(四)穴山氏の商工業保護
 穴山氏の各地の山林・金山経営等はいずれも商工・交易に深くかかわるもので既に述べた通りであるが、直接関係する商工関係資料にふれてみたい。古いものからみると

という文書が信友から出されており、信君も同人に対し永禄8年(1565)保護状を与えている。
 永禄元年(1558)信君が小縄村の五在家衆10人に対しの文書を出したことは穴山氏と、林産の項でふれたとおりである。天正4年(1576)の

という文書があり、これは紺屋の者に対する営業継続を許可したものであり、別状でこの年正月吉日信君は同人に尉の字を許している。
 天正8年(1580)の文書で青柳宿の市を立てる日を定めた布告

は同年3月9日田富の河西五郎左衛門に川除けを命じた信君文書と共に、この期の穴山氏支配が国中にも及んだことを示している。
 また、防備・攻撃・破壊・復興の絶え間ない戦国において常に重要な地位におかれた番匠・大工に対する穴山氏の保護と支配の状況は別項に詳述したとおりであるが、ここではその一例を示す文書として、天正8年(1580)に信君が役引大工源三に与えた伝馬の特権を認める旨の允(いん)許状を掲げる。

 江尻・興津・由比・内房・万沢・南部・下山・岩間・甲府迄
 源三は下山居住の役引大工の1人であり、役引大工は駿州江尻から甲府までの往来にあたっては馬1匹を無料で使用することが認められていたのである。
 次に年代不明であるが下山一之宮の国志付録に

とある。金丸平八は信玄奥近習の1人であるが、信君は自分の扶助している所の木綿で生計を立てている百姓が鰍沢口で木綿を没収されたが、それは法度も知らぬ新参の役人のしたことと思われる。一辺心得させてもらいたい。というかなり語調のきついものである。
 天正10年6月、信君の死によって家を継いだ勝千代はよく11年(1583)12月23日身延山久遠寺に5ヵ条の定書を出したがその中に、宿中商役之儀は亡父霊泉寺殿(信君)の判形の旨に任せ云々とあり、身延門前宿の商業交易は徳川氏の文書から推しても穴山時代から盛んであったようである。
 以上を概括すれば穴山氏の商業交易保護は相当に行きとどいたものであったといえよう。
(五)穴山氏と社寺関係
 宗教と政治とは東洋・西洋を問わず、時に一致し時に対立し、協調する関係を歴史の中に展開し密接な関連を保ちながら相互に発展して現在に及んでいるといえよう。
 日本の場合この相関は政治と仏教の関係に著しいといえる。戦国期は武家と寺院との関係は加賀一向一揆、信長と延暦寺や大阪石山本願寺等で代表されるように、対立的関係の一面が各地に見られたのであった。
 武田氏及び穴山氏のこの期の領内諸宗・諸寺社との関係について当地域の状況はというと、武田氏身延攻めのように、ちょうど信長の延暦寺焼打ちにも匹敵するような圧迫を信玄が身延山に加えたとする有名な伝説があり、また、穴山氏、武田氏による開創、保護の伝統をもつ社寺も数多い。
 穴山氏の河内及び駿河領における社寺関係の文書は多数にのぼり、それはまた武田氏文書と重なりあう場合が多い。特に身延山関係についてそのことが言える。
 武田氏と身延山との関係は、穴山氏の交通政策の項でふれた大永2年(1522)の妙法寺記の記録「此ノ年当国屋形様身延ニテ御授法云々」を一応その始まりとしてよいであろう。同年信虎は甲府穴山小路に日伝を開山とする信立寺を建立している。
 次に信玄及び信君の身延山との関係を主として軍鑑・国志・甲州古文書第二巻所載の寺記・端場坊蔵雑々留記中の各文書・東大史料編さん所史料等によって追ってみると永禄元年(1558)12月15日に信玄は7ヵ条の禁制を与えているが内容は保護と統制に関するものである。
 同時に信君の永代不入の判物が与えられているが両者の身延山に対する歩調の揃え方がわかる。翌2年には信玄は

の書状を発しているが年不明の信玄の書状

は、身延山15世日上人に従わぬ2、3の者の速やかな追放を信君に下命したものである。
 また次の

は、元亀元年8月伊豆に出陣中の信玄が、日上人に松茸200本を送りとどけた折のものであろう。年不明の9月29日付信玄花押の「彦六郎殿」あての文書では、身延山会式の折の黒沢、鰍沢の両口を往復する参詣者の保護を恒例の通りにすることを申しつけている。
 また同年9月11日、大僧正法性院信玄花押の文書を身延山貫主近侍閣下に送った書状の内容は武田の武運に対する身延山の加護を将来とも頼み入り、その末尾を

と結んでいるのである。
 次の

は信君が病中の息女の息災祈を久遠寺に依頼したもので、信君文書中珍らしいものである。この息女は翌月朔日逝去した。法名は延寿院日厳。信君は塩沢に延寿坊を建ててその供養とした。延寿坊はまた穴山宿坊とも呼ばれた。
 なお、信君は天正8年(1580)重臣穂坂常陸介が身延山内に一坊を建立せんとするのを賞した文書を同人に与えている。
 この他、信君は天正9年(1581)5月、旧規確認の文書を、10年2月には覚え7ヵ条を、10年3月には禁制3ヵ条を身延山に発している。その他年不詳の10月8日付けの

は、会式執行に関する信君の事細かな指示で、日・日整・日新の交代の折と思われる。また

は身延山17世を下総藻原妙光寺の日新と信君が決定したと思われる文書である。
 穴山氏と身延山の関連のいかに深かったかを推察することができよう。
 天正11年、穴山勝千代は5ヵ条の定書を身延山に出しているが、これは亡父信君の旧規を継承する旨の内容である。
 武田・穴山の久遠寺文書を概観すると以上のようであるが、織田・徳川・豊臣氏関係文書の形式的、類型的であるのに比べて非常に身延山の内部に立ち入った内容であることに驚かされるのである。これは武田・穴山両氏の身延山内部に対するいわば内政干渉であったとも、また天文から天正に及ぶ間の宗門の発展上幾多の困難を克服しつづけた身延山にとって、武田・穴山氏との連関は身延山の強化・宗門の統制団結にとって望ましいことだったともとれよう。甲州ほとんど全ての社寺の武田・穴山時代の諸役免除・寺領其の他に関する権利や各種の慣行を織田も徳川も豊臣政権も、「旧規の例に任せ」「前々の如く」承認し再確認せざるを得なかったのを思えば甲州社寺領地の成立は武田・穴山時代にその基礎がおかれたものといえよう。武田・穴山両氏の身延山に対する態度について関係文書から総括的に観察した場合、弾圧的・圧迫的なものはほとんどなく、反対に保護・外護乃至戦国大名として必要な政治的統制の範囲であって、武田・穴山両氏の身延山に対する諸施策は高く評価されるべきであろう。
 いわゆる、信玄の「身延攻め」の説のごときは、全く歴史的根拠を欠いた俗説というべきもので、信ずるに足りないのである。
 身延山以外について武田・穴山氏の河内地域の社寺関係をみると、穴山氏開基の寺院が南部町および身延町に多く、また武田・穴山氏の保護統制はその他の社寺にも広くおよび社務・寺務の要務に及ぶ場合も多かった。
 穴山氏開基にかかる寺院の主なものとしては次の如くである。
清水市 井上 霊泉寺 身延町 下山 天輪寺
南部町   南部   円蔵院   身延町       竜雲寺
    本郷   建忠寺   身延町       南松院
    中野   松岳院   身延町       新長谷寺
    中野   慈眼寺   身延町       長泉庵
 武田氏や穴山氏の寺社対策を単に戦国大名の富国策・強兵策の一環としての立場のみから解釈することなく、それが社会的・文化的に後代に及ぼしている功績の大きさを考えたい。