第二節 日清・日露戦争とその前後

一、日清戦争とその前後

 明治政府の強力な保護政策のもとにわが国の資本主義は急速に成長を遂げたが、また官栄軍需工場も非常な発展をみせた。
 一方、近代産業の民間払下げは明治23年(1890)頃にはほぼ終り、それによって三井、三菱、住友などの大資本が産業界に登場してきた。
 明治27年(1894)にはイギリスとの間に新通商航海条約が結ばれ、治外法権の撤廃と日本資本主義発展の重要障害をなしていた関税自主権の一部回復をみた。
 明治26年(1893)には、わが国で最初の資本家生産物である綿糸が朝鮮・清国へ輸出された。当時西ヨーロッパ資本主義諸国は、東洋へ露骨な圧迫を加え、特に朝鮮をめぐる日本・清国・ロシアの利害関係がするどく対立した。
 朝鮮・清国は、日本の綿糸に対し関税や輸入制限などでその進出を阻んだので日清の対立はますます深まり、朝鮮で起こった東学党の乱をきっかけとして遂に日清の開戦となった。
 この戦争は、明治27年(1894)7月25日からはじまり翌28年(1895)3月清国の降伏により同年4月下関において講和条約を締結して終った。本町においても数多くの出征兵士を出したが、7名が不運にも戦陣にたおれ、声なき凱旋をした。
 この戦争の大勝利は我が国資本主義を急激に発展させる契機となった。
 しかし、一方戦費調達のための公債の発行、戦後の台湾の経営、さらに行なわれた軍備の大拡張などのため財政は膨張し、政府は数度による増税を行ない、公債を発行した。
 この増税は大衆課税である間接税や地租によってまかなわれたので、戦争に勝っても労働者、農民の生活はかえって圧迫される結果となった。

二、日露戦争と韓国併合

(一)日露戦争とその前後
 我が国は日清戦争に大勝し、伊藤博文、陸奥宗光、清国の李鴻章(りこうしょう)を全権とする下関条約によって、
一、清国は朝鮮の完全独立を認めること。
一、清国は日本に遼(りょう)東半島・台湾・澎湖(ほうこ)島を譲ること。
一、賠償金として約3億6000万円を支払うこと。
一、清国と日本は新しい通商条約を結ぶこと。
 などがきめられた。
 アジアの小国に過ぎなかった日本が大清国を破ったことは全世界の驚きであったが、わけてもロシアはかねがね満州に進出の野望をもっていたので、この条約中遼東半島割譲に反対し、ドイツ、フランスをさそって「日本が遼東半島を領有することは、東洋の平和をおびやかすものである」として遼東半島を清国へ返すよう申し入れてきた。
 これに対し日本はこれら3大強国と争う力がないためやむなく3国の要求を受け入れた。これがいわゆる三国干渉であるが、ロシアは三国干渉後は逐次満州・韓国に進出してイギリスの権益と対立することとなり、またわが国もロシアの進出を憂慮していたので明治35年(1902)日英同盟を結んでロシアに備えた。
 しかしながらロシアは、着々進出をはかり特に北清事変をきっかけとして満州に大軍を送り旅順をはじめ各地に軍事施設を強化したので、三国干渉来強い反感をいだいていた日本を刺激し、遂に明治37年(1904)2月6日日露戦争の開戦となった。
 旅順要塞(さい)の攻略戦・奉天の大会戦・日本海の大海戦等歴史を飾る勝利を重ねて、ついにアメリカ大統領ルーズヴェルトの仲裁により、明治38年(1905)9月6日アメリカのポーツマスにおいて日本の小村寿太郎、ロシヤのウイッテを全権として講和条約が結ばれた。
 この条約の内容の主なものは、
一、ロシヤは日本が韓国を指導・保護することを認める。
一、樺太の南半分を日本に譲る。
一、遼東半島南部(関東州)の租借権と南満州鉄道を日本にあたえる。
一、ロシヤ沿岸の漁業権を日本に譲る。
 などであった。この戦争に本町出身の12名が戦死を遂げた。
 わが国は、この戦争を契機に一躍国際的地位も高まり大陸進出の強い足場を築くこととなった。
 しかしながらこの戦争は大国を相手に国の命運を賭しての大戦争であったため特に戦費調達には苦慮し、同盟国イギリスやわが国に好意をもっていたアメリカ合衆国などから多額の資金を借りてまかなったのである。
(二)韓国併合
 日露戦争後の日本は韓国を保護国として内政、外交を監督したが、日本の国防上これを併合する必要ありとして、韓国人の反抗をおさえて明治43年(1910)8月29日これをわが国に併合し、京城に総督府をおいて統治した。
 以来昭和20年8月15日わが国の敗戦により、日本の統治をはなれて独立するまで約36年間日本国の一部であった。

三、此の頃の本県の大水害と御料地の下賜

 本県の歴史は水害との闘いであったともいわれ、なかんづく明治時代だけでも記録にのこる水害は実に35回に及んだといわれている。なかでも最も悲惨を極めた明治40年(1907)8月の水害は県史未曽有のもので、被害は全県下に及んだが、とりわけ峡東一帯の惨状は筆舌に尽し難いものがあったといわれている。
死者 333人
負傷者 189人
家屋のこわされたり流されたもの 11,943戸
堤防の決潰・破損 76,847間(1間は約1.8メートル)
道路の流失及び埋没、破損 273,737間
田畑宅地の埋没、流失 7,646町歩(1町歩は約1ヘクタール)
橋梁の流失、破損 3,195ヵ所
 その他各種造営物、家財の流失もおびただしい数にのぼり直接損害額だけでも当時の金で1,300万円という巨額なものであったといわれている。
 当時の山梨県の予算額は66万円であり、また県民の富力(銀行、郵便貯金等)が約1,400〜500万円であったことと比較してこの災害の規模がうかがわれるのである。
 そしてこれがため本県全体で553戸、2,618人がこの土地に見切りをつけて40年から43年にかけて北海道へ移住していったのである。
 本町の水害
 (下山)
 明治40年7月14日(旧暦)の水害が一番大きく当時の下山は現在の富山橋に通ずる県道以北は荒漠(こうばく)たる早川河原で、それより南に耕地が展開し富士川に対して1番から5番堤防まであった。(5番堤防は前年に流失していた)このときの水害で1番から4番までの堤防は悉(ことごと)く流失し、ために富士川の奔流は耕地を押し流して遂に本町裏に迫り矢沢、大沢、不動沢の垣内に居を構えていた人家35戸と耕地の8割を失ってしまった。
 現在下山裏(東側)の断層はいまより約200年前の水害でできたものに加えて更にこのときの水害でできたものである。
 家を失った被災者の半数はこの土地をあきらめて甲府方面や北海道へ移住し、残った者は下山の他の安全地帯へ移ったのであった。
 現在みる富士川表、早川表の見渡す限り一面の耕地は、この大きな痛手にも屈せず孜孜(しし)として開拓に打込んだ村人の汗の結晶であり、近時護岸堤防の完備と相まって将来の飛躍的発展が期待されているとき、改めて先人の偉業が偲(しの)ばれるのである。
(大島)
 ここにも幾多水害の悲しい歴史が秘められている。なかでも明治31年のそれは大島三番堤防が決潰し、富士川の奔流は上大島西組前から出口、宮原、前河原、仲河原一帯の水田を押し流し肥沃な耕地は一瞬にして奔流荒れ狂う修羅場となり、やがて一面河原と化したのであった。
 こえて明治38、40、42年と相次ぐ大水害に見舞われたのであるが、なかでも42年のそれはとくに大きく、このときは7番8番堤防が決壊(けっかい)し、それより下流の田畑を押し流し小室沢前通りまで切れ込んで、人家2戸を押し流してしまったのである。
 このような相次ぐ大水害で耕地の大部分を失う者もありこの土地での農業をあきらめ妻子を残して遠くハワイやマニラへ働きに出掛けたものも10人に及んだのである。
 当時よりこの地方の盆唄にもうたわれた、
 大島流れまた流れ
        大島じゃ
 何をさ えさにするだらう ドッコイ
        何をさ えさにするだらう

 平の土手がチョイと切れて
        大島じゃ
 火じろでうなぎョつり出す ドッコイ
        火じろでうなぎョつり出す
 は当時の水害がいかに悲惨なものであり、住民の生活を脅かしたかを如実に物語っているといえよう。
(平)
 ここの水害は大島と同じ明治31年のものが最も大きいものであった。
 当時の平部落は、現在よりもはるかに広い耕地を有し、河内地方でも有数の富裕部落といわれていたのであるが、この時の水害で全耕地が流失し、人家は、全戸が床上浸水するという壊滅的被害をうけた。
 現在でも人家の壁にこの時の浸水の跡をとどめ当時の惨状を物語っている。
 耕地を失った部落の人達は、その後出稼ぎなどで生活を支えながら、全く血の滲むような苦労を重ねて復旧につとめたが、このうち2戸はついにこの土地に見切りをつけ樺太(現在のソ連領サハリン)へ移住していった。
 本県が累年水害に悩まされ尊い人命、財産を失ない塗炭の苦しみを嘗(な)めなければならない原因としては、四方を峨峨(がが)たる山岳に囲まれ、本支流合わせて183の河川が走る最も水害をうけやすい宿命的地勢にもあるが、それ故に最も意を用いなければならない治山治水を怠っていたことがあげられる。
 県は明治41年(1908)2月始めて造林補助規程を制定して造林を奨励するとともに、この水害は、明治維新当初民有とすべきであった県内の広大な山林を官有としたため、当局の管理運営が悪く、また住民の愛林思想を喪失し、盗伐の横行、濫伐の弊習が大きな要因をなしているとして、明治43年(1910)の県会において御料林を無償で交付してもらい、森林の整備、国土保全をはかりたいと決議し、政府に意見書を提出した。
 このような山梨県の強い要望により、明治44年(1911)3月11日帝室林野管理局甲府支庁所轄御料地の内、反別29万8,000余町歩を山梨県有財産として無償交付して善後経営の策、国土保安の途(みち)を樹(た)つべしと御沙汰があった。
    御沙汰書
 山梨県管内累年水害ヲ被リ地方ノ民力其ノ救治ニ堪ヘサル趣憫然ニ被思食特別ヲ以テ帝室林野管理局甲府支庁所轄御料地ノ内段別弍拾九万八千弍百参町七反七畝拾五歩ヲ山梨県有財産トシテ下賜候条善後経営ノ策国土保安ノ途相立テサセ恩旨貫徹候様処理スヘキ旨御沙汰被為在候此段伝宣候也
 明治四十四年三月十一日
                宮内大臣 渡辺千秋
 内閣総理大臣 桂太郎殿
 現在甲府市舞鶴城頭にそびえる花崗岩の巨大な謝恩碑は、これを記念して大正9年(1920)3月建設されたものである。
 約30万ヘクタールにおよぶ恩賜林のうち本町には1,843ヘクタール所在し、昭和30年2月11日下山・身延・豊岡・大河内が合併して身延町が発足するに際し、この恩賜林に対する入会権、ないし部分林を財産区とすることとし、現在仙王外5山(下山)169ヘクタール、姥(うば)草里外7山(豊岡)、1,272ヘクタール、入ヶ岳外2山(大河内)402ヘクタールをそれぞれの管理会において保護にあたっている。