第二節 古代および中世の集落
大和朝廷は、各地の豪族が盛んに壮大な墳墓を建設した時代である。この時代の特色は、埴輪(はにわ)をさかんにつくり墳墓のまわりをかざったことである。
前期高塚古墳がとくに八代郡の曽根丘陵に発達し、後期に至っていわゆる国中地方に一般に波及し、都留郡にも散発的に存在するが、本町に属する河内地方すなわち富士川沿岸一帯の山岳地帯には、この文化圏はまったくみられない。
当時の生活を示す土師文化も遺跡的には極めて散発的で、弥生式から引きつがれた古式土師器は見当らず、すべて国分式前後の土師後期のものばかりである。
以上の点から考察するに、この時代に入るとともに国中地方は益々繁栄していったことが想像されるが、この身延町を中心とした峡南一帯の土地は、弥生時代にひきつづき遺跡・遺物・墳墓等絶無の状態である。
縄文時代に先住したこの土地一帯が、ただ草木だけはえしげった無人の境地となってしまったのだろうか。この峡南の地方が歴史にはっきり浮かび上がってくるのは飛鳥・奈良時代を経て平安初期末に記された「倭名抄」に郷という名称で村落の名がでてくる。
参考までに倭名抄中の河合郷について諸書を引例してみよう。
甲斐国志を見ると八代郡中に5つの郷名を存し、その1に河合郷がある。
と解説している。
また巨摩郡中の10郷のうちにも河合郷がみえる。これについても と説いて巨摩郡の河合は今の西河内領にあたり、八代郡の河合は今の東河内領の地域であると説いている。
勿論(もちろん)これだけの解説では、その領域は不分明である。本町でも僅かではあるが民戸の形態が存し、そうした小郷的塊村が地方政庁の施政権としての河合郷に含まれていたことはうなずかれる。
また甲斐国志は と説いて、いわゆる富士川流域の一帯を河合と呼んでいたことを指摘している。
また日本地理資料を見ても、巨摩の河合郷について と説いてほぼその領域は大同小異であり、峡南一帯にわたって大小河川が山間を縫って富士川に合流することから、すでに各地に形成された村落を一まとめにしていったものと解釈するのが妥当と考えられる。
当時甲斐は32郷よりなっていた。そこで郷という言葉の意味を歴史の上から解釈すると大化の改新すなわち孝徳天皇の御代に、国・郡・里の制度が定まった。
これは唐の制度の模倣である。この制度に依ると50戸あるところを里と定め、20里あれば1郡をおき、数郡に1国をおくことになっている。
甲斐国は山梨・八代・巨摩・都留の四郡であるが最初の里数は不明である。
後、奈良朝の元明天皇の御代に郷の名称がみえていて、此の頃里のことを郷と呼ぶようになった。
なお郷の下に村というものが現れてくる。此の村の事を里ともいうようになってくる。
してみると、50戸以内のものを里とも村ともいったらしい。数里の上に郷というものがおかれた形になる。かく考えれば、郷というものは少くとも100戸以上の村落とみなければならない。「倭名抄」にでてくる甲斐の郷などは、200戸ないし300戸の村落があったのではないかと郷土総合研究誌ではみている。
このような郷が32あったことになる。してみると身延町には30戸前後の集落があったのではないかと推測される。
身延地区の寺平、下山地区の寺尾根の地名について次のような説がある。
寺平は往古大寺院が存在したということで、地名に関する伝説として伝えられている。その大寺院の五重塔のあったところと伝えられる地がお塔林という地名で残っている。宗祖御入山以前の伝説で現在では地名と口碑以外には考証すべきものは残っていない。
寺尾根は寺があったと思われるところに礎石がみつかり、また器物もみつかった。これに灰釉がつかわれており、時代を考証するに平安期から鎌倉時代と思われる。一説にこの寺は下山本国寺跡ともいわれている。
弥生時代から古墳時代の終りまで、無人地帯と思われるこの約1000年に近い時期について一考察を試みてみると、縄文時代の生活は狩猟や漁撈である。従って、前は海または大川、後は奥深い山のあるところが獲物も豊かで住むには都合がよかったであろう。それ故本町内の大久保、寺平等の河岸段丘上が理想的な生活環境であった。人々は求めてこのような土地へやってきた。
しかし、自然は必ずしも人々に満足な恩恵を与えるものではない。獲物はえられず木の実も実らず、子女は飢に苦しんだことも多かったろう。ところが、西より農耕文化特に稲作を中心とした農業が伝わってきた。不安な毎日を送っていた縄文人が、この安定した生活手段を見のがすはずがなく、競って農耕生産にはいっていった。
しかし、住居が今までのような段丘上や山間地帯にあっては当然水稲栽培はおぼつかない。湖辺や沼等の低湿地帯を求めて移動した。時に甲府盆地は南湖、青沼の地名で示すようにこの頃は湖沼地帯であり稲作には最適な場所であった。
こうして人々はすくなくとも以前のような不安と危険な生活からのがれることができた。これが、国中地方一帯に古墳文化を礎いた因(もと)になった。
その条件をもたない本町は無人化地帯となったのではなかろうか。このような状態が続いているうちに、平和と富はやがて人口増加をもたらし土地の狭隘(あい)をつげてきた。
そこで、農業技術の改善と相俟(ま)って人々は河川の流域をも開田することができるようになり、再びこの富士川流域をめざして来てすむようになったと考えられる。
また一面、河岸段丘上の人々が農業生産に接し、稲作をするため河床とほぼ同じ高さまで移動し、収集経済生活から稲作を中心として生産経済生活にうつり続けられたが、幾年か幾十年に襲ってくる天災地変のため弥生古墳時代の遺跡、遺物が消滅してしまったものとも考えられる。
平安末期になって荘園が発達した。元来大化の改新は、従来の土地制度を改革し、班田制となり公平に土地を分配し、平等に義務を負担させようとするものであったが時代を経るに従い、隠田の取締、戸籍の調査、土地の班給、田租の徴収など極めて煩雑な事務が続出し、いかに国郡司をとくれいしても徹底を期しがたく、その上人口増加という自然現象に対し、限りある土地を年とともに増加する人口に班給することは容易のことではなかった。ここにおいて朝廷は懇田開発を奨励し、荒野空閑地を開墾して面積の拡大をはかった。しかし、これらの新開地に対して三世一身、永年私有権の特権をみとめた。これが班田制の崩壊を促し、荘園制の発達を導く重大な原因となった。
荘園にはいろいろな原因があるが功田・賜田・勅旨田・寺田・神田等も懇田とともに重要な要素であった。荘園が増加するに従い公領・公田が減少し、国司・郡司の勢力がおとろえ、領家・本家の勢力が増大した。
平安時代には藤原一族の私有地は天下の半を占めた。土地公有主義が一変して、土地私有主義になってから国衙(が)の権力も全く失われ、法の精神を曲解したり法の裏をくぐるというような奸謁(かんけつ)な行為が立法の当事者や、法を守る人々から工夫考案されてきた。その結果は、国有地をあげて私有地に変改し公民を駆って私奴に陥れた。これが荘園の実態といえよう。最初はそれが彼処、此処に飛々に発生したが甲斐源氏が蟠(ばん)居するころには、国中に瀰漫(びまん)し鎌倉幕府の武家政治が樹立すると、この勢を助長して殆(ほと)んど公領をみないという形勢を馴致(じゅんち)したようである。
たとえ、公領の名を存するものでも、その内容において私領たる荘園と大差なき状態に堕し終ったようである。
このような社会的背景の中で身延町も急速な開田が進められ、集落が発達していったものと思われる。
即ち河内地方も河合郷と呼ばれる漠然とした地域の中に下山荘、また旧睦合村地区を中心に南部御牧が発生した。国志によりその領域を見ると、 とあって、波木井以南万沢までが、およそ南部御牧の領域であったようである。
南部御牧を興したのはいうまでもなく南部氏であり、その祖光行は、武田家の始祖武田太郎信義につながる加賀美遠光の三男で、南部を与えられてこの地に住し、南部の地名を姓としたものといわれている。姓氏家系大辞典をみると「初代光行、信濃三郎、加賀美遠光の三男母は和田左衛門の尉義盛の女、治承4年石橋山の戦に頼朝にぞくして軍功ありて甲斐の国南部郷を与えられる」となっている。
また加賀美遠光の流れを汲むものとして下山荘・帯金荘を形成し、後代に至るまで、勢力をにぎるその地方の氏族として栄えた。南部家系によると光行は六子あったが、その三男実長は旧八戸祖となり、父光行が糠部を領して鎌倉に仕えたように、父の旧領の南部郷一帯を支配すると同時に、主として鎌倉に在住した。姓氏家系大辞典に「清和源氏加賀美氏族、甲斐国南巨摩郡波木井邑ヨリ起リ又羽切、羽切井、破切居等ニ作ル、南部光行ノ男実長波木井・御牧・飯野ノ三庄ヲ領シテ波木井氏ヲ称セシニ始マル」と見えている通り、実長は父光行の居城並びに印領を受け、併せて波木井・御牧(相又)・飯野(大野)の3郷を領し、波木井に居住したので波木井殿と称するに至った。
下山荘の下山小太郎光重は
下山小太郎光重は1200年頃下山ニ入り、その後六代に渡って西河内領を統治したものと思われる。その子下山兵庫介光基、3代四郎と約100年間は下山本国寺境内あたりに館をかまえていたものであろう。
これらの人々の大部分は静岡、国中、伊那谷方面の豪族や勢力のある一族の分家で、新しい領土を求めてこの地に入りこみ、川の氾濫の恐れのない氾濫原よりやや上った所に居をかまえ、共同して堤防を築き用水路をつくり田を開いて集落を拡大していったものと思われる。
身延山久遠寺は日蓮宗の総本山として、文永11年(1274)日蓮が波木井実長の請を許して蓑夫山西谷に草庵を営んだことに濫觴(らんしょう)し、弘安4年11月実長別に十間四面の大伽藍を建立し、身延山久遠寺を開基したのに創(はじ)まった。
翌5年日蓮は、武州池上本門寺に赴いて入寂したが、骨を身延に埋めんことを遺命したので弟子之を奉じて納骨堂を営み、文明の頃11世日朝、西谷の伽藍を狭隘(きょうあい)なりとして今の地に移し、大伽藍を起して法論を転ずること40年宗風大いに振興し、一山の規模最も完備した。武田・豊臣・徳川諸氏も厚く之を保護したが歴代貫主の経営と相俟(ま)って益々隆盛をきたし、諸国の参詣者が雲集した。これに伴って身延町の門前町としての発展は目覚しかった。
門前町の構成は普通形式の一直線であって、山門の前には僅かに袖町がみられる。門前に近づくに従って、門前町の色彩が濃くなるのがうかがわれる。
甲州一円が武田氏の支配下におかれるようになると、その親族である穴山氏が河内地方に入り、居館を政治的戦略的の要地と考えられる下山にかまえ、河内領一円支配の達成をすすめた。この地は河内領の略々(ほぼ)中央に位し、甲府と駿府の中間にあって商工交通の面で一中心をなす所でもあった。
穴山信友、信君(梅雪)勝千代にわたって各所に寺や宮を造りながら地域開拓し河内領の繁栄をはかったのであるが、特に城下町下山の経営に力をそそぎ、京師の神社仏区の名号に準擬(じゅんぎ)して寺や宮の地盤を造ったといわれている。このことは、穴山氏が寺領を的確に把握することによって、自己の支配力を強大にしていったこともうかがわれる。
この当時の下山が、甲駿を結ぶせまい富士川渓谷の西岸にあり、河内領第一の殷邑(いんいう)として栄えていたことは各種の文献によって知ることができる。
信友花押文書によれば「新宿西15番同屋敷出置候急度家結構可相立者也仍如件。弘治4年3月6日 亀山新左衛門尉」とあり国志では「新宿ハ穴山氏居所下山ナリ」としているが、これに対する本宿は南部宿であると一般に考えられている。
弘治4年(1558)は信友没去の3年前であるが、新宿西15番という字句から推すと、下山は信友によって計画的な城下町の経営がなされていたものと思われる。
このことは下山各町の町名がすでに江戸時代初期からあったこと、寺院の過去帳や各地に残る大工文書、棟札等から知られる。直線的な道路、両側の屋敷地がほぼ同規格の間口をもっていること、役引大工の居住した番匠小路の屋敷区画が計画的であったこと、さらに社寺および村内全戸に売買を許さぬ「屋並わり」と称する面積1畝16歩(約1.4アール)の水田が、一地域に整然と区画されていることが、穴山氏の設立と伝承していることなどから推測することができる。
したがってこの当時の下山の戸数も4、5百戸あったと思われる。
  
|