第二章 集落の発生と変遷第一節 先史時代の集落本町は急峻な山地性にとみ、渓谷が多く高原性の台地もなく河岸に迫った山脚の猫額の段丘から山腹に、漸く僅かな耕地が求められる程度であるから遺跡・遺物の分布状態は従来必ずしも明確に調査されていない。従ってこのような地理的環境は結果的には、先史時代の分布状態が本県でも、もっとも稀(き)薄な土地の一つに数えられている。 原始時代以降の遺跡によって集団的生活の移動状態を考察すると、一般的には山腹地帯から河川に沿って丘陵地帯に下り、更に湿地帯に漸次移行し、収集経済生活から生産経済生活に移るようになったことが推測できる。 低地に村落が発生するようになってから本町では、富士川の大河川を中心とし、それにそそぐ各支流などの沿岸に拠点を求め生活基礎を築きあげている。 これらの集落の上には郷・荘・村等の名称が冠せられ、時代的には郷が崩れて荘となり、荘が分解して村となった。 さて、私達の祖先が何時、どこから来てこの身延町に住みつき、どの辺に集落を形成して生活するようになったかは明確に推定する根拠をもたない。 現在豊岡地区の大久保、清子丸山付近、身延地区の寺平、大河内地区の桜井部落から僅かではあるが石器、土器片が発見されている。 このことから原始時代にある程度の人類が住んでいたことは確実と思われる。 これらの石器は打製石器・皮はぎ・石錘・石鏃などで、とくに石錘・皮はぎが多いことは一つの特徴といえよう。 またこれらの遺跡の共通なことは、石器の分量に比べて土器片の発見数は極めて少ないことである。 このように遺跡の確認が乏しいことは、文化圏という意味では山梨と静岡の遺跡群をめぐる飛石的性格のものであることの一つの証左で、おそらく文化の先進性をもつ国中或は東海方面から鳥獣や川魚、果穀を求めてこの地に入り、条件のよい土地に集落を作ったものと考えられる。 彼等の住居生活の様態は、未だ残念ながら住居趾が発見されていないので確言はできない。 おそらく簡単な竪穴住居を営んで、多くは1ヵ所に安住することなく獲物を追い果穀を求めて、絶えず移動し、縄文式土器とよばれる土器を使用し、石を材料として利器をつくり主として収集経済に依存する狩猟漁撈(ろう)の生活民であった。 また普通の集落にくらべて安定度は到底比較にならぬものであり、数戸よりなる塊状集落であったと考えられる。 集落の場所は川より少し上がった高台で、山崩れの危険性がなく、谷川がすぐそばにあり湧水に便利で、うしろに山を背負っており、南側に面した日照りのよい所が共通的条件になっている。 暴風雨、寒波等の自然の猛威に対して何等抵抗のすべをしらなかった人々にしてみれば、まずこれらの災害を最小限度にとどめ、しかも、生活物資の得やすいこれらの土地を選ぶのは当然のことであったと思う。 このような条件から推考してみると、粟倉・杉山・和田・一里松等が同様な条件を具備しているので、現在この地から出土品は発見されていないが、或は長い年月の経過によって流失したものか或は埋蔵されているのか、これらの土地にも当時の人が住んでいたのではないかと推断することもできる。この縄文時代の原始的集落はせいぜい10戸—20戸位、人口にして40人程度の人が身延町の中で相当長い間集落を形成していたものと思われる。 続いて弥生式時代に入るわけであるが不幸にして弥生式土器は未だ発見されていない。更に引続く土師器の発見もされていない。 このことは、おそらく、縄文期の終りごろ、すなわち弥生式時代に入って、静岡方面より河川の流域の肥沃な土地を求めて北上してきた農耕経済に依存する弥生人が、山あいの渓谷地帯で稲作に不適な本町の氾濫原を素通りして国中方面へ足をむけたものと思われる。 このようにして縄文式時代は、そのままの姿で弥生式、土師器時代を素通りして歴史時代へと移ったものと思われる。 |