第二節 検地と貢租の実情耕地の状況調査は古代から行なわれたが、中世荘園には、検注(けんちゅう)(土地調査)が行なわれ、また、鎌倉時代には土地の帳簿である太田文(おおたふみ)が作成された。戦国大名らは分国の領主権を確定し、財政的基礎を明らかにするため検地を実施した。信長・秀吉は一つの地方を征服するとまずその大名領地の与奪権をその手に収めた。信長の場合は、その押収した領土全部を、勲功のあった部下に分ち与えるものを普通としたが秀吉の場合は、その一部を与え、家を存続して残されることもあったし、また他の地方に移らせることもあった。こうして領地をあてがわれた大名は、さらにそれを自分の家臣に分ち与え、つまり家臣を平常養っておき、一朝有事の場合には、家臣は、またその部下まで率いて軍役に従い、主家のために働いた。また平時には築城のこと、その他土木事業の手伝いなどをする義務を負わされた。こうしたことが全国におよぼされて、信長が滅びて後は秀吉の下に、諸大名は残らずこの制度に統制されて服することになった。こうなるとこれが公の制度となって、大名の知行制度というものが確立されたのである。この知行制度も統制方法もみな家康にうけつがれて益々強化された。こうして知行制度が行なわれると、第一に大事なことは土地制度の確立でなければならない。このために戦国大名が競って自己領土内の実測、すなわち検地を行なったのである。織田信長は天下統一を進めるため永禄11年(1568)の上洛直後、近江(滋賀県)に指出(さしだし)(土地目録)の徴集を行なった。また検地を組織的に全国におよぼしたのは豊臣秀吉で、これを太閣検地とよぶ。この結果それまで領主や地域によって別々であった検地の基準は、6尺3寸(約208センチメートル)四方を1歩、300歩が1段となり、玄米の収穫量(石盛)によって土地を表示する石高制に統一され、荘園制は完全に消滅した。江戸幕府は太閣検地を原則的には踏襲しながらも6尺1分(約198センチメートル)を1歩とし、初期には代官頭伊奈忠次(備前検地)大久保長安(石見検地)彦坂元正らが各自の方法によって実施した。慶安2年(1649)に検地条令が出され、享保11年(1726)には従来の条目を取捨して、新たに新田検地条目が制定され、幕府の検地基準が完成した。その後享保以前の検地を古検、以後を新検とよんだ。検地は春の麦刈りの後と、秋の稲刈りの後に行なわれ、はじめ指出によったがのちには検地役人(代官、手付、手代など)が現地におもむき測量した。方法は周囲の土地の状況を調べ、四すみに細見竹を立てて目標とし、間に麻製の水縄を帳り、間竿(けんざお)(検地竿)によって実測した。この結果田畑の広さを野帳にしるし、それにもとづき土地台帳(検地帳)が作成された。検地帳は水帳、御縄打帳ともいい村ごとに作成され、土地の所在地、田畑、屋敷の区別、品位別の集計と石高が明記されている。検地帳に記載された農民は、耕作権を公認された本百姓(ほんびゃくしょう)(高持百姓)であるが、初期には誰某(だれそれ)分と肩書のある分付(ぶんつけ)百姓(本百姓のれいぞく百姓)が存在した。検地により、幕府、諸藩は領内の農業生産の全貌(ぼう)を知り直接農民を支配することができた。しかし財政収入の基礎としたために、きびしくなりすぎたり、また検地の際の収入の不正や、増税に対する農民の反対運動がしきりに起ったのである。本県では天正検地の資料は今は不詳となってしまったが、その後天正18年(1590)幕府の命によって、伊奈熊蔵家次が検地をして熊蔵検地として知られている。次いで文禄3年(1594)から慶長4年(1599)の間に浅野弾正長政が甲斐領主の際に検地して、今までの貫高を石高に改めた。この時の検地は弾正縄ともよばれている。貫というのは永禄銭1貫のことで、その換算の割合は1貫につき米5石(約902リットル)に決められたのであった。越えて慶長6年(1621)家康の命により、平岩主計頭親吉が城代の時、奉行大久保石見守長安に命じて、山梨・八代・巨摩の3郡(国内)を検地し、高21万9767石3斗9升1合と決めたが、これが慶長の検地で大久保縄ともよばれている。その後貞享・元禄・文化・慶応など藩政時代には数回の検地が行なわれ、その都度耕地面積は増して、貢米の量も増加した。寛文時代の村内水帳のうち2村だけ掲げ参考に供することにする。 〇甲州河内領波木井村御検地水帳
(八冊之内壱番だけは散佚)
田畑合三町二反八畝拾七歩
わ け 上田 一町七畝九歩 中田 一町二反六畝廿一歩 下田 五反九畝廿三歩 下々田 三反三畝廿七歩 田 三町二反七畝廿歩 下畑 二十七歩 以上 二百三十二口分
一、石盛り石もりの法は、田畑の肥痩により、上・中・下・下下に分け、上田1石5斗(注、1石はおよそ180リットル)、中田1石3斗、下田1石1斗、上畑1石2斗、中畑1石、下畑8斗、屋敷1石2斗、下下田、下々畑、山畑、野畑など見計らいで斗数を定めた。二、検見検地によって貢租の基準が定まれば、それに租率を乗じて、租米が定められた。幕府領地は五公五民が多く、大名領は(藩領)は一般にそれより高率で、六公四民、七公三民のところもあったといわれる。この租率は、毎年の作柄を判定する検見によってきめられるのであった。もし検地した後で洪水などのために収穫が減ったり、田畑が荒されて耕作できなくなった場合は、その分を差引くこともあり、また、新な田畑が増加したりすればこれを加えもして年々の豊凶によって加減した。このように年々の実収によって租率を定めるのを検見法または見取法といった。検見は代官が行なうのを大検見といい、手代が行なうのが小検見であった。三、割付目録と皆済目録検地、検見に基づいては村別の貢租が定まると、代官所から村役人を通じて割付状が交付される。割付状には割付基準が細かく示されてあるので、村役人は個人別に割付を行ない、貢租が上納されると皆済目録を代官所から百姓に下付された。 |