(三)穴山氏の交通政策
 いずれの谷も人間の生活舞台であり、経済、文化の交流する道筋であったのであるが、富士川谷も先史時代から時とともに東海と盆地、信州との間の政治、経済、文化の交流路としての役目を継続して来たのである。
 治承4年(1180)遠光の三男光行が南部の地に入部し、ついで光朝の曽孫光重が下山に入部するに及んで、それまで政治的に空白地帯であった河内の性格に大きな変化がみられ、甲斐中央の諸勢力、更にその上部にある鎌倉幕府等との連関を有する地域となった。
 甲駿を結ぶ要路としての性格はいよいよこの期に入って明らかとなったのである。
 身延山の歴史もここにその歩を踏み出すこととなった。青山靖が「身延信仰と交通」において述べているように、河内路の発達と身延山との関係は文永以来現代まですこぶる密接であるが河内路が甲駿連絡路として政治的、経済的に重視され、その施設、制度を組織するのは戦国も半すぎにはじまるといえよう。それはまた戦国という時代性の産んだものであった。
 王代記、妙法寺記、高白斉記によれば駿河の今川勢は明応元年(1492)以降、大永元年(1521)の間何度か甲斐に出撃し、特に大永元年には福島正成が数万の大軍をもって侵入し、武田方を大島の戦に破り下山を経て国内に軍を進め、60日余の対陣の後10月16日の飯田河原、11月23日上条河原の激戦で駿河勢は敗退し、これは味方した波木井義実も同7年に亡ぼされたが、この駿河勢との度々の対戦は必然的に武田氏・穴山氏をして河内路を軍事上厳戒させることとなり、やがてこの河内路を経由しての武田・今川の同盟関係が進められ、最後には永禄11年(1568)12月、信玄自ら河内路を駿河に出撃する経緯の中で河内路の宿駅は整備されたのであった。
 身延町和田の市川孟家文書は軍事上の要路としての河内路の性格を最初に物語るものといえよう。内容は、和田の市川代之進等9人衆に信玄の父信虎が、天文3年(1534)3月、最寄りの時告げ煙場12箇所の厳重な管理運営を命じ、各人にそのための恩地25貫文ずつを与えることを記していて、武田氏の軍制を知る上でも重要な史料である。
 そこで妙法寺記によれば大永2年(1522)の段に「当国屋形様身延ニ而御授法、御供の人数皆々授法」とあり、信虎の河内往来を記している。前記史料の通り武田・今川両氏は激しい対立の関係で交渉を持ち始めるのであるが、妙法寺記にみるように天文6年(1537)2月には信虎の女が今川義元の息氏真の夫人として駿河に赴くことになり、天文21年には義元の女は信玄の長男太郎義信に嫁すため11月21日駿府を発し、内房・南部・下山と旅宿を重ね27日府中穴山邸へ到着したのであった。
 この婚儀交渉のため高白斉はその2月1日甲府を発し2日には駿府の穴山信友宿へ入っている。これは至急の伝馬であったらしく、甲陽軍艦品三七には甲府・駿府の飛脚は3日内と記してあり、これが標準であったのであろう。
 永禄11年(1568)12月6日に甲府を出発した信玄は下山を経て6日目の12日に芝川内房に着いている。大部隊の行動としては迅速といえよう。そしてその前提として河内宿駅の設備が先行していたことであろう。
 武田氏・穴山氏と身延山の関係については後述する通りであるが、信玄が元亀年間(1570−73)穴山信君に宛てた文書で身延山の10月の会式に両口すなわち鰍沢・黒沢・万沢等を往復する参詣者の手厚い保護を命じており、これ等と永禄11年来の駿河に対する武田氏の進出を考え合わせれば、永禄元亀のころに河内路は甲駿を結ぶ要路として整備が急がれたと考えられる。
 さて次に穴山氏の宿駅経営についてそれを具体的に知る史料は南部宿下山宿・下山一ノ宮・下山役引大工・渡船・身延山関係文書等多数あるが、南部宿朝夷家文書がよく知られている。
 府中から下山、南部を経て駿河に通ずる河内路も時代によってその途・経路に変化があり、1番古くは府中−市川大門−帯那−岩間−西島の道筋であり、それが府中−市川大門−割石峠−岩間−西島と変り、更に峠を避けて府中−鰍沢−砥坂渡し−岩間−岩崎渡し−西島と変化したのであった。
 砥坂渡し役に従っていた鰍沢町箱原の依田家文書に

とあり、また、慶応元年の西島村書き上げにも、元亀元年、天正9年(実は19年)の穴山氏および加藤光泰よりの富士川横渡しに対する御墨付頂戴のことを記し、西島、箱原等の者が砥坂・岩崎のいわゆる「もろこし(両越)の渡し」の任にあったことを示している。
 岩間村誌や国志によれば、岩間代官所の廃止は天和2年(1681)のことであり、国志によれば、
 「二所の渡場アリ煩ハシキニヨリ貞享年中(注・一六八四−八七)岩腹ヲホリ徒行路通ズ。今ニ新道切通シト呼ベリ爾後行旅多クハ此ノ渡場ニカカハラズ」
とあって、河内路が富士川西岸に打ち通されたのであった。
国志に
 唐くにの渡りならねどもろこしは こまのこほりに行きかへるなりというこのあたりに伝わる歌を、村人は梅雪が渡船場に名付けた歌ともまたその夫人が詠んだとも伝えると記している。
 また、信君が元亀3年、帯金美作守に元亀2年(1571)の大水で船が破損して中断している「中渡場」の船を「往還之士卒迷惑につき」早急に造らすべきことを命じたものである。
 南部宿伝馬法度は天正5年(1577)12月21日のものであるが、天正2年正月15日の下山宿近藤源四郎宛の信君文書(下山・芦沢忠雄蔵)にはとあって伝馬の使用を許可している。
 また岩間村文書(天正5年7月16日)には、信君が「岩間伝馬宿」に対し、伝馬役の者の悃(こん)窮申し立てをみとめ以後は伝馬は市川大門までとしており、岩間伝馬宿の経営を知ることができる。
 天正5年(1577)12月の南部宿伝馬法度(南部・朝夷家蔵)は

というものであるが第1項については別に年不明の朝夷家文書があり、それは

というきびしい規定があった。法度第2項は、下山宿への通行者は南部宿で午後4−6時の時刻であれば南部宿泊まりとすること、駿河方面への者は午後6−8時以後の者は南部泊まりとすることの定めであり第3項は公用を除き伝馬に塩荷を着けてはならぬこと、第4項は武田家の伝馬手形も確認の上伝馬を出すべきことの規定、最後の1項は南部宿の山林利用の慣行権利の再確認である。
 天文16年(1547)制定の甲州法度55ヵ条中の第3条は他国との交信・謀略通信を、第13条は農民の夫役のことを定めたものであるが、穴山氏の宿法度もなかなか厳しかったといえよう。
 穴山氏が本宿南部から軍事経済上の要地である下山新宿へ移ったのは既に述べたように信友の時代と考えられるが、子の信君が天正3年(1575)江尻城主となったので河内路各宿駅は一層整備されたのであろう。朝夷家文書によれば南部宿には20人、20匹の伝馬人夫とが常時配置されていたが他の宿も同様だったであろう。この外更に多くの人馬を要する場合は本郷・中野・成島の各村が助役をつとめたのであった。
 富士川舟運も盛んになった享保20年(1735)には毎日馬4匹、人足4人宛が当番勤務している。舟運の役割りが大きく陸上の人と馬にとって代ったのであった。