第五章 近代
第一節 明治の行政改革と山梨県
明治元年(1868)3月12日東海道軍参謀の海江田武次が副総督の命をうけて甲府に入り「今般王政復古真の天領ト被仰出候ニ付追々自朝延御沙汰モ可有之候得共……云々」との告示を発し国事を代理したが、在任わずか11日間で東海道副総督柳原前光と交代した。
柳原前光は、この年8月に甲府・石和・市川の三部代官を廃して三部知事として、鎮撫府(甲府城代を廃して)の統率下においた。
さらに、11月には鎮撫府を廃して甲斐府を置き、甲府・石和・市川の3代官所が郡政局と改められて甲斐府の下につき、府知事に滋野井公寿が任命された。
その後、明治2年7月に甲斐府を廃して甲府県となし、郡政局も廃して本庁に合せられ、さらに田安領(山梨県は幕府の直轄領として山梨・八代・巨摩・都留の四郡合わせて村数780ヵ村、総石高307,587石、総反別34,167町歩であったが、この中に田安家の領地として石高47,961石、反別4,057町歩、村数は山梨・八代・巨摩の3郡合わせて103ヵ村があり現在の山梨市一丁田中に代官所を置いて統治し、天領8割余、私領2割弱の割合であった)も甲府県に合併したのであるが、この合併に際しては、これを望む者と反対するものがあって、この年の10月に「田安騒動」が起ったのである。
さらに、明治4年7月廃藩置県が行なわれ11月には全国に3府72県が誕生したが、このとき甲府県は山梨県と改められ県令に土肥実匡が任命された。
このようにして、維新以来目まぐるしい改革を重ねながらも着々近代化への道を進んだ。
一、大小区制
明治5、6年(1872、1873)は我が国において地租の改正、学制施行、徴兵制、戸籍法など封建制度から近代国家へ脱皮するための大きな制度の改革がなされたのであるが、山梨県においても明治5年1月4郡(巨摩・八代・山梨・都留)を80の区(1区はおよそ1,000戸位)に分け、この区には戸長・副戸長を任命して管下行政の末端組織とし、主として戸籍の事務を行なわせ、さらに、庄屋、名主、年寄の制度を廃するなど旧来の村は、村役人を無視することによって旧弊を打破することにつとめた。
このときの区制は次のとおりである。
山梨郡1区〜第17区
八代郡第1区〜第16区
巨摩郡第1区〜第35区
都留郡第1区〜第12区
本町の場合は、大河内地区が、八代郡第16区に属し、身延・豊岡・下山地区は、巨摩郡第34区に所属して現在の部落単位程度の小村に分かれていた。
明治5年(1872)4月における組織
さらに、この年10月には、従来の正副戸長を廃し、11月各区に正副区長をおき、各村の名主、長百姓の制度を廃しその代り各村に正副戸長をおいた。
因(ちなみ)に区長、戸長の職務をあげれば、
〇区長は、官令を区内各町村の戸長に伝え、祖税・戸籍・徴兵・勧農・教育・救恤・修路・築堤などの事務、事業を督励し、これを県庁に進達具申する。
〇戸長は、1村1人とし、区長から伝達された事項を村内に布(ふ)れて村内を治める。
〇副戸長は、村高100石以下は1人、300石まで2人、500石まで3人、800石まで4人、1,000石まで5人、1,000石以上6人の規準で数が定められた。
明治9年10月には従来の80区を34区に改め、従来郡単位に分けられていたものを全部通し番号に改め、本町においても福居(下山)、身延、豊岡の各村は山梨県18区に、大河内村は19区に編入された。なお、区長、副区長の職務には変りがなく、県と村との中間機関として存在し、その後明治11年(1878)7月郡区町村編成法が制定されるまでこの制度は続いた。
二、徴兵令の制定
維新政府は廃藩置県の成功により、念願であった兵権の集中帰一を実現し、強大な常備軍をつくることもまた可能になった。常備軍こそ官僚制とならぶ天皇制の二大支柱の一つである。
明治4年(1871)兵部省の官制を改革して、陸軍掛りと海軍掛りの分課を明らかにし、また、陸軍参謀局が別局として設けられた。8月旧諸藩の常備兵隊を解散し、東京・大阪・東北(仙台)・鎮西(小倉)の4鎮台を置き、兵は旧藩常備兵から選んだ。
明治5年兵部省を廃して、陸軍省、海軍省に分け、御親兵を近衛兵と改めて、都督が指揮した。初代都督は山県兵部大輔が兼ねたがつづいて西郷隆盛が元師となり、近衛都督を兼ねた。同年11月「全国募兵ノ詔」が発せられ、太政官がその趣旨を「諭告」している。この諭告には、天皇に忠義を尽くすとか、国体を守るためとかの字句は全然見えず、国民は自己を守るために兵役につくとか、自由平等とか、民主主義政権の布告のような字句のみがつらねられている。これは欧州の軍制を研究して、徴兵令制定に当ったものと思われ、徴兵令の規定そのものにも、国家を国民自身が守るという精神は全くない。先ず第1に中央地方の官吏、第2に官公立専門学校生徒の洋学、医学、馬医学等を学ぶ者、すなわち将来官吏あるいは支配者になると予想されるものは兵役を免除し、又代人料270円を納めるものは免除するというように、官吏ないし支配階級、有産階級は兵役を免除されて、国民平等の義務ではなく、被支配階級、無産階級のみの義務であることを示している。
更に 1、戸主 2、嗣子並びに承祖の孫 3、独子独孫 4、父兄に代って家を治める者 5、養子 6、徴兵在役中の者の兄弟を免除している。これは戸(家)の存続を危くする場合は兵役を免除し、兵役が個人に課せられた義務ではなく、戸ごとに壮丁1人を徴する封建的な賦役徴集であることを示している。明治6年従来の4鎮台を廃して、鎮台6、営所14を置き、歩・騎・砲・工・輜重の5科の将兵合計31,690人を平時常備の現役とした。明治6年3月、はじめて東京鎮台下で徴兵令を施行し、漸次全国に及ぼした。明治6年2月、県より県下各区に次の通達が出されている。
各区徴兵に応スベキ数ヲ布達ス曰
此程徴兵ノ儀ニ付御布告の趣相達候処最早近日徴兵使発行可相成積ニ付別紙ノ通区数ニ応シ人員割相示シ候間一家ノ主人嗣子承祖ノ孫独子独孫其他羸弱宿病不具ナルモノヲ除キ当年相当弐拾才ノ者ニシテ身ノ丈五尺一寸曲尺以上強壮兵役ニ堪ユル者毎区抜擢致シ来ル十五日迄ニ書面ヲ以可申立事
右ノ趣至急可触示者也
明治六年二月二日
山梨県権参事 富岡敬明
山梨
八代 郡正副区長
巨摩
別紙に郡区別に人数を指示している。本町関係をみると、
巨摩郡三十四区(旧下山、身延、豊岡地区)高千八百拾七石壱合
一徴兵 一人
八代郡十六区(旧大河内栄村)
高弐千拾九石壱斗五升三合
一徴兵 一人
となっていて当初は村々へは極く僅かの数が割当てられたことは、全将兵で31,690人であることからもうなづかれる。
本町関係では山内椿房蔵の山内友吉の徴兵通知状、歩兵科手牒、辞令その他がある。
で明治10年8月3日に入隊している。
同人はこの褒賞休業を3回受けている。
この褒賞休業で帰郷を申し付けられて、手牒に次のように記入されてい
る。
三月三日
帰郷申付候就テハ左ノ通り下賜候事
一、金弐円二十銭 旅費
一、金二十二銭 手当料
一、略帽 壱個
一、略衣袴 壱通
一、靴 一足
また帰郷については、中隊長より免状が下付され、その内容をみると、休業中は特に陸軍の法令を遵奉し、行状方正たるべし。不品行の聞えある時は免状を奪い併せて休業を止めるものとするとある。
三、地租改正と大小切騒動
(一)地租の改正
明治新政府は、次々に打ち出される新政策を遂行するために絶えず財政難に悩んでいたので安定財源を確保して財政的基礎を固めるために明治5年(1872)地租改正を行なった。
この地租改正は、その後わが国の歩んで行く上にきわめて重要な意義を有するもので改正の内容は次のようなものであった。
一、従来土地の収穫を標準としたものを改めて地価を標準とする。
二、税率を地価の3パーセントとする。
三、米納、麦納の現物納を廃して金納とする。
四、納税者を地主とする。
これによって国の財政は一応安定した基礎の上に立つことになったのであるが、当時農民は国民の8割を占め、納税義務者は地主であったが、その実質的負担者は農民であり、地租は収穫米代金の3割4分、小作料は現物納で5割内外の高率であって、農民の負担は依然として旧幕時代と異なることがなかった。
徳川時代には、土地の売買や兼併は禁じられていたが、実際には次第に町人や富農の手に集中しており、それが明治5年(1872)になって土地売買の禁止が解除されたので富裕な地主たちはそれまで不安定であった土地の所有権が確認されることとなった。
また、年々物価が上るにつれ小作料に対する地租の割合は少なくなるため、地租改正によって富裕な地主は一層利益を得ることとなった。
こうして地租改正の結果は土地が次第に農民の手をはなれ、地主に集中する傾向があった。小作地は地租改正当時全国耕地の3割を占めていたが、10年後には4割を占め、大正13年(1924)には田においては5割1分を占めていたといわれている。
こうした農奴的な生活水準に農民をおくためには、都市の労働賃金も極めて低い水準におく必要があり、我が国の資本主義はこのような農村を基盤として発展してきたのである。このような不公平な取扱いに対する不満をおさえるためには、いろいろな政策が考えられなければならないわけで、一方では後の治安警察法、治安維持法などの制定にみられるような一連の抑圧政策が採られるとともに他方では大衆の生活の水準の低さによる国内市場の狭隘(あい)さの活路を国外市場へ求めたので、これがひいては先進資本主義国との摩擦を不可避なものにしていった。
このような政府の農業政策に農民の不満は次第に高まり、至るところに農民騒動が起り全国では200数10件に及んだといわれている。
政府は鎮台、警察を動員してこれが鎮圧につとめたのであるが、遂に明治10年(1877)に地租の引下げ(地価の2.5パーセント)や地方税の引下げを行ない、そして後の地方新三法(「郡区町村編成法」「府県令規則」「地方税規則」)の制定となって現われたのである。
本県においてもこの地租改正により従来の大小切税法が廃されるので極めて不利になるということでこれに反対していわゆる大小切騒動が起った。
(二)大小切騒動
永禄のころ武田信玄によって創設されたといわれる大小切税法は、武田氏滅亡後も徳川幕府が、甲斐国の懐柔策として施政267年の間特別に認めた税法で、当時全国の農民は封建制度下の搾取的苛酷な年貢に泣かされた中にあって、ひとり甲斐国だけがこの思典に浴したといわれるもので、その内容はおよそ次のとおりである。
年貢のうち3分の2を大切といい3分の1を小切といったが、大切のうちの3分の2は籾納めとし3分の1は金納で、毎年国中相場といって甲府、黒沢、鰍沢、勝沼の4ヵ所に張紙した平均値段をもって納めさせ、また小切についても金納で、安石代といって、金1両につき米4石1斗4升替にて上納するというものであった。
この大小切税法を住民は、甲斐国にあたえられた特別の恩典と信じていたのであるが、実際には甲州の石盛が他州に比べてひどく高い面もあったので、あながち額面通りの恩典とはいえないともいわれている。
しかしながら、税法そのものも特殊であったので徳川時代にも幕府がしばしば改革をしようとしたが、その都度甲州農民の強い抵抗にあって果たされず、その後明治新政府になってからも同様改革をはかったが、これまた抵抗にあって見送られていたものである。
しかし、明治5年の地租改正によって遂に大騒動に発展したのである。
其県管内従来ノ税法取調差出候処大小切値段ノ儀云々申建有之然ル処従前旧幕張紙値段用来リ候場所並安石代一般被相廃候上者、独リ其県ニ限リ旧法据置候テハ不都合ノ儀ニ付当壬申ヨリ田米ハ悉皆正納、畑米ハ其所十月日ノ上米平均値段ヲ以テ上納為致尤是迄安石代難廃候ヨリ原免為相進候訳ヲ以当時田畑共頗高免相成候ニ付至当ノ免合ニ引下ゲ不申候テハ改正難相成旨申建ノ趣モ有之右ハ事実無謂儀ニモ有之間敷ニ付現今至当ノ免合何程ニ候哉検見刈合モ附帳相添従前村限リ田畑反別貢租辻取調至急改正ノ見込一同可申達事
以上のように大蔵大輔井上馨は厳命してきたので、ついに本県の改正に関する次のような通達を各郡中惣代等に発した。
租税安石代即チ当国大小等ノ如キモノ廃止ノ儀、此程大蔵省ヨリノ御達書及已巳以来ノ伺書類一併郡中総代ニ下ケ渡シ改正ノ見込熟考申立候様夫々相達候事
六月十九日
山梨県
これに対し、この大小切税法は信玄公以来の特典であると信じ切っている人々はこの改正によって不利を招くものとして果然反対ののろしを上げたのである。
8月8日から22日までの15日間に巨摩郡北山筋、山梨郡栗原筋、大石和筋、万力筋、さらには西郡筋、原方の農民延べ数千人がそれぞれ連日大挙して県庁へ押しかけ、歎願書を提出して気勢をあげるなど波状攻撃をかけたので、県はついに農民鎮圧のために陸軍大輔山県有朋に出兵を要請し東京鎮台第2分営が出兵することになり、さらに本省から数名の係官も説得に派遺された。
しかし、過激派たちは説得に耳をかさず、かえって一段と闘志をもやし遂に8月23日頂点に達し、東郡の万力、栗原両筋を中心に付近の村々97ヵ村の農民数千人が竹槍、鎌などを武器にしてときの声をあげて県庁へ押しかけた。
県は事態の険悪を悟りやむなく一時の欺瞞策として、障子へ「願ノ趣キ聞届候間書面差出スベキコト」と大書して示したので暴徒は自分達の要求が通ったものと信じて、直ちに代表者が路上で願書をしたためて提出した。
県もこれに対して、「願意聞届候事」という書付を渡して、一応荒れ狂った暴徒を押さえることができた。
しかし、翌24日になって暴徒の一部が山田町の豪商若尾逸平の邸を襲って乱暴狼籍(ろうぜき)を働いたため県は捕亡吏をもって暴徒を鎮圧するとともにかえって書付を取戻す口実を得て有利な立場となった。
県は騒動が小康を保っている間に隣県の応援を得て兵力の増強をはかった。すなわち28日には静岡県から、さらに9月1日には東京鎮台第2分営から軍隊が到着したので俄(にわ)かに勢を得て、攻守処を替え村々にひそむ首謀者を摘発し、また恵林寺の信玄公の墓前に関係111ヵ村から戸長、副戸長、名主、長百姓、百姓代を1人1人呼び出して次のことをいい渡し、さきに一時の謀略で渡した書付を取戻してしまった。
徒党強訴ハ高札面ニモ掲示有之、厳禁の段ハ銘々弁シ居リ乍ラ違犯致シ、大小切据置歎願ヲ名トシ、陰ニ凶器ヲ携ヘ、数千人府中へ押入不容易所業ニ付、即時可打払ノ処、随徒附和ノ者ハ勿論、無辜ノ市民迄多数非命ノ死ニ為至候ハ実ニ難忍ニ付、朝廷へ奉対恐入候へドモ、一時ノ権力ヲ以願意聞届候趣ノ墨印書付為相渡候儀ニ候、依之右書面ノ趣ハ取消候条渡置候印書、速ニ返上可致者也。
さらに県は、3郡の正副戸長等を県庁に呼びつけて政府の税法改正の意図が強固であることを申し渡すとともに、全力をあげて騒動参加の農民の検挙を行ない首謀者の小屋敷村の小沢普兵衛、村本村の島田富十郎を絞首刑、隼村の倉田利作を斬(ざん)首刑に処した。
税法改正をきっかけとして起った本県の大小切騒動は明治5年(1872)11月終息をつげたのであるが、この騒動のため本県初代県令土肥実匡は失脚し後任として明治6年1月権令として藤村紫朗が着任した。
四、合村
明治新政府が近代国家の建設を進めるにあたって、中央機構に対応する地方機構として従来の村をもってしてはその形態、規模において不適当なりとして政府は明治4年(1871)より各種制度の発足とともに村々の合併を薦(すす)めた。
山梨県においても、明治5年県令時代より合村をすすめたのであるが、大小切騒動などもあって実際にはわずか2件の実現しかみなかった。
しかしながら、翌6年には政府が積極的に乗り出したことと新任の藤村県令の強行策により明治7—8年(1874—1875)には、大がかりの合併が推し進められたのである。
本町においても明治7年10月上八木沢・下八木沢・帯金・大垈・椿草里・大崩・丸滝・角打・和田・樋之上・大島の11ヵ村が合併して大河内村として発足した。さらに翌明治8年1月19日、波木井・大野・梅平・身延の各村が合併して身延村となり、同日下山、粟倉の各村も合併して福井村となった。
さらに同年2月小田舟原・門野・大城・相又・清子・光子沢・横根・中村の7ヵ村が合併して豊岡村となった。
その後明治17年(1884)8月より22年8月まで5ヵ年間身延村と豊岡村が連合役場をもったり、明治29年(1896)3月福居村が村名を下山村に改めるなどのことがあったが、昭和30年2月11日町村合併して新身延町となるまで実に80年の長きにわたってこのときの形が続いたのである。
五、郡画制の制定
明治政府は、民間において次第に高まりつつある反政府運動を地方団体において食いとめるための措置として、明治11年(1878)7月「郡区町村編成法」を公布した。
山梨県においても次のような県令の布達が行なわれた。
郡区町村編成法
郡区町村編成法の儀左の通公布相成候条此布達候事但追て実地施行の儀相候達迄は従前の通可相心得事
明治十一年七月二十九日
山梨県令 藤村紫朗
郡区町村編成法左の通被定候条此旨布達候事。
明定十一年七月二十二日
大政大臣 三条実美
第一条 地方を劃して府県の下郡区町村とす
第二条 郡町村の区域名称は総て旧に依る。
第三条 郡の区域広濶に過ぎ施設に不便なるものは、一部を劃して数郡となす(東西、南北、上中下、某郡となすが如し)
第四条 三府五港其他人民輻輳の地は別に一区となし其広濶なるものは区分して数区となす。
第五条 毎郡に郡長各一名を置き毎区に区長各一員を置く、郡の狭小なるものは数郡に一員を置くことを得。
第六条 毎町村に戸長各一員を置く、又数町村に一員を置くことを得。
但し区内の町村は区長をもって戸長の事務を兼ねることを得。
これより藤村県令は、従来の山梨、八代、巨摩、都留の4郡を次のような9郡に分け、郡役所、初代郡長、所属町村数も次表のように分けた。
郡名 |
初代郡長 |
郡役所所在地 |
所属町村数 |
東山梨 |
加賀美嘉兵衛 |
平等村 |
村31 |
西山梨 |
八代駒雄 |
甲府常磐町 |
町59
村15 |
東八代 |
加賀美嘉兵衛 |
鶴飼村 |
村42 |
西八代 |
名取善十郎 |
市川大門村 |
村35 |
南巨摩 |
名取善十郎 |
鰍沢村 |
村25 |
中巨摩 |
三枝七内 |
竜王村 |
村52 |
北巨摩 |
千野林蔵 |
河原部村 |
村44 |
南都留 |
斉上斉 |
谷村 |
村21 |
北都留 |
鯛淵忠常 |
大原村 |
村18 |
本町の旧下山村、身延村、豊岡村は南巨摩郡に属し、旧大河内村は西八代郡に属することとなり、昭和30年2月11日現在の身延町が誕生する際大河内地区は南巨摩となったが、このときの郡の形は現在でも概(おおむ)ね存在しているといえる。
六、地方議会のはじまり
(一)県会
明治11年(1878)7月府県会規則の公布により、翌12年4月23日第1回山梨県議会が開かれた。県会議員は東山梨、中巨摩、北巨摩の3郡がそれぞれ4名、その他の6郡はそれぞれ3名の計30名で、この県会議員の選挙権は満20歳以上の男子で、その郡内に本籍を定め、県内において地租5円以上を納める者に与えられ、被選挙権は満25歳以上の男子で県内に本籍を定め、満3年以上住居し、県内において地租10円以上納める者に限られた。
この第1回県会の議員には現南部町出身の近藤喜則が選ばれている。
これよりさき藤村県令は、明治9年11月に発布した県会条例と県会規則にもとづいて明治10年(1877)5月自ら議長となって初の山梨県会を甲府一蓮寺に開いているが、その内容は議会の本質には程遠いものであった。
しかしながら、全国に魁(さきが)けてのこの議会は極めて意義があると同時に藤村県令の進歩性によるものといわなければならない。
このときの議員は34名の区長とそれと同数の公選議員の計68名で構成され、この歴史的議会に本町和田出身の市川重門が公選議員として選ばれている。
(二)町村会
明治12年(1879)4月28日藤村県令は「町村会規則」を制定してこれを布達し、各町村の議会制度がこの時より発足したのである。
この規則の内容は、現代地方自治法下の諸規則とは全く異質のもので議会を県・郡・戸長の統制下においた極めて権限も狭いものであったが、とにかく画期的制度であったことはまちがいない。
七、市町村制および府県制・郡制の確立
(一)市、町村制
明治5年(1872)1月山梨県四郡を80区に分けて各区に戸長、副戸長をおいたり、さらにこの年の10月には、戸長、副戸長を廃して正副区長を置くとともに藩政時代から村役人と呼ばれた名主、長百姓の制度も廃されて、その代り各村に正副戸長を置くなど、また合村、議会制度の発足と目まぐるしい変革を続けた末端組織である町村は、明治21年(1888)4月市制、町村制が公布され翌22年(1889)4月施行を迎えてここに市町村自治の制度が生れた。以来昭和22年現在の地方自治法の制度まで実に約60年の長きにわたってこの制度が続いた。
(二)府県制、郡制
市制、町村制に続いて府県制、郡制も明治23年(1890)5月公布になったが、明治憲法と前後して制定されながら帝国議会の議を経ていないのは、明治10年(1877)代の民権運動の激化に対応して、急速にに官製地方自治の体制を整えようとする政府の特別の意図によるものであったといわれている。
このようにして地方自治体の行政は、中央政府とその任命する府県知事の強力な監督、統制のもとにおかれることとなった。
八、明治憲法と総選挙
専制的なプロシヤ憲法をまねた制限的な立憲政治と絶対的な色彩をもつ明治憲法は、明治22年(1889)2月11日発布され、天皇主権、天皇の陸海軍統帥権など現憲法とは全くその性格を異にするのであったが、昭和22年5月3日新憲法が施行されるまで58年間にわたって、わが国政治の基本となったのである。
憲法の制定によって国会(衆議院と貴族院の二院制)を開設するため、明治23年(1890)7月第1回総選挙(衆議院)が行なわれた。
選挙権は満25歳以上の男子で直接国税15円以上納める者に限られていたので、総有権者数は全国で約45万人で、当時の日本の人口の1.24パーセントにすぎなかった。
また、山梨県においては県人口40万人の0.55パーセントであった。
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