第四章 近世第一節 天領下の村の概況(市川代官支配)甲斐の国は、天正10年(1582)武田氏が天目山に亡び、その後を受けた織田信長もまた本能寺に滅んだあと、徳川家康の支配するところとなり、更に天正19年には加藤光泰が、また、文禄2年(1592)には浅野長政、長継の親子が更に受けつぎ、慶長5年(1600)家康が再び直領とするまでの18年の間めまぐるしく変転し、支配者の交替がくりかえされた。このような中で、本町は中世末期河内領の再支配者穴山氏の断絶後は徳川氏へと受けつがれてその支配下におかれた。甲斐国志によると「一、河内領梅雪斉横死ノ後其男勝千代家督シテ本領下山邑ニ治ス(但シ駿河江尻領ハ除之ト見エタリ)、天正十五年六月勝千代夭折シテ無嗣収公セラル其跡ハ菅沼藤蔵定政ニ賜フ但シ慶長ノ改メ九千石余ノ地ナリ(以下略)」とみえる。すなわち穴山梅雪が山城の宇治田原に客死の後男勝千代が跡を継ぎ下山にて支配したのであるが天正15年6月勝千代が病のために16歳にて逝去し嗣ぐものが無かったので家康はこれを没収して家臣の菅沼藤蔵定政に与えたのである。代りに秋山夫人の生んだ万千代(信吉)に武田の姓を名乗らせ水戸25万石を加封したのであるが慶長8年9月21歳で病没し穴山領は完全に家康の支配下に入ったのである。この年家康は直領である甲斐25万石を八男義直にゆずり、以来2代将軍の次男忠長、3代将軍家光の次男綱重、その長男綱豊と親藩制をとったが、綱豊が6代将軍として幕府入りしたあと宝永2年(1705)柳沢氏が受封、吉保、吉里と大名支配の管下に入ったのである。この模様は次表の通りである。
代官所はこれは陣屋と称して、はじめは甲府、上飯田、石和の地区にそれぞれ建てられたが天明9年(1789)上飯田の陣屋が廃止されて代って市川大門に寛政6年(1794)市川陣屋が設けられ本町の属する河内領はすべてこの管轄下におかれた。明和元年(1764)最初に駿府紺屋町陣屋市川出張所に来任した代官は、小田切新五郎で以下次の通りである。
さてこのような天領下における村々の姿を甲斐国志から眺めてみると、その提要部の河内領に 「山長地広シ澗中僻居シ山ヲ焼キ雑穀ヲ種ウ水田少ク民衆シ」とあり、本町の立地する河内領全般に山村的要素の極めて強いことがうかがえる。 また甲斐国志巻五十一には 〇東西河内領ニ苅生畑ト云コト多シ字或ハ苅立ニ作リ又草里畑トモ云曽利沢里草履ナドト書ク地名ニモ称セリ山側草 ![]() 当時の村柄を国志村里部から眺めてみると次のとおりである。 甲斐国志巻十六 巨摩郡西河内領 〇粟倉村 上粟倉・大石野・小原島 一 高百石壱斗壱升八合 戸五拾一
〇下山村 杉山・山額・新町・大庭 一 高七百七拾三石八升四合 戸三百八拾四
駿州路の伝馬宿ナリ切石、八日市場ヨリ十五日代リニ逓送ス南ハ南部宿へ四里拾五町身延山壱里許富士川ノ東ハ八木沢村ニ対ス本村ハ古へ穴山氏の城下ナリ古蹟部ニ委シ昔ハ本宿新宿ト云今ノ新町ナリ勝千代ノ文書ニ通ヲ蔵ム駅役ノ事ナリ、
〇波木井村一 高百九拾九石三斗一升三合 戸百弐拾五
北ハ下山村ヨリ壱里半身延山ノ東壱里ニアリ富士川の東ハ丸滝村へ弐拾町、以下数村南部の御牧ナリ
〇大野村一 高六十五石六斗九升参合 外ニ四拾九石弐斗弐合本遠寺領戸口別記 戸拾三
波木井ノ南弐拾四町ニ在リ波木井川ノ南岸ニ小阪アリ栢坂ト名ツク正徳中此山ヲ鑿テ渠ヲ作ル長九拾三間、山畠尽ク稲田トナレリ其功ヲ嘉シテ今公役ヲ給フ日蓮ノ書ニ南部ノ内飯野御牧トアルハ即此処ナリト云
〇梅平村一 高弐百拾石八斗八升今本遠寺領トナル大野村ノ西拾五町ニアリ仏寺郡ニ詳ニセリ慶長郷村帳ニモ同高ナリ 〇小田船原村 一 高百六石八斗七升九合 戸弐拾八
東ハ大野村西ハ大城村へ各壱里身延ノ南拾弐三町ニ在リ村内大蔵沢ヲ隔テ北ヲ船原村ト云ヒ南ヲ小田村ト云フ慶長郷村帳ニ五拾七石五斗四升船原村 五石七斗五升小田村トアリ
〇門野村一 高四拾四石七斗四升五合 戸弐拾五
小田船原ノ西拾五六町ニ在リ大城川ノ南相又村ニ界フ駿州阿部郡ヘノ間道アリ大城ヨリ国界マデ三里其ヨリ弐里ニシテ三河内ニ出ツ温泉アル処ナリ
〇大城村 湯ノ平一 高六拾石六斗九升九合 戸四拾七
門野ノ西南ニ在リ西北ハ赤沢山界ナリ当村門野村ト一村ノ如ク称シテ里正モ隔年ニ役ス
〇相又村一 高百七拾三石三斗五升七合 戸六拾八
小田船原ヨリ拾弐町駿州路ナリ南ハ横根村ヘ拾町榧木阪ト云アリ東ハ清子村ヘ一嶺ヲ隔ツ西ハ駿州ノ界山続キナリ日蓮ノ書ニ所謂奈須禰沢トハ此地ナリト云相又川北流シテ大城川ニ注ギ波木井川トナルニ水相合シテ又ヲナス因テ村名ヲ得ルカ古ヘ又俣ニ作ル今ハ又ノ字ニ作ル
〇横根村一 高弐拾壱石壱斗四升四合 戸拾七
一 高三拾六石四斗四升八合 戸三拾弐
右二村ハ里正ヲ兼帯シ横根中村ト称シテ一村ノ如ク境界相交レリ駿州路ナリ中野村ヘ通ス
〇清子村一 高八拾六石五斗八合 戸七拾
大野村ノ南壱里東ハ富士川ヲ帯フ南ハ光子沢ヘ拾町許
〇光子沢村 谷津 長畑一 高五拾弐石九斗二升四合 戸弐拾七
西ハ相又、横根、中村各山頂ヲ以テ界フ中村ヘハ九町ナリ
〇上八木沢村甲斐国志巻六十七 八代郡東河内領 一 高九拾四石四斗五升七合 戸三拾六
波高島ノ南ニ在リ東ハ下部ヘ三拾町余西河内領下山ニ対セリ 〇下八木沢村 一 高六拾九石弐斗弐升壱合 戸三拾三
上八木沢ノ続キナリ慶長郷村帳ニハ上下一村五拾八石五斗弐升ノ高ナリ
〇帯金村一 高弐百八拾九石弐斗五升三合 戸百四拾壱
南北ハ下八木沢ヨリ丸滝マテ堺内三拾六町拾六間東西八拾三町六間東河内ノ一殷邑ニシテ六組ノ一魁ナリ金礦アリ因テ村名トナルカ
〇大垈村 川向(本村ノ北壱里ニアリ桃ゲ窪ヘ近シ)一 高弐拾壱石七斗五升九合 戸弐拾六
桃ヶ窪ヨリ壱里下部ノ南ニ当ル東ハ御林山佐野山続キナリ
〇椿草里村一 高弐拾四定五升九合 戸拾五
大岱ノ南弐拾四五町ニ在リ凡ソ方弐里ニ余ル野山ナリ、大岱、大崩二村亦同シ按ニ椿草里ハ山茶(ツバキ)アル所ニ焼畑ヲ開墾セル故ヲ以テ村名トナレルカ曽理畑ノ事ハ古蹟部ニ付記セリ
〇大崩村一 高弐拾石六斗九升六合 戸拾四
椿草里ノ南壱里許リニ在リ以上三村佐野山ノ御林ヲ衛ス帯金、丸滝ノ東ナリ
〇丸滝村 桜井 外ノ屋敷一 高六拾九石四合 戸四拾弐
帯金ヨリ角打マテ堺内拾町駿州路ナリ本村ニ滝アリ村名云ニ因ル
〇角打村 上行原一 高百三石七斗七升弐合 戸三拾四
堺内拾弐町南ハ和田村ナリ
〇和田村一 高百七拾九石六斗弐升弐合 戸八拾
角打ヨリ大島マテ堺内拾弐三町東ハ御林山村持山等ナリ
〇樋之上村一 高拾五石弐斗五升壱合 戸九
和田、大島ノ東拾町余ニ在リ以上拾三村帯金組ナリ慶長郷村帖ニ壱石五斗六升日ノ上村トアリ
〇大島村一 高三百五拾壱石三升九合 戸百拾壱
和田ノ南ニ在リ東ハ佐野嶺ナリ佐野ノ枝村小草里ト云処ニ下ル駿州ノ通路ハ南ノ方内船村ヘ到ル凡五拾町ナリ以下六村大島組ト云
けだし当時の村は政治上の単位であると同時に納税上の単位であったから村高の経緯は非常に重要な問題点をもっていた。 いま江戸中期宝暦6年(1756)の甲斐の国三郡郷村帳による村柄を比較してみると上の表のようになる。 この結果A〜Dの四クラスのうち1000石以上の大村は東西を通じて河内領にはなく100石以下の小村が圧倒的に集中していることがわかる。本町関係では500石以上のBクラスに僅かに下山村が入っているのみであり他はCDクラスで23ヵ村の内14ヵ村が100石以下の小村で河内全般がそうであるように石高の低い村柄であることが窺(うかが)える。 これは江戸時代を通じて政治、経済上の一つの特色であり本町などの村の様相を眺める場合に見逃してはならない問題点であろう。 |