第四節 太平洋戦争
一、開戦と勝利の時期
仏印進駐以来極度に悪化した日米関係を外交交渉によって打開すべく、各方面からの努力が重ねられたが、アメリカの日本に対する不信の念は強固なものがあって交渉は失敗に終り、昭和16年(1941)10月18日東条内閣に代ると急速に日米開戦に傾いていった。すなわち昭和16年12月8日(1941)未明アメリカ太平洋艦隊の基地ハワイ真珠湾の奇襲攻撃によってついに太平洋戦争の火ぶたが切られたのである。
この歴史的奇襲攻撃は二波にわたる空からの攻撃と特殊潜航艇による海中から行なわれ、このため湾内に集結していたアメリカ太平洋艦隊の主力は壊滅的打撃をうけたのである。この日午前11時45分には宣戦の詔書が発せられ、米英が中国の残存政権( 介石政権)を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋制覇をはかり、与国を誘って日本の周辺で武備を増強し、経済圧迫を強化して日本の生存を脅かしている。このまま事態が推移すれば東亜安定にかんする日本の積年の努力は水泡に帰し、日本の存立も危うくされるので、自存自衛のため、やむをえず起つものであると全国民に放送され、また東条首相は一億一心の心構えで必勝の信念をもって戦うよう国民に訴えたのである。日本軍は真珠湾奇襲攻撃と相呼応して南方各地に対し一斉に進撃を開始していった。寺内寿一大将を総司令官とする山下奉文中将指揮下の各部隊は、マレー半島に進攻して忽(たちま)ちこれを席巻(けん)し、昭和17年(1942)2月15日には東亜におけるイギリスの根拠地シンガポールを攻略した。
また東洋におけるイギリスのもう一つの拠点である香港も、日本軍の猛攻にあって昭和16年(1941)12月25日には陥落した。この香港攻略戦において南部町出身の若林東一中尉は敵主陣地を偵察中防備の手薄に乗じて、独断で255高地を占領しその後の作戦を有利に導く殊勲をたてている。
一方東洋におけるアメリカの拠点フィリピンも本間雅晴中将指揮の部隊によって次々に占領され、昭和17年(1942)1月2日には首都マニラを占領した。
そして最後に残されたバターン半島・コレヒドール要塞(さい)の攻略戦は最も激烈を極めたが4月9日にバターン半島が、5月7日にはコレヒドール島要塞も陥落したのである。
これよりさきアメリカ極東軍司令官マッカーサーは、コレヒドール島を脱出し、3月17日にはケソン大統領とともにオーストラリヤへ逃れていった。
このほか太平洋上のアメリカの拠点たるグアム島、ウエーキ島をはじめ中南部太平洋の諸島も次々と占領するに至った。また日本軍は12月8日タイに進駐すると援 ルート遮(しゃ)断や、対インド工作の目的をもって、ビルマに進攻し各地でイギリス軍を破って、昭和17年(1942)5月中にはビルマ全域を占領した。
さらには豊富な石油資源の確保をねらって蘭印に進攻した部隊はボルネオ・スマトラ・ジャワ・セレベスをはじめこの方面全域を占領したのであるが、このとき、わが国が最も欲している精油所を無傷で占領するために、落下傘部隊をもってパレンバンを急襲するなど他の地域にみられない作戦もとられた。
このような陸軍部隊の華々しい進攻も優勢な海・空軍による制海・制空権の確保によるものであって、なかでも開戦直後の12月10日イギリス東洋艦隊の主力で不沈艦を誇るプリンス・オブ・ウエールズとレパルスを、航空機による爆撃と空中魚雷によって撃沈した、いわゆるマレー沖海戦はその後の日本の作戦を有利に導くこととなった。
また海軍も昭和17年(1942)2月27日夜のスラバヤ沖海戦、次いで28日から3月1日にわたってのバタビヤ沖海戦で、米・英・濛・蘭のこの方面の艦隊を、ほとんど潰(かい)滅させて陸軍部隊を援けたのである。
こうして緒戦においては当初の計画どおり進行して南方諸地域の全域を制圧して資源の確保・海上輸送・対米英物資供給遮断の目的も達成し、また長期にわたって日華事変で沈滞した国民の戦意も相次ぐ大戦果の報に鼓舞されてわき立っていったのである。
政府は全国的に翼賛壮年団などの組織体制を強化し戦争遂行に国民を総動員したのであるが、次は当時の下山村の翼賛壮年団の記録である。
下山翼賛壮年団護村運動実践ニ就テ
暴戻飽ナキ驕慢不遜ナル米英ヲ撃滅シ八紘一宇肇国理想顕現ノ一部タル大東亜共栄圏ノ確立ハ御稜威ノ下皇軍将兵ノ屍山血河ノ勇猛果敢、力戦奮闘赫々タル武勲ニ俟ツハ勿論ナレドモ、思想ニ経済ニ外交ニ教育ニ文化ニアラユル総力戦ニ対スル我等銃後国民ノ決意如何ニアリ、
特ニ国民一人一人ガ思想的ニ自己ニ巣喰フ過去ノ米英的ナル自由主義、利己主義、功利主義、金権万能ノ唯物主義ヲ完全ニ清算克服シテ「君が代を思う心の一すじに吾が身ありとは思わざりけり」「君が為世の為何か惜からん、棄てて甲斐ある命なりせば」ノ総ベテ大君ニ捧ゲテ悔ヒザル皇国民トシテノ本来ノ面目ニ立チ帰リ天晴皇国民トシテ黙々トシテ挺身郷土ノ人柱トナル決意ノモト職域奉公、臣道実践ノ誠ヲ致スニアリト信ズ、左ニ本団ニ於ケル護村運動ノ概況ヲ述ベン。
(一)精神教化ノ方面
1、教育ニ関スル勅語、詔書ノ聖旨ヲ奉体シ其ノ徹底ヲ期ス。
2、団体的行動ヲ行フ際ハ必ズ神宮、宮域ノ遙拝ヲナス。
3、御真影奉安所ニハ村民何人タリトモ必ズ最敬礼ヲ行フコト。
4、皇室ニ関スル御写真ハ鄭重ニ扱ヒ必ズ不敬ニ渉ラザルコト。
5、祝日、大祭日其ノ他国家的記念日又ハ行事アル日ニハ必ズ国旗ノ掲揚ヲナスコト。
6、四大節、拝賀式ニハ一般村民モ努メテ参列スルコト。
7、神宮大麻ヲ各戸毎ニ神棚ニ奉斉サセルコト。
8、神棚、仏壇ハ常ニ清浄ニシ毎朝礼拝ヲ行フコト。
9、神社境内及墓地ハ常ニ清掃ニ努メ春秋二回壮年団中心トナリ全村ニ渉リ墓地ノ共同清掃ヲナス。
10、神社ノ祭式執行ノ際ハ村民挙ツテ参拝ヲナシ毎月八日大詔奉戴日ニハ午前五時必勝祈願ノ神社参拝ヲナス。
11、壮丁検査及入退営、出征並ニ村名誉職員就退職報告祭ヲ一之宮神社前ニ行ヒ国民学校児童ノ入学、卒業、其ノ他諸行事モコレニ準ジテ行フコト。
翼賛壮年団結盟書
下山翼賛壮年団
宣誓
一、我等ハ皇国ニ生キ皇国ニ死セン
一、我等ハ率先郷土ノ人柱トナラン
一、我等ハ有ラユル困苦ニ堪ヘ国難突破ニ献身セン
一、我等ハ鉄石ノ決意ヲ似テ国内体制整備ノ推進力タラン
一、我等ハ同心団結シテ翼賛運動ノ尖兵タラン
斯ノ如クニシテ皇国臣民道ヲ実践センガ為ニ山梨県翼賛壮年団ニ入団シ郷土地域ノ単位団ニ所属スルコトヲ天地神明ニ宣誓シ奉ル
昭和十七年一月二十日
氏名 |
血判 |
古屋慶信 |
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松木安太郎 |
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佐野為雄 |
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石川恒雄 |
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(外六十八名の連署印) |
  
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