(六)穴山氏の自立について
穴山氏系譜の項で若干述べたところであるが天正10年(1582)武田家滅亡に際し、穴山信君は主家と袂を分かって信長・家康にくみし、駿河と河内領約10万石の地を領有することになった。「武田家親族衆として穴山氏の活動」の項で述べたように、武田・穴山両家の は、武田勝頼の女と信君の子勝千代との縁談が長坂長閑・跡部大炊介の反対でこわれ、信繁の子信豊の男次郎に嫁したため信君夫人がこれに立腹したことがその発端とされている。
甲陽軍艦品五七・五八は武田家終焉(えん)の状を詳細にのべて武田氏将士が統制を失ない右往左往する騒然とした様相を描き出している。
下山・芦沢家蔵の「甲州古文書」所載、内覚には

とあり、同書所戴の「記録御用所本古文書」の
とともに、此の機の穴山信君・徳川家康両者の緊密な連携を物語るものである。
前者は天正10年(1582)3月11日勝頼以下田野に於て自害し果て武田家滅亡に及ぶ直前信君から家康に送られた書状の控えである。
徳川家康の軍勢が河内路から甲州へ進入したのは、河内諸社寺に発せられた家康関係文書からみると、3月3日前後であったことがわかる。内容は甲州への進撃以前、合力の連絡あるべきこと、なお新府城(軍鑑では古府とするが)にわが妻子のあることを承知されたきこと、最後の条は作戦開始1日以前、腹心の者を派遣されたく、その者と心静かに作戦措置に関し談合いたしたきこと、というものである。
後者は家康が信君へ、甲州の処理後、甲州は穴山の領有たるべく、たとえ甲州進撃がなくとも、それまで2年でも3年でも、安土(信長)より扶持あるようにはからうが、もしこのことに手違いを生じたならば自分が合力する、という内容のものである。
軍鑑から推せば、信君のこの文書が発せられた直後穴山夫人は下山に退去したもののようである。この2つの文書は当時の信君・家康・信長三者を結ぶ極秘の連携をまのあたりにほうふつさせるものがある。
国志巻之百二十一に天正10年4月25日、すなわち武田滅亡の翌月、
は信君自立の理由を述べたものとして知られ大意は「勝頼公が人を用いる明なく、親族衆の諌めを容れず、古府躑躅ヶ崎館を破却して新府に築くも、その成らざるに敵軍の侵入を受けたが、天命なるか一族士卒は防戦することなく一時に離散し去り、高峯天目山に入らんとした勝頼公は遂に最後を遂げられたが、国を亡ぼしたものは勝頼公その人である。
人はみな、武田の中興をなすものは穴山であり、やがて甲州の君主となる日の近きを待つのみである」というものである。
香語は南松院3世明院の筆になるもので同院に現蔵する。
穴山信君自立の理由を、単に自己一身を保全せんがためと考えこれを「穴山梅雪の謀反」という単純、直線的な言葉で表現することは、武田・穴山の深い血族関係や、父祖以来の永い河内統治の政治的蓄積の上に立って、更に広大な駿河領経営をこれに加え、名は武田氏の下における再支配者ではあっても実質的には、この時代の大名であり周到で進歩的といい得る綜(そう)合的な領内統治を行ない、すぐれた近世大名として広く他国に知られた信君という人物に対してはあまりに粗雑に過ぎる見解といえよう。
早川入り新倉に残る信友状とされる文書の「今度のはたらき ちゆうせつ まきれなく候 打死のあとへとふらいとして一筆御つかわし候 手おい候ものとも よくよく やうしやう候へく申候」等、また信君の戦病者、戦死者家族に対する諸文書など、また新屋作りの者に対する棟別銭(家屋税)の免除など、(しかもそれは百姓の者に対してのみでない)などは穴山氏統治の相の一端をもの語っているといえよう。
天正10年(1582)3月勝頼から離れた士卒について軍鑑は、知行地百姓の襲撃を恐れて東郡に知行地を持っていた者は八ヶ岳裾の逸見へ、西郡の者は東郡の山中へ逃げ込んだと記しているが、穴山氏の領民に対する施策とはかなり違ったものがあったのであろうか。戦国大名の領内統治は必然的にきびしさを基調とせざるを得なかったのであり穴山文書にも当然それが明らかであるがそれらの中から穴山氏統治の柔軟性をもの語る幾多の文書を見ることができるのである。
広大な領地とそこに住む多数の家臣、領民とを永く父祖相承けて統治しつづけて来た穴山氏の天正10年(1582)の自立への理解は「謀反」では理解出来ないといえよう。
次に穴山氏はその公的文書の姓には穴山を用いず武田を称して居り、又穴山氏に対する文書の多くが武田を用いている。
南松院大般若経二百五十一の
此全部再興大檀那甲州河内下山居住本名武田在名穴山伊豆守信友 以下略
を標氏はとりあげて「本名武田・在名穴山という言葉の中には穴山氏が武田の一族であることの方を穴山氏自身の姓よりも大切なものと考え穴山の姓を第二次的に考えたことがよくあらわれている。—中略—河内領主とも云うべき地位にある穴山氏があく迄も武田を本名としたことは穴山氏自身の意識の中に武田の末葉であるということが想像以上に強くあったのである。この事実は他の一族に見られないことで武田親族衆内での穴山氏を考える上で一つのポイントとなろう」と論じているが、初代義武・2代満春・3代信介ともに武田家から出ていることを思えば、かかる穴山氏の意識も無理のないところである。
信君の場合は母南松院は信虎の女であり、夫人は信玄の女であってみれば一層、本名武田の意識を強く持ったはずである。
勝千代などもやはり本名として武田を称している。
南松院香語の末尾に「按ずるに梅雪斉が徳川に帰した旨趣は武田家再興の約諾にあったのをこの香語が明らかにしている。故に後日万千代殿が武田を称されるのだという」と後世の国志編さん者は注を加えたのであった。
いかんともしがたい主家の命運に際して信君は、武田家再興の悲願を抱いて自立の道をとったことが察せられる。
武田万千代(信吉)については穴山氏系譜の項でみた通りである。
国志の注のような見方が穴山氏自立に対して当時から世間にあったものであろう。
「本名武田」の意識、自負のもとに、他の親族衆とは違い長く自らの責任で領土、領民を経営統治し来たった、実質的には自立した近世大名であった穴山氏の、断絶と連続との間に立っての対処の理解は、限りなく複雑できびしかったこの期の歴史の経緯の中でなされねばならないのである。
穴山氏は自立すべくして自立したものといわねばならない。自立せざるを得なかった幾多の理由があったのである。
信君・不白斉梅雪の不慮の遭難により、穴山領は河内のみとなり天正15年6月、信君の子勝千代の死によって家断絶し河内は徳川家康の臣菅沼藤蔵定政の領となった。
  
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