(二)穴山氏の領内諸産業の開発
 穴山氏の領内経営は信懸の次の信綱までそれについての史料が得られず、次の信友に至ってはじめて各方面に対する領内経営の事業が現われるのである。
 それは信綱までの穴山氏の行動からは全く予測できない程の目ざましさである。
 信友が信綱の死によって家督を継いだのは享禄4年(1531)、年25歳の時である。
 穴山信友の下山居住は一でみたように確定できるが南部から下山への移転の理由としては、下山が河内の中央に位置し、金と森林資源とに恵まれた早川谷の入口に当ることや、下山自体が国志にみるように甲斐国内において1村384戸であり、府中(甲府)に次ぐ集落となる可能性を持っていたことなどが考えられる。下山氏以来の集落としてここに河内においては最も広い耕地もあって軍事民政上の本拠地としては南部より条件はよいのである。
 国志巻之102の士庶部の項に

 があり、国志では「新宿ハ穴山氏居所下山ナリ」としているが、これに対する本宿は南部宿であったことが南部朝夷家文書からわかる。弘治4年(1556)は信友死去の3年前であるが、新宿西15番という字句から推すと下山は信友によって相当計画的な、城下町としての経営がなされていたものと思われる。国忘士古蹟部第14の「穴山氏城墟」の項に「京師神社仏区ノ名号に准擬(ぎ)シ城辺ニ多数ノ寺社ヲ建立シ繁栄言ハカリ無シトゾ」とし、「今ニ名ヲ存スルモノ」として、上賀茂明神、下賀茂明神、飯縄権現、住吉明神、子安八幡宮、清水観音、鈴鹿明神、日吉山王、愛宕権現、北野天神其他をあげ、「波高島村ノ上ヲ醍醐山ト云フ、城址ヨリ艮位ニ当レリ又大大山ニ作ル」などと記し穴山氏の積極的な城下経営ぶりをのべている。駿州往還ぞいのほぼ同規格の屋敷地割りも穴山氏のころからといわれる。番匠小路は竹下、石川の役引大工をはじめとする番匠衆の居住区であったがここの屋敷割り(一屋敷二畝〔72坪〕)にも計画性がみてとれる。
 穴山氏と諸産業の関係についてはまず、「農業」関係から見てゆくと、この面に関する文献に乏しくその動向・内容についてこれを明確にできないのであるが、信友史料最古の千須和備後入道あての文書に
  信友花押
 大野分二貫文名田たるべく依如件
    享禄五壬辰 三月五日
            千須和備後入道
とありまた一之宮文書に
   信友花押
 勝千代きとうして ゆわまの そうりようふんの内の手作を田弐たん神田につけ候 能々まつりいたすへき者也 依如件
    天文十一年正月一日
        下山一之宮へ
とあり、また南部円蔵院あての天文24年(1555)の寺領寄進状、天正8年(1580)の円蔵院領検地帳、同9年の天輪寺領検地帳、信友・信君の多数の感状等により穴山氏検地は領内に全般的に行なわれたと考えられる。
 なお、穴山氏は国志の岩間・古関・田原・常葉・帯金・大島の東河内領6組に対すると同様、西河内においてもその地その地における代官又は代官的性格を持った者をおいて、その者を通じてその支配を行なうとともに前記一之宮文書にみるように自己の「手作り地」を有していたのであり、また円蔵院領寄進状の中の信友の「成島新田」や同院領に対する信君の「先考信友開発之新地」等の語句から自ら開発した直轄地所有のことが判る。また中野の源二郎、薬袋の水野平太夫にあてた古文書にとか等の語句があり、これは信君が領内各地の士庶に新開地をつくり分家して新屋作りをすることを奨励したことを示すものであろう。前出の天正8年の円蔵院領検地帳、同9年の南松院領検地帳、天輪寺領検地帳については穴山氏の農政を知る手がかりとなる史料である。
 同院寺領の成嶋分のみについてであって
   成嶋之内円領検地之帳
四貫文       与三左衛門尉
参貫文       門前衆
壱貫文       縫右衛門尉
参百文       縫右衛門尉
壱貫文   南部   惣兵衛尉
六百六十五文       新兵衛尉
参百文       新兵衛尉
六百廿文   成嶋   惣兵衛尉
四百文       惣右衛門尉
四百文       二郎右衛門尉
参百七十五文       九郎右衛門尉
参百五十文       三郎左衛門尉
五百文       次左衛門尉
弐百五十文       源左衛門尉
百文       源左衛門尉

 という内容である。これは
円蔵院侍者中 信友

  天文廿四年九月廿三日
伊豆守信友  花押
円蔵院御侍者中
 に対応するものである。
 これ等の文書にみられるように土地は年貢銭の貫文高で表示されており豊臣・徳川の検地のように土地面積、その品等で示されてはいない、上記文書中に「右取納メ…年貢無沙汰の百姓、田地取上げられべきものなり」とあるが当時の銭貨は明銭であり、主として永楽銭であった。その1カを1文又は1銭と呼称し、10文を一(さし)又は1疋と呼び1,000文を1貫とした。妙法寺記享禄2年(1529)の段に、「此年の冬世中十分に吉…米二升五合、大原にては三升拾文サシに売買候」とあり又同寺記の最後の記録である永禄4年(1561)の段に「此の年の大麦売買は五月七升なり。同く小麦は四升十文サシ売り候なり」などと記している。円蔵院、天輪寺両検地帳は両寺に納入すべき貫文を上段に納入者をその下に記しているが、上記の年貢銭なる語句のあるのをみれば、年貢は銭納される場合が多かったと見られる。円蔵院検地帳による納入者は何人かの門前衆を除くと12名となる。徳川の世になって土地一筆ごとの石盛りが徹底するが、各村ごとに土地品等がきめられると、数か所について士分の立会いの下に坪刈りを行ない、1坪から平均して籾が1升とみれば1反では3石とし、これを五分摺(ず)りにみて米1石5斗とし、石盛り15と呼んだ。ひとしく上田、中田、下田、下下田と区分しても甲村と乙村とでは地味の相違があるため石盛りは違ってくるのである
 天輪寺検地帳については本文を略すが、同寺は穴山3代信介の開創であり、天輪寺年貢納入者は有姓の者10名、無姓の者2名の12名であり、有姓10名の者は大体、信介の時以来穴山氏に関連をもつ家系の者と思われる。そして年貢とはいってもこれら有姓の者の場合はむしろ同寺に対する喜捨施入的性格のものだったと思われる。
 有姓10名のうち松木善仲、松木但馬守、薬袋の佐野新左衛門尉等は穴山家士中の重鎮であって農民ではなかった。この検地帳には茶園、新興(新開)の記載がある。つまり天輪寺領設定の際は在地武士との連繋(けい)がとられていたことが察せられる。同寺の年貢高は合計5貫720文で他に弐斗6升蒔きの田と2斗9升蒔きの畑があり反にすると、1町3畝ほどになる手作り地があった。松木善仲の100文は、前記換算では僅か2畝であるが、天輪寺領は、その開基時、すでに在地武士であった者からの寄進によったものと思われ、円蔵院領は穴山氏の開拓による新地施入であったのと事情が違うためであろう。
 天輪寺領は田1畑2・6の面積比である、以上2通の検地帳だけから穴山氏農政の詳細は描き出せないが、寺領その他の土地関係文書に何文と一けたまで記したものが多数みられることにより、農業生産の掌握経営は相当しっかりしていたものと考えられる。
 また穴山氏農政が慶長、寛文検地の基礎となっていた様子は下山南松院の例によれば慶長8年(1603)の4奉行による同院に対する「御寺領覚」の寺領額が穴山氏時代のそれと、ほとんど変化しておらぬと考えられることからも察せられる。
 次に林産関係をみると、戦国の時代においては軍事上材木は非常に重要な軍需品であったことはいうまでもない。城廓、陣地構築の骨格として不可欠のものだったわけであり、その他為政者による社寺造営修理や万般の土木工事に、城下集落の形成に、村落の復興拡張に、更には商品として、材木の持つ必要性・価値は極めて重かった。河内領の中部以南は、東西ともに地味・気温・雨量等の気象に恵まれて森林資源は常に豊富であり、その輸送運搬も地勢、河川を利用出来たので、古来この地の重要資源として今日に至っているのである。
 国中・郡内・河内のいわゆる甲斐三内のなかで河内程林産に恵まれた場所はもとよりなく、その点林産は村々の農業生産の弱さに対する一支柱であった。
 後述する河内大工の活動もこの林産と密接に連関していたことは、使用地へ向けての大量の用材を河内から国の内外へ運んだことでよく示している。江戸時代この地域の材木が遠く京都・江戸・水戸等へ供給されたことを記録する雨畑尾崎家や下山穂坂家などの多数の関係文書、江戸時代を通じて多数の村々に設定されていた「御料林」「御手山」の存在など、この地域の林産の伝統の深さを物語るものは多いが、戦国時代の河内地域の林産面を穴山氏との関連で以下に概観してみよう。
 穴山信友・信君の発した、山作りや、用材下命等の林産に直接関連する文書は相当多数であるが、信友は天文5年(1536)薬袋の佐野藤六に早川入諸村金山、巣鷹、材木棟別のことを任じている。佐野氏は藤六以降代々早川入りを束ねる代官を出した。穴山氏の林産に対する積極さが初めて知られるのである。信友は天文12年(1543)7月5日、湯ノ奥佐野縫殿衛門尉にあて

という興味深い文書を発している。竹もまた重要な材料として計画的に用意されたのであった。弘治2年(1556)の

という山作り文書を出している。同じ山作り関係文書である大垈の鈴木四郎左衛門にあてた文書は

弘治二年九月十五日     信友花押
鈴木四郎衛門どの
となっているが、この四郎左衛門と同一人物と考えられる鈴木四郎忠光は永禄4年9月川中島合戦の功により信君の感状をうけ、大垈に1貫文、岩間に10貫文の恩地を与えられた純然たる武士であった。このような地位にあるものが山作りの束ねを行なっていたことは、江戸時代と違って生産を伴っての強靭な戦力の保持強化をはかった戦国の武士層の根強い生き方を物語って興味深いものがある。これと同様な状況は他の穴山文書からもよく見られるのである。
信友  花押

 弘治三年二月十二日
   大くつれの助左衛門尉
にも信友の林産に対する積極的な態度がよく見える。信君はそれを継承し
梅雪花押

 天正八年正月廿六日
   大崩孫三郎
梅雪花押

 天正八年庚辰  若林外記  奉之
   十月十二日  
   大崩之孫右衛門尉
 など林産に深い考慮を払っている。上記の助左衛門尉・孫三郎・孫右衛門尉は父・子・孫の関係と思われる。円蔵院殿はいうまでもなく信友のことであり永年にわたる大崩山造りがうかがわれる。また天正9年ころと思われる下山東漸院あての
梅雪花押

 二月二十六日  東漸院
 をみると、寺領の竹木に対する伐採規定であることが判る。この東漸院あての文書は信友・信君が多くの寺院にあてた「禁制」中に慣用句的に見られる「山林竹木伐採之事」とは別で竹木の管理命令である。信友・信君とも各寺領に山林を加えているがこれも一つには用材確保の一手段であったかと思われる。以上のように各地で穴山氏は林産資源の確保育成を行ないつつその需要に対処したのであった。次に山造りの家臣に対する穴山氏の用材下命をみると

とあるが、薬袋のこの七郎兵衛は父の庵から続いて早川入り代官を信君に命じられていた人物であった。五六は現在も使っている角材の規格である、永禄11年(1568)11月信玄は駿河に出兵し翌12年1月、馬場・穴山・今福の三将に江尻城を、其他久能・興津横山等をも築かせたが、信君は之等諸城砦の中心である江尻城主に天正3年(1575)勝頼から命ぜられている。次は信君が江尻から発したものである。浅間神社用材についてで、
 せんけん御ほうちんはしらの註文、ひの木上上
一、十六本長サ一ちやう四尺  ふとさ壱しやく仁寸
一、同はしら八本  長サ壱ちやう四寸五寸 ふとさ壱しやく四方 以上
 辰九月廿四日                     ひこ奉之
                    江尻
   佐野七郎兵衛
 辰は天正8年(1580)である
一、立具下へき事
一、柾並あやめいたの事
一、こはんせうきはんの事
一、をし板床のかまちの事
一、去去年ならあやめいたの事   以上
 九月三日   江尻 
   佐野七郎兵衛との
とあるが江尻城主信君のことである。浅間神社用材の輸送は流送と考えられる。後者からは建具を作って送り下すべきこと、碁盤、将棋盤等の要求が見られる。信君の用材の規格、品質に対する知識もみえる。武田氏の駿河進出、それにともなう穴山信君の江尻城進出は河内木材の重要性を深めること大なるものがあったであろう。
 駿河への用材は早川、富士川を流下したものである。富士川筏流しについて駿河風土記の岩淵の項に「甲斐の檜皮、槇木等筏も茲に著かしむ」とあったとの国志の記事は富士川水運の歴史についてよく引用されるところである。

は、用材の出材、管理者に対する保護についてである。
 穴山氏の金山経営については河内地域金山の文献は早川町薬袋の佐野家、同町雨畑尾崎家文書等があるが関係文書としては、
 信友花押  芳山小沢のすちかせき候てきり出し奉公申へきなり、何事なりとも此六人衆にまかせへき者也  如件
  天文十二年五月一日

村田善九郎
望月善左衛門
望月伴左衛門
望月神左衛門
望月新右衛門
望月三郎兵衛尉
があるが、天文3年(1534)の信友の宛名不明の「黒桂山はう山の事—中略—稼ぎ山栄い候はん事肝要たるべし」の文書(甲州古文書)とともに甲州金山関係文書として貴重である。武田氏の河内地域の金山関係文献としては天文19年(1550)の

 という相又市川喜洋家文書があり、これは武田氏の金山文書中、最も古いものと思われる。金山の持つ経済的特殊性が武田氏をして穴山領内に飛地的な経営を行なわせたものであると考えられる。穴山領内に対する武田氏の此の種のいわば「立ち入り」的関係は他の面にも、多少は見られるのである。
 河内地域の戦国期金山経営の遺跡とされるものは早川入りでは保・黒桂・雨畑筋の稲又長畑、これと連関する大城・河東では毛無山金山群とでもいうべき、湯ノ奥・地蔵峠一帯・栃代から本栖・麓等に見られる。金は鉱石を砕いて得るものを山金、川でえるものを砂金・沙金・川金とよんでいた。もとより山金が中心であり、上記の各場所に廃坑や石臼が残っている。坑で武田氏金山と伝えるものが河内各地にあるが鉱石の露天掘りも行なわれたようである。武田金山とはいっても河内の場合は早川入り文書や毛無金山は信君開発とする湯ノ奥のいい伝えからみて、大部分は穴山氏の経営だったと思われる。
 河内の当時の金山遺跡は、今日上記のように各所に見られるのであるが、毛無山中の湯之奥の草間奥遺跡には精場あとも残り、上限は不明であるが下限は明暦・寛文である。宝篋(きょう)塔石碑等が多数残されている。また早川町稲又遺跡では横坑・斜坑・堅坑等が複雑に連絡しており、当時のいわゆる「甲州流」土木技術の好資料である。身延町湯平の坑道遺跡はすこぶる長大な珍らしい砂金鉱床坑道で他に例がない。
 穴山氏の富を相当なものと見る世間の目のあったことが推察される。早川入りの穴山文書等から考えて、河内金山の穴山氏財政に対する比重は乏しい農業生産を力強く支えるものとして材木とともに大きな力を持つものであったに違いない。穴山氏断絶後は河内金山は他と同様に徳川氏の経営に移行した。