三、大陸進出と軍部独裁

 第一次世界大戦終結以来慢性的経済不況に陥っていたわが国は、昭和5年ごろは不景気のどん底にあえいでいた。
 都市では多くの中小企業が倒産し、大企業も労働者を解雇したり賃金の引下げを行なうなどして防衛を図ったから失業者は巷(ちまた)にあふれ、また農村も米や生糸などの農産物が値下りして生活は極度に急迫していたところへ、都会で失業したものが流れこむなどして農村生活はますますみじめなものになっていった。
 この間に強大な資本力をもつ財閥は、倒産寸前の銀行や企業をつぎつぎと吸収してますます強大となり、ついにはわが国産業資本の3分の1以上を掌握して次第に日本経済の支配力を高めていったのである。
 このような事態に対し国民の間には財閥や政党に強い不満をいだき労働運動、農民運動、社会主義運動が高まっていったのであるが、政府は大正14年制定された治安維持法によって厳しくこれらを弾圧したのである。
 持たざる国日本の打ち続く経済不況を大陸進出によって打開しようとする軍部の考えは、昭和6年(1931)9月18日柳条溝事件をきっかけとしておこった満州事変となり、さらに昭和7年(1932)上海事件となって現れてきた。
 軍部は満州事変で全満州を占領し、翌昭和7年(1932)に元清朝皇帝溥儀を元首とする満州国をつくって主導権を握るとともに、極端な国家主義者と結んで政治に圧力を加え次第に大陸政策を進展させていった。
 このような軍部の行動に対して、政府をはじめ国の重臣たちは強く反対したのであるが、政治の革新をとなえる青年将校等によって、昭和7年(1932)5月15日犬養毅首相が暗殺されるといういわゆる五・一五事件がおこったのである。
 軍部を中心とする一連の大陸政策は、世界各国の強い反感を買う結果となり、なかでも満州国の建国については多くの列国はこれを認めず、国際連盟は中華民国の訴えをうけて満州にリットン調査団を送って日本の行動を非難したので、昭和8年日本は遂に国際連盟を脱退してしまった。
 以下に当時の町内の状況をもの語る資料をいくつか掲げてみよう。
収第一六三〇号
 昭和八年五月六日
 大河内村村長
   望月  望
各区長殿
 満蒙自衛移民ニ関スル件
首題ニ関シ県学務部ヨリ在郷軍人ニシテ希望ノ向有之候ヘバ至急其ノ筋ヘ通牒イタス様指示有之候付御配意相成度
 追而希望ノ向ハ印鑑所持ノ上本人直接県庁ヘ出頭セシメラレテモ可
満蒙開拓青少年義勇軍募集要綱
一、趣旨
我日本少年を大陸の天地に進出せしめ満蒙の沃野を心身練磨の大道場として日満を貫く雄大なる皇国精神を鍛錬陶冶し満蒙開拓の中堅たらしめ以て両帝国の国策遂行に貢献せしめんとす。
二、応募資格
算へ年十六才(早生れの者は十五才)より十九才までの身体強健意志強固なるもの。
三、手続
希望者は、町村長又は学校長又は青年団長等に申出その推薦を経て大日本連合青年団又は満蒙移住協会に申込むこと。
発第三三六号
 昭和八年七月二十二日
                大河内村長 望月 望
 塩之沢区長 鈴木岳殿
  国際連盟脱退ニ関スル詔書奉読式挙行ニ付出席方通知ノ件
 今般国際連盟脱退ニ際シ渙発セラレタル詔書ヲ市町村各種社会教育団体ニ於テ奉読セシムル為メ大日本連合婦人会、大日本連合女子青年団及社会教育会ノ三団体ニ於テ共同謹刷ノ上本県ヘ送付越シ本県ヨリ去ル六月一日本村ニ交付相成居リ候ニ付本月二十六日午前八時詔書奉読式挙行ノ上之レガ伝達可致候条当日ハ万障御繰合セノ上定刻迄ニ御出席相成度此段及通知候也
 これらは緊迫しつつある当時の国情を物語るものでありその後の日本は対外的には昭和9年にワシントン軍縮条約を破棄し、昭和11年にはロンドン軍縮会議を脱退するなど国際社会から次第に孤立し、反対に国内では大々的に軍備の拡張に乗り出すこととなった。
 こうなると政党の力は弱まり議会政治は全く形ばかりのものになってしまい、軍部独裁の方向へ進んでいった。
 このような時代を背景として、昭和11年(1936)2月26日第1師団の1部青年将校に率いられた1,400名の陸軍部隊が、東京永田町の一角を占拠してこの間に政府や軍の首脳部を襲撃し、高橋是清蔵相ら3名を殺害し、その他数名にも重傷を負わせるといういわゆる2.26事件がひきおこされたのである。
 この事件は4日後には主謀者の将校たちが逮捕され、兵士達はそれぞれ原隊へ帰されて一応落着したのであるが、軍部に反対する重臣たちが、昭和維新をとなえる青年将校たちの手によって次々に暗殺されていく日本は、やがて大きな破滅への道を辿っていったのである。
(一)日独伊枢軸結成
 ヨーロッパにおいては、昭和8年(1933)ヒトラーがドイツの政権を握って独裁体制をつくるとこの年に国際連盟を脱退し、さらに昭和10年(1935)3月16日には、ベルサイユ条約の軍備条項とロカルノ条約を破棄して再軍備を宣言し、翌11年(1936)3月7日にはラインランド非武装地帯に進駐した。
 またすでにファシズム体制を確立していたイタリアのムソリーニは、昭和10年(1935)10月エチオピア戦争を開始して翌11年(1936)5月これを併合し、また国際連盟も脱退するなど両国は同じファシズムの道を進むこととなり、昭和11年(1936)11月ベルリン—ローマの枢軸が結成されたのである。
 一方日本は共産主義勢力に対抗するため、次第に独伊両国と接近をはじめ、昭和11年(1936)11月に日独防共協定を結び、さらに翌12年(1937)12月にはイタリアも加わって日独伊防共協定となり、ベルリン—ローマ—東京を結ぶ枢軸ができて、ファシズム諸国の結束が固められていったのである。
(二)日華事変
 中国は我が国が、第1次世界大戦中の大正4年(1915)に強引に認めさせた対華21ヵ条以来日本に対し強い反感をいだいていたが、その後満州事変によって領土の一部が満州国として独立させられたり、その他塘沽協定、梅津何応欽協定、土肥原秦徳純協定、冀東政権など数々の屈辱的侵害で排日運動は極度に高まっていった。
 たまたま昭和12年(1937)7月7日中国の北京近郊の蘆溝橋付近に駐屯していた日本軍と国民政府軍が、砲火を交えるといういわゆる蘆溝橋事件をきっかけとして次第に戦火は拡大し、ついに日華事変に発展したのであるが、中国の蒋介石総統は、共産党と抗日統一戦線を結成して挙国一致で日本軍と対決することとなった。
 これに対し日本は、北支および中支に大軍を送り、さらに満州に駐留する関東軍も内蒙(もう)古へ攻め入り戦線は中国全土に拡がっていった。
 日本軍は多大の犠牲を払いながらも各地で中国軍を破って、この年の12月13日には、はやくも首都南京を攻略し、さらに翌年10月22日には南支の広東を、また26日には要衝漢口をそれぞれ攻略したのをはじめ主要都市の大部分を占領してしまった。
 この間の上海戦線のウースン敵前上陸、杭州湾上陸、バイヤス湾奇襲上陸、さらに大別山系廬山山系の山岳戦などは戦史に特筆すべきものであろう。
 国民政府は後退につぐ後退を重ねて、ついに四川省の重慶までのがれたが、あくまで抗戦を続けたため日本軍は、広大な中国大陸の戦線で貴い犠牲とぼう大な物資の消耗を強いられることとなった。