第三節 第一次世界大戦とその後

一、明治から大正へ

 明治維新の大業を経て我が国は、急速に近代国家の建設を進め経済の発展も目覚ましく、特に日清、日露の2大戦役に国運を賭(と)して戦い、大勝利をおさめて全世界を驚歎させるとともに数多の海外権益を獲得して、一躍世界列強に伍す成長を遂げたのである。
 明治天皇は、我が国建国以来の賢帝と国民に仰がれ偉大な治績を残して、明治45年(1912)7月30日崩御され、即日大正天皇が即位し、翌31日から年号を大正と改めた。
 明治天皇の大葬は、9月13日京都において行なわれ伏見桃山の御陵に埋葬された。大正天皇の即位の大典は、大正3年(1914)11月10日京都において行なわれ明治から大正へと歴史の舞台は移った。

二、第一次世界大戦と経済恐慌

 バルカン半島は、19世紀の後半より帝国主義と民族主義の対立がはげしく、「ヨーロッパの火薬庫」といわれるほど緊迫した状勢にあったが、大正3年(1914)7月遂にサラエボ事件(オーストリアの皇太子夫妻がセルビアの一青年に暗殺された)をきっかけとして戦火がおこり、ドイツ、オーストリアの同盟国と、セルビアを助けるフランス、ロシア、イギリスなどの連合軍との間に一大戦争となり、後にはトルコ、ブルガリアが同盟国がわに、イタリアが連合国がわについて参戦した。
 東部戦線、西部戦線、バルカン戦線が主戦場となってガス、飛行機・戦車・潜水艦などの新兵器も登場しての近代戦となり、緒戦は同盟軍、後半はアメリカをはじめ中・南アメリカ諸国、中華民国も連合軍がわに加ったので遂に大正7年(1918)連合国の勝利に帰した。
 わが国は日英同盟の信義を守り、大正3年(1914)8月参戦して連合国がわに加わり、東洋におけるドイツの拠点膠(こう)州湾と南洋ドイツ領に出兵し同年11月7日青島を攻略し、南洋諸島も手中に収めた。
 大正8年(1919)6月パリ郊外のベルサイユ宮殿において講和会議が開かれ、その結果としてわが国は、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治と中国山東省の旧ドイツの利権を引きつぐこととなった。
 このときのわが国の全権は西園寺公望、牧野伸顕等であった。
 この大戦を通じわが国の経済は著しく発展し、大正4年(1915)に7億円の輸出貿易額が大正7年には19億に達し、また大正3年(1914)には11億円の債務国であったものが大正9年(1920)には一躍27億7千万円の債権国となった。
 また、国民生活も俄(にわ)かに向上し、久しく貧困にあえいでいた農村も漸く小康を得、商工業も活況をみせ、とりわけ大資本の手による重工業は飛躍的に発展したのであるが、この好景気も大戦が終結して軍需がとまり、諸外国が再び海外市場へ進出するに及んで、状勢はたちまち逆転し、大正9年(1920)には早くも経済恐慌の波が押し寄せ、商社や銀行の倒産するものが続出した。
 時あたかも大正12年(1923)9月1日、東京、横浜を中心とするいわゆる関東大震災により空前の大打撃をこうむり、この天災がわが国経済の不況へ一層拍車をかける結果となった。
 関東大地震は本町にもかなりの影響を与えた。この日の正午頃突如として揺れだした地震にたまたま各家々では昼食時であったが、一斉に屋外に飛び出して避難した。しかしこの地震は、一向に止む気配がなく遂に夜となったが、まだ揺れ続け各家々では地割れなどの危険をおそれて付近の竹林などに避難して不安な一夜を明かした。そして余震はその後も続き、竹林に蚊帳を吊って夜を過すこと4日も5日も続いた。
 この地震で至る所に山崩れがおこり、身延や角打では山崩れで谷川を埋めたため思わぬ大騒ぎともなった。
 また身延駅構内の貨車が横倒しになるなどかって経験したことのない大地震であったが、幸い震源地より離れていたため京浜地方のような大惨事にはならなかった。
 たまたま京浜地方では、この大地震に乗じてかねてより日本の統治に反感をいだいていた半島人(現在の韓国・北朝鮮)が、暴動をおこしたという流言で被災地は大きな混乱をおこしたが、本町でも南部町方面より暴徒の集団が入ってくるという流言が乱れ飛んで、角打、大野あたりでは、半鐘を打って警戒するという緊張した一幕もあった。
(一)米騒動から社会運動へ
 第1次世界大戦下の大正5年(1916)頃からはじまった米の値上りは、ロシア革命に干渉しようとするわが国のシベリア出兵に伴なう大量の軍需米の投機買いに原因し、大正7年(1918)米商人の買占めのため国民のなかには米を買えないものが続出し、この年の夏遂に富山県の漁村の主婦が米を求めて暴動を起し、米商人を襲った事件に端を発し、暴動が全国に拡(ひろ)がり3ヵ月の間に70万人にのぼる民衆が各地でこれに加わった。
 山梨においても大正7年(1918)8月15日当時本県随一の富豪といわれた若尾邸が甲府市民に焼き打ちにあった事件もこのような世相の反映によるものである。
 この米騒動はわが国の社会運動に大きな刺激をあたえることとなり、戦後の不景気の到来とともに労働運動、農民運動、社会主義運動が高まり、労働組合、日本労働総同盟が結成されて労働争議が頻発し、農村では地主と小作人との間に小作争議が続発した。
 山梨県下においても特に東山梨と中巨摩の両郡が活発で大正12年(1923)の鏡中条村の争議、14年の玉幡村の争議が有名である。
 また、昭和に入ってからは、5年(1930)の奥野田村や落合村の一村挙げての争議が有名であるが、ことに奥野田村のそれは地主側の農地取上げに対する小作人の生活のための耕作権擁護実力闘争で、この時代の小作争議の象徴となった。
 このように大正の末から昭和の初頭にかけて多くの小作争議が発生したが、本町ではなんらの争議も起らなかった。しかし、古老の話では当時の本町の小作料は1反歩(10アール)当り籾で3石3斗から4石5斗2升で、争議のあった町村の平均2石1斗に比べると1倍半から2倍以上という極めて苛酷なものであった。それにもかかわらず争議の発生をみなかった理由は、当時のこの町の地主が地主とは名ばかりで、一般には生活のために自らも耕作しなければならないいわゆる現在の専業農家程度の小規模の土地保有地主であったからと、それ故に、農民運動の指導者の関心を買わなかったためと考えられる。
(二)経済恐慌
 第1次世界大戦の終結と同時に襲ってきた経済不況の波は大正から改元して間もない昭和2年(1927)3月遂に空前の金融大恐慌となり、東京、横浜の中小銀行が預金支払不能で続々と休業に陥ったことにはじまり次第に全国の中小、有力銀行に波及して行った。
 この月の22日から23日にかけて全国の銀行が休業、株式の暴落、取引の休止等金融恐慌はその極に達したのである。
 政府(田中義一内閣)は「支払猶予令」を発して預金の払い戻しを一時中止させ、その間に日本銀行から民間銀行へ資金を貸し出して事態の収拾につとめたが慢性化した不況を打開することはできずかえって事態は深刻の度を加えていった。
 我が国の金融恐慌と前後して世界各国にも経済恐慌の嵐が吹きはじめ、とくに世界経済に大きい影響力をもつアメリカ合衆国が、昭和4年ニューヨークの株価の暴落をきっかけとして急激に経済恐慌がおこり、銀行、工場の閉鎖、倒産、物価の暴落、生産のゆきづまり等大混乱に陥ってしまった。
 このアメリカ合衆国の恐慌は、たちまち全世界に拡まりいわゆる世界恐慌となったのである。
 この恐慌のおもな原因としては、第一次世界大戦が終って欧米各国は、急速に平和産業が復興して生産が急激にすすんだが、これに対する購買力がついていけないために、経済上の大混乱が生じたことによるのであるが、この恐慌に対して、豊かな資源をもつアメリカ合衆国や広い植民地をもつイギリス、フランスなどは高い関税によって安い輸入品をしめだす保護貿易や、本国・植民地・自治領間でブロック経済体制を強化して対処するなどいわゆる「持てる国」の力を発揮したのである。
 またソ連邦は独自の経済体制で防衛したので、わが国をはじめドイツ、イタリアなどのように植民地も資源もないいわゆる「持たざる国」は、ますます苦境に立たざるを得なくなった。
 当時、山梨県においては、京浜地方と同様銀行等の休業が行なわれたのであるが、なかでも県内随一の富豪若尾家が、かって華やかに繰り展(ひろ)げた数々の事業の母体であった若尾銀行もこの恐慌で、遂に昭和3年10月第10銀行と合併してその姿を消したことが最も象徴的であった。
 本町においても、大正2年(1913)2月18日開設の小林銀行身延出張店、大正7年(1918)4月開設の栄銀行身延出張店が、昭和5年(1930)12月の銀行恐慌でともに閉店となり、大きな混乱と数々の悲劇を生んでいる。
 また、当時は未曽有の農業恐慌におそわれて繭、米などの農産物が大暴落し、農民はどん底の生活にあえぐ暗いわびしい時代であった。