第六節 穴山氏の入部とその統治

 穴山氏は新羅三郎義光から10代、武田の祖信義からは7代目の信武の六男義武が逸見筋穴山(韮崎市)に居し穴山を苗字としたのに始まる。
 義武を始祖とする穴山家系譜については下山南松院蔵の穴山系図、武田源氏一流系図、一本武田系図、円光院武田系図、国志人物部等が参考となり、「南巨摩郡郷土史概要」「甲斐郷土年表便覧」「武田親族衆としての穴山氏の研究」にそれぞれ考証研究を発表されているがこれ等のうち最も妥当と思われるものに従って義武以降、勝千代までの穴山系譜をたどってみる。
 穴山2代満春の兄、信満は上杉氏憲との戦に参加して応永24年2月6日棲雲寺で自決した。満春は国志によれば「満春モ其難ニ罹リ逝スルナラン」とあって同年5月25日に没しているので大体1350年−1400年代の人物と考えられる。
 2代満春は甲斐源氏12代信春の子で穴山初代義武の嗣となったのであった。
 3代信介は兵部少輔と称し宝徳2年(1450)3月19日に没し法名は天輪寺殿英中俊公大禅定門といい、下山天輪寺に牌子を置いた。同寺は信介の開創であった。
 この信介も南松陰文書では信を信ともしている。その信介から以降代々の法号が明確であり、信介を穴山一代とする史家もある。信介の時に穴山氏は穴山から河内へ移ったと考えられる。
 以上から推して穴山氏の河内進出は、信介の時、年代は応永25年(1418)かそれに続く直後の年ごろかとも考えられ、またその本拠は当初下山であったかとも考えられるが後に見るごとくこのことは結論するにはなかなか困難である。
 信介の子信懸(のぶつな)は幼名を弥九郎といい兄乙若丸が夭逝(ようせい)したため家を継いだ。
 信懸の没年はまたと説明している。
 信懸の子甲斐守信綱は享禄4年(1531)3月12日に没した。法名竜雲寺殿一株義松大居士。自らが享禄3年開基して墳寺とした下山竜雲寺開山堂内に保存良好な五輪塔墓碑がある。
 信綱の子伊豆守信友は南松院蔵の信友が天輪寺へ経本を修理再興して納めた大般若経大百巻の第三大八巻奥書にとあるので生年は永正3年(1506)であることがわかる。
 没年は国志に「南部円蔵院殿剣江義鉄大居士、身延山過去帳ニ蟠竜トアリ云々」
 その人物については円蔵院蔵穴山信友画像の賛の章句のなかに「春風和気の人、博愛同じうし接すれば靄然としてただに丈夫の士と称するのみならず。弁は70城を下し海中の濤を舌にひるがえし気は九万里の岩を搏ち萬象を機前に転じ、その号令を聞いては群魔も尊挙を避け云々」と形容している。
 信友夫人は南松院文書、同穴山系図に「信玄公姉子」としてある。信友夫人が弘治2年(1556)天竜寺妙智院主策彦和尚から「理誠葵庵」と法号雅号をつけられた法号記(策彦の自書)を贈ったのは永禄5年(1562)のことであった。
 信君は母の死後「南松院殿葵庵理誠大姉(し)』と法謚し南松院を開創した。
 信友(のぶたか)を父に南松院を母にして出生した信君は幼名を勝千代又は彦六といった。
 勝千代は信玄の幼名にあやかったものであろう。永禄元亀年間は左衛門太夫、天正の初めは玄番頭(かみ)、後陸奥守と称し天正8年除して梅雪斉不白と号した。
 信君は叔父信玄の娘を夫人とし武田宗家と重縁の関係を結び武田家重臣として父信友とともに更に父死後はそれを継いで武田家の枢要な地位にあって活動をしつつ自領の統治開発を行なった。
 天正3年(1575)武田属城の一つである駿河江尻城主となったが同10年(1582)3月武田氏滅亡の際徳川家康に連繋して江尻領および河内領を元の通り領有した。
 5月家康とともに信長の安土城に招かれた後、家康とともに堺におもむいて滞在中、6月2日の本能寺の変を聞き両人は枚方まで同行したのであったが、ここで別れ家康は伊賀越えをして領国に帰着し、梅雪は美濃路を経て帰国しようとして山城国宇治郡田原の草地(くさち)の渡しに到って土豪一揆のために主従ともに害せられた。時に6月3日であった。墓所は田原にある。
 なお当時日本在留のキリシタン・ゼスイット会のバテレンが本部、ローマに報じた「日本耶蘇会年報」の記録が他と異色で梅雪の評価にもかかわるものなのであげてみよう。
 「信長の凶報堺に達するや此の町をみんとて行きし三河の王、及び穴山殿は直に彼等の城に向ひしが通路は既に守兵に占領せられたり。
 三河の王は兵士及び金子の準備十分なりしを以て或は脅かし或は物を与えて結局通過するを得たり。穴山殿は出発遅れ、又少数の部下を従えていたため、更に不幸にして一度ならず襲撃せられ先ず部下と荷物とを失ひ、最後に自身も殺されたり」
 梅雪主従の墓は田原草地の渡し左岸にあって穴山塚といわれるものであったが明治8年水害を避けるため現地(京都府田辺町)に移し郷人の手厚い管理をうけているという。
 なお清水市霊泉寺にも墓があり法名は霊泉寺殿古道集賢大居士である。又韮崎市穴山万福寺には牌子があり、法名は大竜寺殿月山梅雪大居士である。
 梅雪の享年は確実にはなし難いとされていたが南松院の信君関係文書の中から42歳と確定した。
 苛烈な戦国に生き、国志記載の南松院蔵、南松院殿17回忌香語等によって十分うかがわれるように深謀遠慮、大志を胸奥にしながら敢えて主家離反の境地に立ち悲運な最後を遂げた梅雪という人物については、武田家滅亡という哀史の背景、穴山家が郡内の平氏系の小山田氏と違って始祖以来武田家と密接な血縁関係にあり、わけても梅雪は信玄の姉を母とし信玄の娘を夫人としていたことなどが甲州人の心の中では感情的にもつれ合いからみ合い、ともすれば主家瀕(ひん)死の危急を見捨てた人物、といった一言で過去においては評される向きもあった。
 梅雪を含めての穴山氏累代の武田本宗に対する業績は此の場合少しも考えられないのである。天正壬後(じんご)十年の梅雪への理解を正しくすることは同時に戦国の歴史を冷静に理性的に見てゆくことと一致するはずのものである。
 幸い今日の穴山氏の歴史については、各史家多数が穴山氏観の正しい把握についてゆるがぬ観点を打ち出されており喜ばしいことである。
 甲陽軍鑑品第40の上に、土屋右衛門尉と山懸三郎兵衛尉の二人が梅雪を評した「ひとかたぎで武士の道にかなひ、すぐれて心清く刀、脇差しの生まれ変りの如き人なり、穴山殿なんど紙子をつくり着てありかるる、この穴山殿異相の人なり」というくだりが梅雪信君の人物評として興味深い。
 昭和42年10月12日「穴山梅雪顕彰会」会長である清水市長主催によって同寺において「江尻城主・霊泉寺開基、穴山梅雪公380年祭」が盛大にとり行なわれ山梨・静岡から多数の穴山文書、関係物件が展覧された。清水(江尻)港は信君によって大いに整備されたと現地では伝承している。
 梅雪夫人は前述のように信玄の娘であり梅雪死後家督を継いだ勝千代の母である。天正10年梅雪の不慮の死にあい更に天正15年(1587)勝千代の死に遇って下山を去る。
 一説によれば江戸に出て田安門内比丘尼邸に入り厨料、500石を幕府から給された。
 そして元武田家臣の娘神尾静(墓は御廟所の西側にあり)が2代将軍秀忠の子幸松を生むと自分の妹信松院と2人で幸松が元和3年(1617)信州高遠城主、保科正光の養子となるまで武州足立郡尾間木村に出てその養育に当った。幸松は後の会津藩主、名君の誉れ高かった保科正之である。保科家は元禄9年松平姓をゆるされて徳川家門となった。
 梅雪夫人は元和8年(1622)5月9日没し尾間木村清泰寺に墓があり会津若松の松平家はその廟(びょう)を同寺に建てた。
 法謚を見性院殿高峰妙顕大姉という、南松院文書では墓は常陸水戸にあるとしている。
 信君の子の勝千代は父の死後下山にあって領内社寺その他に父生前の先規のように諸事継続すべき旨の文書を発し、穂阪常陸助、有泉大学、芦沢伊賀守元辰等世臣の団結に守られて、駿河と河内領の統治に当ったが天正15年(1587)6月7日痘(とう)を病んで夭逝(ようせい)した。年16歳であった、富沢町最恩寺に葬った。
 法謚最恩寺殿勝岳寺公居士であるが駿河薩陲(さつた)村の松源寺で松源寺殿と称され高野山過去帳にはとあり南松院文書では「松源院殿松岳寺公大居士」となっている。勝千代の死によって初祖義武以降およそ250年前後の間八代に及んだ穴山家は断絶し穴山領は徳川家の領地となった。穴山本宗は絶えたが信君梅雪には彦八郎、彦九郎の二人の弟があったことが諸系図から知られる。
 梅雪の娘については身延山過去帳の「天正3亥年12月朔日延寿院日厳」を国志はあげ延寿坊を穴山宿坊と記してある。
 梅雪は家康に市河十郎衛門の娘竹と、自分の養女の資格として秋山越前守虎泰の娘都摩の二人の女性を進めたが都摩は天正11年(1583)9月浜松城内で家康の万千代を産んだ。国志は「長ジテ信吉ト名ツク武田氏ヲ襲ヒ梅雪ノ家蹟ヲ継ガシム、同十八年寅十二月廿九日総州小金三万石ニ封ジ彼ノ旧臣尽ク附属セラル、明年秋山夫人逝ス、同二十年辰三月佐倉拾万石ニ移封、慶長七年寅十一月十五日水戸弐拾五万石ニ加封セラル翌卯年九月十二日信吉君逝去歳廿一、法諱、浄鑑院殿英誉善香崇岩大居士」とのべているが浄鑑院は水戸にある。
 以上の経過によって穴山氏は絶え国志は「属騎ハ皆幕府ニ入ル」としているがより多数が帰農したと考えられる。今日河内にその家系を多数見ることが出来る。
 身延町上八木沢鰍原の穴山忠勝家は同家系図によると信君の弟彦八郎を家祖とし次が彦太郎信懸、法名宮内院黒叟夢酬居士であり、国志に「飯田系図に彦八郎信邦。男彦太郎信懸又宮内尉と称す。法名黒叟夢酬居士」とあって同家系図と飯田系図は一致し、なお同家家紋と最恩寺の穴山勝千代画像其他にみる穴山家々紋はともに下一つ除いた武田菱で他に例がない。
同家には穴山彦太郎あて川中島合戦感状があり、また天正10年12月5日付の本多弥八郎(正信)、高木九助はからいの徳川家康の福徳丸印の県志本古文書類集所載の本給地拾壱貫五百文並棟別、居屋敷免許の穴山彦太郎あて継目状を蔵する。

一、穴山氏の河内入部と一円支配過程

 穴山氏が河内に移った時期を明らかにすることは中々困難である。佐藤八郎は将軍足利義持が小笠原政康に下した応永25年(1418)の内書、を引いてこれを応永25年、3代信介の時と考証されている。それでは最初穴山氏は河内のどこに居住したかという問題であるが前記、将軍義持の内書にも「南部下山辺」となっており、甲斐国志人物部、穴山修理大夫満春の項の中で「穴山ハ逸見筋ノ村名也此ニ居シテ氏号ニ命ス後南部ニ居リ下山ニ移リ東西河内領一円ニコレヲ領ス」とあり明確ではない。ここでなにゆえ穴山氏が河内に移住したかという点を考えてみたい。逸見氏の勢力圏外に本宗武田のために穴山勢力を養わんとしたためであったろう。また南部氏の残存勢力があったのでこれに対処して武田氏が穴山氏を河内に配置したかとも考えられる。いずれにしても穴山の河内移住は室町幕府将軍と武田家の強い意志によるものであったと信じられる。
 はじめ穴山氏が居したのは下山か南部か今日なお明確ではないが南部町内船の穴山館趾という伝承をもつ「地頭屋敷」が地理的に考えて穴山氏初期の本拠ではなかったかという見解を示している人もある。国志は前出の他、古蹟第14、南部城蹟の項に「三郎光行ヨリ信玄ノ時南部下野守マデ相続シテ当郷ノ領主ナリト云伝レドモ永正ノ頃ハ穴山兵部少輔信懸ノ本村ニ住スルコト見エタリ」と記している。
 信懸の南部町本郷の建忠寺開創から考えても信懸のころに内船から富士川を西へ越えたことも考えられる。次の6代信友の居住は南松院蔵の信友が天輪寺に施入した「大般若波羅蜜多経第一百一十一巻」奥書にとあるが1547年の自署である。
 また円蔵院由緒書にも
 天明五年巳十月」とあるので信友の下山居住が明確である。居館の場所は国志古蹟部第14「穴山氏城墟」の項に「本国寺ノ境内及ビ村居ニ係リ処々ニ残湟荒塁存シ調馬埓ノ蹟等アリ」
 城域は南松院もその中に取り込む構成である。下山氏の居館趾(し)を更に拡大したものと考えられる。7代信君もここに居したが前記のように天正3年(1575)に江尻城主となったので以後は下山は留守所となったのではあるまいか、8代勝千代はその短い生涯を江尻で終ったと考えられる。
 標泰江は「姓氏家系大辞典」から下山氏の存在を14世紀終りごろから15世紀初めの間迄考えられるとしている。帯金氏は瀬戸(下部町)方外院の永禄2年(1559)の穴山信君文書に「帯金美作守ヲ以テ承リ候」とありこの期迄つづいて何時の時にか穴山氏に付属していったと見られる。
 6代信友の時河内一円支配の成った見方もあるが、しかしながらその事業は決して容易なものではなく、背後に武田本宗を控えこれと密接に連絡しながらも前記諸勢力に巧みに対処し、あるものは本宗家の下へ付せしめ、あるものは自己の被官となしつつ河内一円の武田家における再支配の形の中で郡内小山田家とは異なった独立的統治を完成して行く道は決して容易なものではなかったはずである。
 このことを幾多の穴山関係文献その他の史料が明らかに物語っている。そしてこの河内一円支配の進展完成の期をになうものは信友と信君とであり、それはちょうど武田信虎と晴信の時代とそれぞれの経略にほぼ比せられる。