三、穴山氏の領内統治

 穴山氏の所領支配の性格は所謂武田家の下における「再支配」であると類型的にいわれており、穴山領内に向けての武田信虎・晴信・勝頼の諸文書が存在してそれを裏付けているのであるが、その内容の実体を郡内小山田氏の場合と比較すると同じ武田家の下での再支配とはいっても、そこに格段の相違が認められるのである。穴山氏の場合は武田家の下にありながらもその独立性が極めて強いのである。これは思うに穴山氏発生以来、常に強化し続けられた本宗武田との濃厚な血縁関係・武田家の甲斐統一への困難な時期における一体的協力の経緯、相当な経済力と人口、河内の地理的条件、そして信友・信君父子の並々ならぬ手腕力倆、といったものが然らしめたものと考えられる。武田家の戦国期における対内的対外的活動の進展強化が信虎・晴信父子を通じて展開されるのであるが、穴山氏においてもほぼこれに歩調を合わせながら信友・信君の時代にその統治の拡大強化を見たのであった。以下穴山氏の領内統治についてはこの2人に重点をおいて見ていきたい。
 その統治の様相をみるには信友・信君父子を通じ「家臣・領民の統率」「産業経済の開発」「社寺関係」等の項目に大別してみてゆくのが便利だと思われる。
(一)穴山氏の家臣・領民の統率
 穴山氏勢力の中核となり、その発展強化の直接の原動力となったのは穴山家臣団であったが、甲陽軍鑑その他の文献には、「穴山殿手勢」「穴山衆」という名で呼ばれている。
 軍鑑品17に「穴山殿手勢200騎」としてある。この場合の「1騎」は騎馬武者1人に徒歩の兵5、6人が随従するのであり、かなりの大兵力であることがわかる。武田勝頼・信繁も200騎であるところから考えても穴山氏の勢力が理解される。
 これら家臣の穴山家との関係はさまざまな経緯によるものであるがこれを大別すれば、穴山氏河内入部以前から既にそれぞれの地域の小豪族であってその地を退去することなく次第に穴山氏に属していった馬場氏・帯金氏・万沢氏・四条氏等のように穴山氏の被官となっていった系統と、穴山氏の逸見筋にいた時代から臣従していたと考えられる穂坂氏や、穴山氏が河内に移って以来各種の「御恩」を与えて養成臣属せしめたところの信君文書にみられる「直(ヂカ)奉公之在郷衆」の系統・軍鑑品34に、永禄11−12年にわたる北条・武田の薩山合戦の折、降人を穴山に付したとあるように「降人」の系統等に分けられよう。武田家滅亡の際、穴山氏を頼って合流したものも相当数あった様子が軍鑑品57にみえる。
 被官係については臣属の過程でそれぞれ旧領が安堵(ど)されたものであろう。飯富氏、岩間氏のように穴山氏に属することなく穴山氏に押し出された形勢で本宗武田に吸引されていった氏族の領地その他の処理は武田、穴山の間で穴山支配へ任されたと思われる。波木井義実などはかかる方向の中で遂に消滅の途を辿(たど)ったものと思われる。
 信友・信君ともに以上各種の家臣の統率に細心の注意を払い新屋作り、竹作り、山造り、金山経営、軍功、戦死者跡目相続、渡船、商売、交通、等々に関連してしかるべくこれに加恩したり、番匠を士分に取り立てたりしている。反面、戦場遅参者等命令規律に背く者に対する処分にはきびしいものがあった。
 軍功の大なる者に対しては、直接本宗武田の当主からの感状下付をはかっているなどは仲々巧妙で信君が部下に、自分の諱名を与えている例なども細かな配慮である。
 家臣に向けて発した文書の多くは信友・信君の自筆でなされ、信君のものは国志に「筆法モ見事ニテ最モ好事ノ趣ナリ」とあるように極めて能筆である。信友・信君自筆のものの他に特に信君の時代になると、「奉之」として宗威軒、下庵、以春軒、蒲庵、庵、寺奉行等々が現われ、また信君の代官任命文書などがあることにより穴山氏は家臣統率について、本宗武田と同様に各部門専任者によっての支配組織を整えていたことがわかる。国志も「地方租税ノ役人」「同心頭」「地方代官」として多数の穴山家臣を説明している。
 次に以上のべた家臣階級の下部に位する庶民層に対して穴山氏は統治がいかなるものであったかという点についてであるが、全部を明確に語ってくれる文献に乏しく、具体的に明確にすることが困難である。これはこの時代の日本の戦国期の社会全般についていえることなのである。
 戦国期分国法中、最も名の知られている「甲州法度」(信玄法度)57ヵ条の中からも秀吉段階の近世的諸政策に比べると幾つか遅れた点が見える。また時代からそれは当然でもある。穴山領においても庶民層の一般的な在り方は「穴山家臣階層」の保護掌握にゆだねられていたものと考えられる。そしてまた同時に信友・信君とも以下の文献に見られるように、金山経営、造林、出材、交通、商売等の特殊、重要事項については直接それに当たるべき家臣を指名して事に当たらせたのである。
 家臣階級といえども、戦陣が終れば帰省し、在郷中はそれぞれの生産に従う者がいずれの国においてもまだまだ多かったのが信友・信君の時代であった。そしてまた信君の時代は、織田信長、徳川家康などの分国領域内においては、士農の分化固定が歩を早めつつあり、やがて秀吉の身分固定へ繋(つな)がる方向を辿(たど)りつつある。穴山信友・信君のもとでの庶から士への転移は先にふれたが役引大工を明確に士として処遇し、ある者には尉を授け、姓や「守」を授けて領内大工の統制、領内通行等に大きな任務と保護を与えている例があり、また新開地を作って自立した者を「士」の層に取り立てたと解される史料例があり、庶から士への流動もあった。
 次に穴山氏が家臣に対して課した人的、物的負担は軍役を主とし、知行地年貢米、棟別銭、金山経営、山造り、竹造り、出材等であった。軍役出陣数等数量的なことを知る史料がないのであるが、これは最もきびしかったようであり、信君の次の書状はこれを物語っている。

 という福士の佐野日向守にあてた永禄11年(1568)のものと考えられる文書は、その夏から、年をこえて12年4月までの信君の駿河出陣に関するものと見られるが軍陣遅参者に対する厳しい処分方を命じている。
 第一義である「戦陣」に対するきびしい信君の態度がみてとれる。すべて家臣は領主からの「御恩」に対する「奉公」の遂行からはずれることはできなかったのである。また年不明なるも天正8年以降の書状に

 という薬袋の代官、佐野七郎兵衛尉に対する無奉公の望月六郎左衛門の知行の名田についての処置等も信君の課する義務、統制に関する事項を示している。残されている穴山文書によると領民には年貢米、年貢銭、普請役、棟別銭、地子銭、公事人夫、陣夫、伝馬助役人馬、山役、機役等が代官、奉行を通じて賦課された。
 以上、穴山氏の家臣、領民の統率を概観したのであるが、以下にその産業開発、社寺経営等について概略をみよう。