を買ふに身を以てするや。将軍政光の忠義及守行之篤実に感じ頗る之を称誉す。乃ち其言を許客するのみ。是に於てか政光甲州波木井及諸邑を去って、奥州八戸に来り、長く根城に住む。嗟乎政光拳々名義忠孝之人と謂ふべきのみ。下略
 すなわち上によれば、嫡家の大膳大夫守行が、将軍義満の密使をうけて帰降の礼をとることを勧めたところ、政光は「累世南朝の皇恩に浴した恩義は忘れられない。狐城によって敵対するのではなくて、二君に仕えることを恥とする」「むしろ自刃を棄て、農奴となるとも足利将軍の粟を食みたくない」と意志を変えず、守行は嫡家三戸南部の親善関係を説き、「甲州波木井の本領を去って、後醍醐天皇よりの天戴地八戸に居住するならば、南朝より受けた封地に居して、将軍に君事しないで済むように取り計らいたい」として、将軍に政光の意志を告げ、将軍喜んで政光の尽忠を賞し、ために明徳4年(1393)波木井南部一族は甲斐の所領を棄てて八戸に移住した。因に当時の甲斐の領地は飯野郷は12カ村4,500石、御牧郷は7カ村5,211石、波木井郷は9カ村2,732石、南部郷は23カ村6,938石、合して18,800余石、更に政長の時に倉見山7千石、7代信光の代に神郷半分1万石、政光の二男南部左馬助倉見山3分の1、三男南部兵庫助神郷3分の1等合すれば、波木井南部の所領約5万石と推定される。
 後寛永4年(1626)22代直義の時に、伊達領との藩境を固めることを名分として、遠野に国替えをしてほしいという嫡家利直の要請をいれて永年住みなれた八戸を去るようになった。(小井田幸哉著、根城による)
 遠野南部(波木井南部、甲南部、八戸南部)の嫡系36代の南部日実師は遠野を去って、始祖南部実長由縁の地、身延に来りて出家し、曽て梅平鏡円坊(南部実長開基、曽孫身延山五代鏡円阿闇梨日台上人開山)32世であり、現在府中市東郷寺の住職である。
 その他実長の系統を引く波木井家と称する家系もあるが、10代義実の時、駿河の九島兵庫頭と一味して武田信虎に敵対せし故、九島は荒川にて討死し、波木井義実も峰城にて討死し、波木井家は亡び所領は没収され、一族は諸方に落ちのびて、紀州、江州、甲州等に多くの分家を残しているが、今は波木井家に対する仔細な調査をする余裕のないことを遺憾とするのみであり、この機においては波木井家10代までを記録するに留めておく。

四、八戸(遠野)南部家と身延山

 日蓮聖人450遠忌に八戸南部若狭守義興の代参として、身延登山の宇夫方平太夫覚書に、
 「前々日円公之子孫と申伝候而当山之内ニ住宅之者有之候ヘ共、慥ニそれと分明相成儀無之候得共、其御家之儀委不存候故、此方之家を書にものせ置申候由に候、右之家当時主計と申候而、わづか成身上にて各へ対面為申にも不成程之次第に候間、是は不知分に被成由被仰候
 と記してあり、
 また波木井郷における南部一族は、南北朝合一とともに、波木井郷は北朝の所管となったので、甲州におるを潔しとせず、八代政光の代、明徳4年(1393)に南朝よりの天載地糠部郡に一族・重臣すべて甲斐の本領をすてて下向した。
 南部家文書八戸家伝記に
 政光嘗て父兄の志を継いで、南帝に服仕し奉り益々忠勤を励む。然りと雖も王運開かず官軍日々に漸(ますま)す衰微し、将軍の威勢月に愈々強大、故に南帝矛盾之方術を失い、終に北朝と和す。京師に還幸するの時、嫡家南部大膳大夫守行、将軍足利義満卿之底慮を含み政光に諭して曰く、南北今既に和し、南帝入洛す、汝が輩誰が為に将軍に敵するや、急いで将軍之御方に馳参ずべし、然らざれば日ならずして其の咎あらん中略
 政光曰く、時勢猶ほ示諭の如し、然り雖も我家朝恩を荷い、武名を掲げて既に葉(時代)を累ぬるなり。今此れを捨て以て将軍に参ずれば則ち是れ二君に使ふる也。我れ之を為すに忍びず。中略守行涕泣袖を濡(ぬら)して、累(かさ)ねて諭して曰く、卿の節操更に間然すべきなきなり、然りと雖も吾今之を勧むる所以は、則ち唯親族の好を懐ふに非ず。吾が祖父信長嘗て飄零(ひょうれい)(おちぶれる)三戸に在る之時、卿の祖父政長心を尽して供給し、終身資用を乏しからざらしむ。況や亦家父政行之時に及び、若干の軍料を寄与して、以つて再び家運を開かしむ。其の恩愛の厚、何を以て之に報いん哉。吾今将軍の懇意に遭い、一旦卿之敵対無き由を述べ、以て卿之奥州の釆地を領せしめんと欲す。と累ねて言ふて止まず。政光曰く嫡家之厚悃強く辞し難し、然れば則ち奥州の釆地を以て将軍の恩となさず、旧によって朝家(南朝皇帝)の賜と為す。則ち我れ豈敢て背かん哉 中略 守行愈々其言にして其旨を将軍に達す。将軍却って其忠言に感じ、以て其の希望に任す。中略是に於て政光明徳四年(一三九三)春、悉く甲州の旧領を棄て、糠部郡領(一万石)及び津軽(七千石)の采地に下向す。
 と。
 政光奥州に下向してより275年間、寛文6年まで八戸南部家と身延山とが音信途絶していたのは、戦国乱世の頃でもあり、また武田氏は北朝方でありその全盛期には、身延山もその支配下にあったので、感情的にも交流することができなかったと思われる。徳川時代となり、しばしば身延山に使者を遣わして交誼を深めたことは南部家文書等によって明らかである。八戸南部26代信有のごときは、奥之院思親閣の大改修に多額の寄進を行なったことも八戸南部家記録に残されており、昭和2年には現南部家当主日実が、身延に来て清水坊の住職となり、祖先実長公以来8世の故地に帰ったのである。

五、南部家と波木井家

 古来波木井南部氏に対し、その子孫が南部氏を称するもの、波木井氏を称するものの2系統があり、何れが正統かの論議が醸され、帰するところを知らぬ有様である。
 日蓮聖人の遺文の実長に与えられたものの中に
 一、六郎恒長御消息    文永6年9月
 一、南部六郎殿御書    文永8年5月
 一、波木井三郎御返事   文永10年8月
 一、地引御書       弘安4年11月
 一、波木井殿御報     弘安5年9月19日
 一、波木井殿御書     弘安5年10月7日
 等とあって南部とも波木井とも同一人に2通りに使われている。しかし、前に記述した通り、南部光行の子であるから南部実長が当然正しいとも考えられる。しかし、父光行は南部の郷に居住したために南部を姓となしたが、実長は波木井郷に住したために波木井を姓とすることも不思議ではない。同じ甲斐源氏の一族でも武田荘に住した者は武田信義、加賀美荘に住した者は加賀美遠光等とその地名をとって姓としているので、南部氏、波木井氏のいずれが実長の正統であるかの論議に終始することは無駄なことである。ただし、南部氏を称する系統は現在連綿として36代健在である。波木井氏を称する系統は10代三河守義実の代に武田信虎によって滅ぼされ、表面上は断絶した形になっていることは歴史の証明しているところである。
 そして南部と称する一族系統には、実長の寿像が伝え承け継がれている。
 南部氏文書によれば
 南部実長入道日円木像(智恩寺所蔵、現在身延山久遠寺開基堂安置)
 高さ 肩まで  曲尺  一尺三寸一分
    法立まで 曲尺  一尺四寸八分
 横幅      曲尺  一尺五寸五分
 この木像は、南部実長が自ら工匠に命じて造立し、身延山梅平の隠棲に置きたるものと云ふ。曽孫師行陸奥に下り、八戸に城を築くにあたり、梅平より城中に移して安置す。後応永三年八戸に身延寺創立せられ、身延山第七代日叡開山となり、弟子日崇住持となるにあたり、この木像も同寺に安置す。天正十年身延寺火災に罹る。すなわちこの像を盛岡北山の法華寺に移して安置す。明治十四年遠野の日蓮宗信徒同地に祖師堂一宇を営み、特に南部家に請ふて、この木像を法華寺より移して安置す。明治二十五年遠野に智恩寺の建立せらるるに至り、同寺に安置せらるることとなる。木像の製作は寄木法なれども、内刳を施さざれば玉眼をなさず。刀法稚拙なれども頗る剛健なるは所謂権作と拝せらる。一部に補修の形迹を存すれども、よく旧態を保って賦彩の痕をとどめ、襟は白色、袈裟は赤色、横被は緑色なるを認む。袈裟に環を有するは、現今の宗風に合致せざれども、法式未だ整はざる開宗の当初は必ずしも律すべきにあらず。却ってこの事あるに依り、製作の手法と相俟ち。略ぼ所伝の時代に近きを察せしむ。
 とあり、「身延梅平の隠棲」は現在の梅平鏡円坊の地である。
 仏祖統記によれば
 「弘安四年に隠築を建て、剃髪得度し、日蓮聖人より「法寂日円」の法号を受てけ十六年間隠棲し、永仁五年(一二九七)九月廿五日七十六歳を以て入寂」
 とあり、実長入寂より38年の後、すなわち建武元年(1334)南部師行が奥州八戸に「根城」を築いて城中に安置したものであるという。一方波木井家に伝わったものは「村雨の祖師像」である。
 因(ちなみ)に実長の自記によれば
 弘安四年巳歳九月一日ヨリ於予宅、日蓮大聖人為祈法花経読誦有テ、一七日満シテ立帰給ハントシテ、門外エ出給時俄に村雨ス。聖人以数珠ヲ払給ヘハ晴天ト成、其身形難有思ヒ、則聖人ヘ其形ヲ望ケレハ、自身影作リ授与之予永々子孫信仰ノタメ由来書印置ナリ。
 大聖人ノ尊像四寸二分御彫刻也
  十二月八日          入道実長    日     円
 また、身延山37世薩心院日寛上人が、延享3年(1746)9月25日実長公450遠忌に、鏡円坊に臨錫され、法要を勤修された時の詩再に序が、鏡円坊の宝物として現在珍蔵されている。
 詩に曰く   
   隣径日西落   帰禽簇
   祖翁遊歴地   邑主隠家蹤
   護法忍衣厚   恵民慈宝重
   餘風千万載   信水浄溶々
 序に

 また身延鑑によれば
 波木井六郎実長、清和天皇より十二代後胤なり。飯野、御牧、波木井三カ郷を領して波木井郷に住居之故波木井六郎実長と申也 永仁五丁酉九月二十五日逝去元祖化滅より十六年後也。
 波木井弥六郎長義日教    正和癸丑十二月二十四日逝去
 波木井信濃守長氏日長    貞治六丁未八月九日逝去
 波木井伊豆守実氏日遠    永和四戊午五月二十一日逝去
 波木井兵庫助行氏日理    応永三丙子七月九日逝去
 波木井六郎三郎春行日事   応永廿三丙申正月十四日逝去
 波木井大炊介春氏日要    文安元甲子八月九日逝去
 波木井刑部少氏実日法    文明五癸巳四月六日逝去
 波木井右衛門助長春日眼   永正八辛未十二月晦日逝去
 波木井三河守義実日浄    大永七丁亥十二月廿三日逝去
 実長より十代なり。此の代にあたりて波木井の家滅亡せし由来は、駿河住人九島兵庫頭とゆうものあり。甲州河内領の武士共と一味して武田信玄の父信虎と甲府の城にて合戦あり。信虎謀事以てうち勝ち九島兵庫は甲州荒川河原にて打死せり。其後信虎甲州川内の城を攻め取り給う。波木井の一家も峯城にて義実自害し給う。具には甲陽軍艦にあり。又信玄の代に南部下野守を国中追出し給うより、南部波木井の家滅亡なり。
 波木井六郷三郷実行日証   永福十丁卯八月十八日逝去
 波木井弥二郎実春日得    天正五丁丑正月十四日逝去
 駿河国高国寺の城夜うちの時、打死に有り、其の後武田家の滅亡ありて身延の町へ引こもり居るなり。波木井の末葉は今に紀州江州水戸の城下にあり。
 波木井織部少輔実久日受   慶安四辛卯正月廿一日逝去
 波木井織部少輔実友日清   元禄十二巳卯十二月廿五日逝去
 波木井主討助実紹日見    亨保十三戊申四月六日逝去
 波木井織部丞実義日栄    宝暦十一辛巳三月十六日逝去
 波木井織部丞実房日昌    安永九庚子七月二十六日逝去
 波木井織部丞実忠日隆    文化六巳巳正月廿日逝去
 波木井織部丞実好
 下略
 御祖師作の尊像由来 実長直筆の添状波木井織部代々これあり。
 とあれば、「村雨の祖師の尊像」は代々波木井家に家宝として伝えられたものであろう。すなわち南部家には実長の寿像が伝承され、波木井家には村雨の祖師(雲払真影(くもきりみえ))が、実長の由来記とともに伝えられているが、現在は何処に在るかこれを知ることはできない。
 ただし、南部家は歴代武家の本性に生き、しかも南北朝の戦乱の世に、南朝に味方して勤王8世として世にも稀なる尽忠を青史に残しており、しかも明徳3年(1392)南北朝合併により南部政光は、天戴地八戸に一族を率いて移動し、以来子孫は奥州に住したことは前記において述べたところである。一方波木井家には波木井郷に留まって北朝の禄を食み、10代義実の時武田家に亡ぼされて、事実上波木井から姿を消し、武田氏滅亡の後、浪々の身を以て身延に舞い戻り、実長の子孫であると称していたといわれるように、まことに悲惨な運命をたどったわけである。
 しかし、「仏祖統記」によれば、
 身延山五代日台上人
 大那波木井六郎実長之曽孫而信州刺史長氏之子也。−元享元年辛酉師生於甲州波木井邑。
 身延山六代日院上人    身延山八代日億上人    身延山九代日学上人
  甲州巨摩郡梅平人也    甲州波木井郷人也     日億上人末弟
 とあり、これによって見れば、波木井家の系統は始祖実長の遺志を継ぎ、身延山護持発展のために身延に留まって力を尽したのか、この間の消息は未だ詳らかにすることはできない。更に後世の研究に期待するものである。