第五節 下山大工について

一、下山大工の起源

 戦国以来その名を知られた下山大工の発祥の歴史については、なお今後の研究にまたねばならないのであるが、下山石川武重家には、日蓮聖人の入滅(1282)後、六老僧の1人日興上人が身延を去り駿河に赴(おもむ)く際、同家の先祖が同行し上人のため「六坪の間」を造作したのに始まると語り継がれており、既に南部氏・下山氏の河内地域居住の歴史も長く、日蓮聖人生前、かなり大規模な堂宇の建立もなされているので、上記伝承と併せ考えれば、河内における建築術の歴史は鎌倉時代初期から中期の頃に南部氏・下山氏・諸社寺造営等を社会的背景として出発したものと思われる。
 良材の得易いこと、耕地の狭小等の自然的・社会的要因も下山大工発展の要因となったことは戦国、江戸期の文献からよく知り得る。

二、穴山氏と下山大工

 穴山信友、信君父子の河内地域における山作り、竹作り、信君の用材下命、大工番匠の保護統制については第三章第五節に述べた通りであるが、永録・元亀・天正年間の信君の厚い保護統制の下に下山大工を中心とする河内大工の大規模な固い団結が形成されたのであった。この内容は統治者の必要性と密着した「座」であった。信君文書によると永録6年(1563)源三左衛門が「当谷中番匠」の支配統制を信君から命じられているが、信君文書には石河弥左衛門尉源三、与十郎等の名が見える。また同文書から河内大工、番匠は甲駿各地で活動していたことが知られる。
 天正15年(1587)穴山氏絶家後も徳川、羽柴統治の下で下山大工番匠の「座」は変化なく継続された、甲斐国志百一人物部付録大工幸内所蔵文書の

 は天正19年(1591)に甲斐を領した羽柴秀勝の部下が出したもので源蔵は源三左衛門の子と思われる。

三、江戸時代の下山大工の動向

 江戸時代に入ると下山大工の活動は時とともに盛んとなり、文書・棟札・建造物等も増加してくる。
 文化3年(1806)から編纂(さん)を始め文化11年(1814)に完成した甲斐国志の資料として下山大工石川久左衛門・竹下幸内の両名が穴山氏時代の両家に係わる信君文書の写しを提出しているが、これによると当時由緒により役引職人であった者は、甲斐国全体で153人でありこのうち大工は14人であって下山に前記の2名があった。
 大工は諸役引職のなかで他職に「勝れたる職」として保護された。その大要は

 というものであったが、この特権は後にみる三郡出入り文書にもみられるように、「御役」以外の仕事においても、自然、大きな力となって作用したのである。
 役引大工14家のうち江戸時代から明治におよぶまで現実に大工職を継続した家は下山の2家のみであった。
 なお役引職家のおこりは、武田氏・穴山氏の保護からおこり、両氏滅亡後は甲斐統治者によって引き続き承認されたものであり、国志編纂(さん)より100年も以前に家職をやめた家では役引大工の特権を有しながら、国役が下命されると、他人を頼んで責任を果たすという具合であった。
 巨摩・八代・山梨3郡の大工は甲府の内大工と違って、百姓大工・作間大工と自ら称したが、これは農業生産の弱さの中から生まれた「在方大工」の性格をよく示し、それだけに生計上重要な職業であったことがわかる。河内の場合は特にしかりで大工文書にこの事情を頻(ひん)繁に記している。生計上の必要性と長い時代の積み重ねとは河内大工の高い技術の維持発展に大きな役割りを持ったと思われる。

四、三郡出入り

 宝永元年(1704)から天明元年(1781)にいたる約80年間、下山大工の2派による村内および3郡大工の支配権をめぐっての激しい抗争があった。
 六代将軍家宣が宝永元年、芝に白銀御殿を造営した時、その棟梁を争ったのは、下山大工の石川久左衛門と石川五左衛門の2人であった。
 この争いは結局五左衛門が勝って棟梁となっているが、これに端を発して以後両派の対立抗争は何代も続くのである。
 五左衛門と久左衛門は墓地も同じ下山浄福寺にあり、家紋(丸に五本骨扇)も同じであり、一族と思われる。
 宝暦5年(1755)代々役引き大工の権威を誇る竹下幸内、石川久左衛門一派の統制を脱しようとする村内40名の大工達は、儀右衛門・勘兵衛・作之丞・権兵衛等を中心に、病気・他出を理由として太子講を欠席した。幸内・久左衛門側は当時140、50名あった下山大工の絶対多数を占める82名の勢力を擁して、甲村勤番に反対派の行動を仕方違反として訴え、主謀者である前記4人の大工道具を差し押えたばかりか、国中に4人の者に仕事をさせぬように申し触れて反対気運の圧殺をはかったのである。
 両派のほか中立派も多少あったが何といっても穴山氏以来の由緒と伝統による役引き大工の特権をもつ幸内、久左衛門派の勢力は強力なものであった。これに対し儀右衛門ら反対派も新たに太子講をつくり上飯田役所に訴えて対抗したが、役所は双方の訴えを却下して取り上げなかった。
 しかし翌宝暦6年には幸内側が訴えに勝って、由緒と村内大工支配を認められた。
 その後も反幸内派は大石寺派の五左衛門とその弟与左衛門を中心として市川代官所、上飯田、甲府代官所等に訴え続けたが、甲府代官中井清太夫は幸内一派に味方してこれを却下したのである。
 幸内、久左衛門派は下山大工のみならず巨摩・八代・山梨3郡の大工をその支配下におさめ三郡棟梁権を主張するに至ったので、五左衛門と与左衛門の2人は遂に安永8年(1779)2月、江戸に行き幕府の評定所へ出訴し幸内らの三郡棟梁権停止を訴えた。
 しかしことの内容にかかわらず、これは国元の役所を経由せぬ「越訴」であるとの理由で6月両名は宿あずかりとなり、訴状は焼き捨てられた。
 止むなく両名は一旦帰国したが、漸く強まった反幸内派気運を力とし、天明元年(1781)には下山大工の圧倒的多数を占める147名の賛成連判をもって長文の訴状を作り、11月再び江戸に赴(おもむ)き、上野山下三枚橋において時の老中松平周防守康福に駕籠訴を行なったのであった。この訴状には、由緒と棟梁とは関係がないこと、三郡棟梁などの権利を役引大工の幸内・久左衛門に認めたような現状は色々と不都合の原因となっていることなどを述べている。
 これも前回同様越訴であったため、五左衛門等は訴訟の継続にすこぶる困難したが、結局幸内・久左衛門の三郡棟梁権は認められないことになり目的を達したのである。
 この三郡出入りは歴史的に見ると、穴山氏の下で絶対的ともいうべき役引き大工竹下石川(久左衛門)両家の権威と支配が時代とともに許されなくなり、新興勢力ともいうべき実力派が抬頭し、古い特権に挑戦して行く姿が見られるのである。
 駕籠訴の訴状の中に、由緒による特権の不当をしきりにのべていることからも、この事情が推察できる。このような内部抗争をくりかえしつつも、下山大工の勢力は時とともに盛んになって行くのである。

五、職業出入り

 文政6年(1823)から文政9年の間における、甲府町方大工と、下山村重左衛門と樋田村(下部町)仲右衛門とを惣代とする在方大工との、甲府々内の大工仕事に関する激しい争いを職業出入りと呼んでいるが、この町方、在方大工の対立はすでに宝歴年間からのものであった。文政6年(1823)甲府町方大工側から出された文書に、「他国及び在方より大工多数府内にまぎれこみ、所定の賃銀を守らぬので宝暦年中(1751−63)、府内においては規定の賃銀を守るべき達しを出してあるにもかかわらず近来乱れて来たので」とあり両者の対立が宝暦年間からのものであることがわかる。
 安永7年(1778)8月、甲府町方大工は、冥加金(みょうがきん)も出さぬ在方大工が安い賃銀作料で府内の大工仕事を請負うため渡世(とせい)に困るので在方大工の府中入り込みを禁じてくれるよう勤番支配に訴えた。これに対し翌8年6月在方惣代下山村定右衛門・金左衛門・勝之丞の3名が勤番支配、松平下野守忠孝、渡辺図書頭貞綱に対して町方に対抗する訴えを起して勝ち、町方の訴えは九月却下された。
 ところが両派の対立は約半世紀後の文政6年(1823)、再び町方からの訴えによって再燃し、在方は上記重左衛門、仲右衛門を中心として固く結束して町方に対抗したのであった。すなわち、文政6年9月、甲府城勤番支配、鍋島伊予守直正・酒井大隅守忠脩は町方大工の訴えを聞き入れ、山本・坂田・山本の3町年寄に命じ「町内は申すに及ばず、寺社門前、町家末々に至るまで急度申し渡すべきこと」として次の内容の文書を発した。
 他国及び在方大工は今後府内で職分いたす場合は府内役引大工に届けて傭(やと)わるべきこと。傭(やとい)方側も同様のこと。これを守らず後日それが知られた時は吟味の上、過料を申しつける。
 他国と在方大工を統制し、引いてはこれを府内から締め出そうとした町方大工の長年の希望はこれで達せられたかに見えた。
 しかしこれに対し在方大工はこの触書(ふれがき)が出た翌10月下山大工308名を中核として河内大工1,514名が一つの組織としてまとまり対甲府大工との争いに立ち向い、そのための経費分担を誓い合った。そして12月、下山外135ヵ村大工946人惣代として下山村重左衛門・若右衛門は上記触書きの撤廃方を市川代官所を通じて甲府勤番へ訴えた。翌文政7年2月には巨摩・八代両郡大工909人の惣代として下山村重左衛門・樋田村仲右衛門は、下山村名主利兵衛・樋田村名主元之助の連印を加えた訴状を市川代官所を通じて甲府勤番へ訴えたがすでに触流したことであり、安永年間の松平下野守の決はやむなく府内役引大工及び平大工の「重立ち候者」に在方大工に対する前記の出願を取り下げてくれるような交渉に及んだが、もとより町方が応ずる訳はなかった。そこで文政7年の6月遂に在方大工は最後の手段として重左衛門・仲右衛門を巨摩・八代909人の惣代として江戸に送り込み、甲府役引大工久保町茂兵衛・横田町次左衛門、一蓮寺町友衛門等5人と平大工金手町森蔵・愛宕町友兵衛等15人計20人を相手どり幕府勘定奉行曽我豊後守に「安永年度の決定の通りに、数百年来の仕来り」である権利承認方を出訴し、その取調べ中更に老中水野出羽守忠成に駕籠訴をした。このため両派は勘定奉行において吟味をうけた結果、「此の上吟味うけ奉り候ては何様に成行き候やはかり難き」状態となったため、双方立入り人を立てて和解することとなった。
 こうして文政9年(1826)町方は魚町・緑町の名主・西一条町・三日町の町人等6人立入人となり在方125ヵ村大工惣代・重左衛門・文蔵・仲右衛門あての和解文書を手交した。在方差添人は下山の名主佐兵衛であった。この時の「為執替申議定書之事」の内容は「無宿大工は除き、三郡大工、町方大工ともども入り交り相稼ぎむつまじく渡世すること、今後大工職に関する新規の願いは、在町一統相談の上役所へお願いすること」という内容のものであった。巨摩・八代・山梨3郡の在方大工の多年の努力がここに実を結んだのであった。多年にわたるこの紛争の費用は三郡大工職から拠出された。
 この事件の歴史的意義は三郡出入りと関連して考えねばならない。両事件とも、武田氏、穴山氏以来の旧権力を保持しようとする側とこれを打破しようとする新興の大工勢力側との対立であり、両問題ともほぼ時を同じくして表面化したのであるが、甲府町方対在方の点で自然職業出入りの方が解決がおくれたのである。職業出入りを通じて職業意識と団結の進歩が顕著にみられる。

六、大工仕法

 年不明の「府中大工定書」の前書きに、「大工仲間は町在一同に古来より御国法御座候に付き…中略…御城下大工法式の通り相済まし候」とあり、内容は10ヵ条からなっている。文化年間のものと比べると簡素である。大工式法・仕法・定書・作法と呼ばれたものは又太子講定書とも呼ばれ、府内・在方各太子講加入者団体の規範であって、在・町ほとんど同文である。各仕法に共通して
(一)公儀法度を守り、職分御用の節は一統協力して任務を果たすこと。年貢等怠らぬこと。見苦しき態に及ばぬこと。孝養敬老、幼を憐むこと。勝負事に交わらぬこと。酒色にふけらぬこと。
(二)不当な競争をしないこと。公正な入札を行ない、落札者は札金一割を入札仲間へはらうこと。作料を守ること。請負不可の相手。
(三)施主や仲間との争い事。職法に障る訴訟は理のある方へ応援すべきこと。
(四)弟子の年期について。
(五)仲間の意見の対立は太子講の場でのべ仲間内で解決すること。年二度の太子講に参会すること。
(六)仕法違反者は道具を取りあげ職業さしとめること。
 等の現在にも活用しうる幾多の内容がみられて興味深いものがある。
 下山大工太子講の歴史をみると宝暦5年(1755)前記三郡出入りの発端期に従来の幸内・久左衛門派に対して儀右衛門等によって作られたのが文献的には一番古いが幸内派の講は更に古い筈である。またこの時中立の「中ノ棒組」もあった。
 文化4年(1807)7月、下山太子講を中心として河内諸村の大工代表者連印の「大工仕法之事」が「古法の箇条書き友調べに相調べ古法相続」のために定められた。内容は20ヵ条である。この時中心となったのは下山村五左衛門・文蔵・伝右衛門・七郎左衛門等であった。翌文化5年竹下幸内・石川久左衛門組太子講仕法が「古法」のように定められた。18ヵ条から成り下山大工70名、下山以外の河内大工15名が連判した。更に文化6年正月の「万年太子講」の「定」には下山大工206名の名が連ねられているがこのうち捺印しているのは165名である。幸内・久左衛門は名はあるが印がない。206名は村内全部大工の名を記したものと思われる。印のない者はこの太子講に加入しなかったものであろう。無印41名である。連印者の中に五左衛門・与一左衛門・七郎左衛門の名がありこの太子講は三郡出入りの際の五左衛門組が中心であったと思われる。同じ組の前記文化4年の「大工仕法之事」が広く河内全域の大工代表者連印であるのに対しこれは村内大工の結果の目的をもった講であり「定」であったと思われる。内容27ヵ条でほとんど内容の同じ各種の大工作法の中で最も整ったものである。
 なお甲府町方大工惣代、下山大工惣代ともにそれぞれ甲府・市川代官所からの求めに応じ、しばしば「大工式法」や作料の旧例やその時の現況を報告している。古いものでは宝暦5年(1755)甲府上飯田代官の上倉彦左衛門に対する式法提出、安永7年(1778)甲府代官、中井清太夫に対する式法提出などの例があり、それぞれ、承認されている。作料については文化7年(1810)5月下山政五郎・惣助・喜内から、文化7年8月には久左衛門・幸内・政五郎・惣助・喜内5人から、ともに市川代官所へ「御糺(ただ)しにつき」大工作料の儀を申告している。8月提出のものには3郡諸村の代表者も久左衛門以下に名を連ねている。これ等によると甲州大工作料は古来1分2朱が仕来りであるが現状はそれを上下する額で相対に済ましているとなっている。各派太子講や在町対立の歴史を経過しながらもなお共通の「仕法」「作料」をもって活動を続けた「甲州大工仲間」の社会史的、文化史的意義は大なるものがあるといえよう。
 下山大工の人数についての記録をみると、宝暦6年(1756)竹下幸内・石川久左衛門両名が甲府上飯田代官、上倉彦左衛門に提出した、巨摩・八代・山梨3郡棟梁たるべき願上げに「当村大工仲間百拾三軒ならびに弟子弐百五・六拾人、師弟およそ四百人」とあり弟子を除いた大工数は140、50人となり、約50年後の文化6年(1809)の前記万年太子講には206名が書きあげられている。それから14年後の文政6年(1822)の職業出入り訴状人別帳では下山村大工308名でうち大庭町が最も多く70名、本町67名大工町50名という具合である。この年河内大工は1,054人であった。人数やその団結、その他から下山大工の全盛時代は文化文政年間(1804〜30)のころであったと思われる。甲斐国志編纂(さん)のための文化初頭の下山村書き上げは戸数384、人口1,662、うち男832、女830であったが人口数のほぼ固定していたこの時代であったので宝暦ころは商業男子の4−5割、文政年間には7−8割が大工であったと思われる。

七、匠(しょう)家雛(ひな)形増補初心伝六巻

 文化年間から堂宮建築における大工必修書として全国的に流布(るふ)されたこの図解入り技術書は、石川五左衛門系の石川七郎左衛門重甫(すけ)の著述で文化9年(1812)刊行されたもので明治になってからも刊行されている。その原本と考えられるものが九左衛門系の甲府市石川安衛家に伝わっている。増補初心伝は塩山市石川孝重、本町下山石川武重、下山本国寺に蔵されている。いわば下山大工の技術の結晶ともいうべきものである。甲州流といわれる堂宮建築手法はこの技術書との関連が大であるとされている。石川重甫は文政元年(1818)作の南松院の山門額では石川七郎左衛門源重甫、享和2年(1802)の金桜神社神楽殿再建設計図では源重象と称し石川孝重家の石川政五郎(石川外記源共重)肖像画裏書きでは源重郷と称している。肖像画裏書きは
 「倅七郎左衛門、存生之面躰を写置、長子孫ニ父大徳を為請也、善光寺建立其外諸々建物多し、御岳山神楽殿中端ニシテ御嶽山作事場ニて卒死六十五歳、神楽殿ハ伜七郎左衛門建立…源重郷」というものである。
 七郎左衛門はまた彫刻の名手でもありその作品は一段と光彩を放っている。


八、小沢一仙斉のこと、あとがき

 慶応4年、(1868、9月明治と改元)2月3日、皇太后宮小進高松実村を甲州鎮撫、甲府城受取りの勅使とし、その御後見役として京都からの長旅をつづけて来た小沢雅楽助一行が甲府に乗りこんで、城代佐藤駿河守以下なす所を知らずの困惑狼狽に陥ったいわゆる「偽(にせ)勅使事件」は結局雅楽助一仙の処刑、高松実村の帰京で幕となったのであるがこの事件の演出者である一仙は出身は伊豆の那賀郡で下山大工との関係のおこりは不詳(しょう)であるがこの年3月14日年39で刑せられた。
 彫刻の名手として下山大工と行をともにしていた。墓は下山常福寺にあり、明治3年同族小沢半兵衛邦秀が伊豆から供養にきている。維新の際は京都にいたものであろう。石川久左衛門系の石川市作弟分、朝仙院常信日秀として下山に葬られたことはもって瞑(めい)すべきであろう。
 以上、下山大工の歴史について概観したのであるがなお今後の調査が望まれる。
 終りに、国の重要文化財に昭和42年6月指定された藤村記念館(旧睦沢小学校々舎)は明治8年(1875)下山村荒町松木輝殷の手になるものである。
 また明治5年に靖国神社本殿を佐野友次郎が、昭和19年に山梨県護国神社を石川馨が建造しているが、いずれも下山大工の伝統を示す好例であろう。