(四)独伊の電撃戦
 このころ(1938年)ドイツは、オーストリヤを武力侵略によって併合し、翌年(1939年)にはチェコスロバキアをも奪っていた。
 一方わが国に対しては、この年に日独伊三国同盟の締結を提案してきたが、政府及び陸、海軍部内に意見が分かれて容易に去就を決することはできなかった。
 かくするうちにドイツは、9月1日(1939年)ポーランド領に対し一斉に侵攻を開始したため、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリス、フランスは相ついでドイツに対し宣戦を布告し、ここに第2次世界大戦の勃(ぼつ)発となったのである。
 その後のドイツは、デンマーク、ノルウェイの占領についでベルギー、オランダを蹂躪(じゅうりん)して、フランスに侵入し首都パリを占領してフランスを降伏させた。
 この間にイタリアも参戦してドイツとともにイギリスを脅かした。
 ドイツは、さらにバルカン半島を席巻(けん)したのち、1941年6月ソ連領に攻め入ってついに首都モスクワと古都レニングラードの線まで迫った。
 このようなドイツの電撃作戦の成功は、それまで去就に迷っていたわが国を刺激してついに1940年8月27日、日独伊三国同盟の締結に踏み切らせることとなった。
(五)ABCD包囲陣
 日本は日華事変が当初の予想に反して長期化し広大な占領地の確保に苦慮していたのであるが、介石の国民政府にかわる汪兆銘政府によって新しい中国をつくり事変を終結に導こうとしたが、これも計画通りには進まず収拾の目途は依然つかむことはできなかったのである。
 このように国民政府が頑(がん)強に抗日戦を続けたために事変が長期化する原因は、南方よりの援ルートにあるとして1939年には南支の要衡南寧を占領し、また雲南鉄道の爆撃、海南島の占領、さらに翌年(1940)9月23日北部仏印に進駐していった。
 この仏印進駐によってフランスはもとよりアメリカ、イギリス及びオランダ諸国との間は極度に悪化していったが、とりわけアメリカは三国同盟が締結される以前から対日態度を硬化させており、昭和14年(1939)には日米通商航海条約を廃棄し、翌昭和15年(1940)7月から9月にかけて、日本が最も欲している航空機用ガソリンや鉄など重要物資の日本への輸出を禁止し、さらに翌昭和16年(1941)7月25日には在米日本資産の凍結をしてしまったのである。
 この間日米交渉によって局面の打開もはかられたが、いずれも失敗に終り日米関係はますます険悪の度を増していった。
 一方南方資源に期待しての蘭印交渉も失敗に帰し、日本は絶対の窮地に立たされることとなった。
 ここにおいて、アメリカ、イギリス、中国、オランダは結束して、経済的、軍事的に日本を封じ込めるいわゆるABCD包囲陣を形成していったのである。