第四節 下山宿

 戦国時代の大名によって、戦力増強を主目的に強力に整備された街道、いわゆる交通路の1つに河内路があるが、これは駿州往還とも呼ばれ富士川沿いに発達した交通路である。従って、駿河から甲斐の府中間における物資の交流に利用された重要幹線道路なのである。その河内路は鰍沢村、切石村、八日市場、下山村、南部村、万沢村等の道筋からなり、ともに宿場問屋のおかれた地である。なかでも下山は、河内のほぼ中心にあたり、河内路の重要拠点として、軍事的に経済的に交通の要所であったといわれ、下山宿が設定されて以後、名まえもそのように呼ばれるようになった。そして江戸時代にはいると、幕藩体制がととのうようになり、幕府は公用の旅行者のために新しく宿制を定め、宿泊場所や、荷物輸送をさせるために伝馬や助郷を定めた。
 下山宿にも先に述べた宿場問屋と同様、宝永2年(1705)の引渡目録によると、伝馬宿がおかれたとあるが、河内路は通行人が少ないため助郷にたよったといわれる。その助郷は宿場の仕事で、伝馬の諸徭役(ようえき)を助成する部落をいい、大規模の輸送の場合は、宿場だけでは間に合わないので臨時の助郷に割りつけたという。このように助郷によって、リレー式に宿場から宿場へ荷物が輸送されたのである。
 下山宿の場合には、宝永2年の引継帳に次のように定められている。定期(常置)栗倉大助郷(臨時)波木井・大野・清子・小田船原・小縄・高住・赤沢・大島・雨畑の10ヵ村となっている。また、この定助・大助郷はともに助郷として、大体100名につき2人2匹で課され、他の公役を免除されていたということである。なお、その他諸役免除となっていた者に役引大工と称して、地方に14人おり、下山村にはそのうち2人いたということで、役引き高が7石余あり、公用の通行には伝馬1匹ずつ下されることになっていた。これら役引大工は当時重い家柄を誇り、権勢をふるったといわれている。一方、作間大工、あるいは百姓大工と自ら称して、農閑期の出かせぎもあり、実際には、大工の収入が百姓よりずっとよかったので、だんだん大工が主になり、盆・正月にだけ帰村し、農業は女衆まかせになったといわれる。文化年間の記録では、下山村の男831人中大工の数は204人、さらに10余年たった文政6年には、大工の数308人に増え、働ける男の8割は大工で村の大多数を占めるようになった。
 このように河内地方に大工の職人が多かったのは、耕地も狭く、生計困難でもあったことが第一の理由であるとされている。しかし、下山大工は、当時量的にも質的にも大きい勢力であったことは事実である。さて、宿制による掟はこれまた厳しく、伝馬を勤めない者はたとえ奉公人でも厳重に処断された。さらに宿中のことについては、一切伝馬衆の支配にまかせる旨を認めており、もしこれに異議のあった場合には、家財名田ともに取り上げてしまうという厳しさがあり、村民はこの伝馬の徭役に苦しんだのである。従って伝馬の宿制には保護規制があり厳重そのものであったことがわかる。だが一面には、伝馬を維持経営するために、宿の繁栄を目的として市場を開設させ、商人の往来を歓迎している。なおここで、ふれておかなければならないことは、宿村における定助郷の人足賃銭のことである。河内路は難所も多く、諸荷物は分け荷とされ、ふつうの人足1人の場合は3人宛、馬1疋の時は2匹から3匹を出して継ぎ立てねばならず、その結果、宿村方でこの諸懸りを弁金して間に合わせるという苦しい状況であったといわれる。
 甲斐国志によれば、助郷への人足賃銭は1人につき、南部・下山間4里拾5町(16.4キロメートル)129文とされており、その割増賃銭の願い出が宿村方から再三出されたのにもかかわらず、それが認められず、ついに御定賃銭は変らなかったということである。従って、宿場問屋を通じての村の生活状況は恵まれていたとはいえない。