第三節 近世の集落

 江戸時代は全国的に人口の変動のなかった時代であった。徳川幕府成立以来長期にわたる太平の年月が続き、この間幕府は国民生活の安定を図り、殊に経済生活の基礎である農業の振興と農地の開発に意をそそぐとともに、一方百姓に対しては勤険節約、奢侈(しゃし)遊惰の厳禁、衣食住の制限などを加えて、中央集権的政治形態を強めていったのである。
 しかし、反面に於て、生産技術の向上や治山、治水工事の促進、養蚕・植林などをすすめ、生産力の充実を図る方策もとり波木井新田の用水・大野用水その他相又など大小さまざまの用水が、この時代にでき、やがてこれら地域に新集落の誕生をみた。即(すなわ)ち、江戸期勧農政策による小規模新田集落的なものであった。
 また、仏都身延山をとりまく門前町の保護政策による門前集落の飛躍的発展や、波木井氏滅亡後、武田隆盛の時代の下山城を中心とする城下町的様相を呈した下山部落も、穴山氏失脚後は戦国領主の戦略的支配権力が失われ政治的・経済的な自立をはからざるを得なかった。しかし、長期間にわたる穴山支配により自主制を剥奪(はくだつ)されていた庶民は、急転直下の支配者の交替による動揺はかくすことができなかったであろうが、天輪寺検地帖などから推察するに、在地武士を中心とする農民支配から、やがて名主的性格の農民支配へとかわり、一般村落的な集落への変化をしていったであろうし、同寺検地帖からも零細な小農民が多く、さらに寛文9年(1669)の検地帖からみても、下山の耕地総面積はさほど広いものではなかった。水田面積に比し畑地が多く、しかも中畑以下が多いことなどから、生活の苦しさのため、農耕以外に現金収入の道を考えねばならず、従って、今でも残る「作間大工」・「百姓大工」の呼称のように農閑期の出稼(かせ)ぎが多かったものであろう。
 これに加えて、穴山氏時代河内領支配強化のため、下山宿の築城とともに、各支配地安定のためにも職人の急募を必要としたものであろうし、これら多くの職人統制のために種々の特権を与えられたし、支配中の下山番匠の名声は甲斐はもとより、穴山支配地であった駿河富士郡一円にも活躍していたものである。
 従って、下山村の江戸期以後に於ける集落の構成も、永くこの二つの結合による変遷の中に発展していったものと思われる。その他近世における身延町の集落の多くは、谷口または小扇状地、河川の段丘地に発達したものが多く、せまい耕地で、後背の山林経営による自給自足経済を余儀なくされており、生活の程度はごく貧しいものであった。
 また生活物資を外から得ることの困難さのために、地形的にも最も得やすい地点をその居住地に定めたものと思われる。従って、これらせまい集落内での交友関係は相当緊密なものがあり、一集落内の同一姓が極めて多い。同属的部落的集落の形成はこの間を物語っているものと思う。
 波木井の近藤・藤田、塩沢の望月、相又の市川・千頭和・望月、門野の堀内・小林、大城の手塚・大野・望月、小田船原の遠藤・大村、大島の若林・片田、和田樋之上の滝川・望月、垈の熊谷、角打の市川・平田、大崩の佐野、塩之沢の鈴木・長谷川、椿の松野、帯金の望月・伊藤・深沢、八木沢の佐野・鮎川、下山山額の井上・望月、仲町その他の松木、石川姓など一般に土地によって結合されていた地域的団体の発生以前は、血によって結びつけられた血族的集団をつくっていたといわれている。
 そして此の血族的関係による定住的村落構成は、極めて強固な形で封建時代にも存続し、血族的団結が同時に居住する集落・村落共同体の経済的基礎を確実にする力となっていたものである。
 わが国の村落は、封建領主のもとにあって、領主武士集団の生活維持の動力であり、領主の政治的勢力の裏付けともなっていた訳である。同時に領主・支配者に対する徴税機関でもあった。このため、名主・小地主・小作人など一つの自治体でもあり、一貫した支配体制による中央集権的な上意下達の機関ともなっていた。
 近世における村落発生上、氏姓関係による集落形成が一つの有力な手がかりとなっているが、上代の氏姓関係と同様な基礎はあったにしても、かならずしも一つの氏族—家族という関係ばかりでなく、いくつかの家族が共同して一つの村を開いた場合もあり得る。
 本町内の各部落の発生をみるに氏族—家族の関係が最も多いように思われるけれども、近世中期の頃になると、すぐにいくつかの家族の共同体的集落の形成に変ってきている。
 このことは門前町としての身延山・大野山の門前、穴山氏没落後の下山集落に、また金山発掘後定着したと思われる大城湯平などに時代の流れを思わせる。
 また反面下山の大石野・杉山、大河内の大垈・大崩・椿・垈などに見られる氏族—家族的な村落は、交通上の孤立化の中で、一つの家族による村の起源をそのまま維持して来たものと思われる。このように、耕地の極めて狭少な山岳中腹に残る部落と、封建制下で交通の概して至便な谷口状地帯にあって支配層の政治的変遷にともなう地域にあっては、同姓的血族関係もまた多少の条件が異なることがあり得る。
 本町における多くの集落の発生およびその形成は、種々複雑で多岐(き)にわたっており、立証する資料もこと欠く状態ではあるが、極めて特徴的な部落の形成を見ることができる。

一、寺領内に発達した門前町身延

 寺領としての身延門前町、すなわち久遠寺の建立による門前町の発生については、いつの頃からかはこれを証する古資料に欠けているため不詳であるが、おそらくは、第11代日朝上人が文明7年(1475)西谷より現在の山腹に堂塔伽藍を移して以降であろうことは、ほぼまちがいないであろう。従って、本格的門前町としての発達は足利末頃からであろう。なお、上人は学術の振興とともに制規の粛正、年中行事・月行事輪次などの組織化をはかり、各坊交替で久遠寺の当番制を明確化した。
 全部で19番、各番2坊で当時の坊の数もおよそ38坊と推察できる。その後武田信玄の父信虎の時、日伝が悪疾を平癒(ゆ)したことにより甲府信立寺を建立し、永禄元年(1558)7カ条にわたる禁制状を下している。
    禁制
 一、殺生禁断之事付於寺内射弓放鉄炮事
 一、任代々判諸役免許之事
 一、押売狼藉之事
 一、寺家中町中諸公事任寺法之上為衆徒中向後不可有非分之沙汰之事
 一、大坊並僧坊下人之外或号他之被官恣借俗家之権威族町中不可許容之事
 一、当国中身延山末寺之事如先々可為聖人御計之事
 一、身延山寺中並町中之事如先々永代可為不入之事
   右之条々任先般仍而如件
   永禄二年十二月九日
                 武田信玄 花押
 すでにこの時代には門前町としての形態が整っており、身延山そのものも諸役免許の保護を受け、寺域の中における町の支配はすべて久遠寺に帰していたことがわかる。
 しかしながら、この時期における人口・戸数などを知るための資料は、得ることができないので門前町の規模等をはっきり察知することはできない。
 天正9年下山城主穴山伊豆守信君梅雪斉不白より
貴寺門前諸役等任旧規例令免除之解者以此旨寺役厳重可被仰付之者也仍如件
 天正九年辛巳五月朔日       不白(花押)
 久遠寺
河内領支配中身延山寺領に対しては、信玄同様、諸役免除は従前の通りにすべて久遠寺に一任の状況であった。
 天正16年(1588)11月10日徳川家康より朱印状を下付している。
 
 2代秀忠の朱印状は、家康とほぼ同文であるが最後の条に
一、会式関免許之事当国中身延山諸末寺中寺役免許之事
 という一項が加わっている。家康の朱印状を下付した天正16年より先第14代日鏡上人と家康との人間的関係により、身延山に対する外護の結果がこのようになって表明されたものである。この頃の身延山内の教義並びに堂塔結構ともに、次第に整備されるとともに戦国時代の不安定な社会機構から、封建的支配体制の確立による人心の安定により宗門の発達は目を見はるものがあったし、宗教的諸行事も一定の期間に行なわれるようになった。
 毎年10月10日から13日まで3日間にわたり宗祖御入滅の会式が行われるについて、全国の身延道者が、身延山に雲集することに対して信玄は、その開山会式保護のため穴山信君に次の書状を与えている。
「身延の会職に就き、両口の往覆恒例の如く申し付け候」
  九月廿九日                信玄(花押)
  彦六郎殿(雑々留記)
 他に、「武田の身延攻め」の説話もあるが、身延道者のため、ひいては一山保護につとめていた。当時通行の便悪く、信仰のためとはいえ生活の苦しい一般庶民のため、その旅費の一部に当てるよう携帯する米・布・糸の3品一定量について10月10日から13日まで、鰍沢黒沢両関の通行税も免除をした。
 下って慶長4奉行連署書状写(身延文庫)によると、徳川家康も同様信玄の免許を引継いでいたことがわかる。

 「先例に任せ今月十日より十三日に至るまで身延参拝の男女路銭本布は五端、六端、糸は十つれ十五つれ 米は五升六升を限り役の儀改無用に候者也」
勺十月朔日                   名 四 郎 印
                        跡 九 郎 印
 鰍沢黒沢役所中

 勺は寅で慶長7年(1602)に当る。その後2代秀忠の朱印状も家康のそれとまったく同じものであるが、その最後に
 「会式関免許之事当国中身延山諸末寺中寺役免許之事」
という一項が加わっている。「会式関免許の事」とは万沢宿の顕本寺、鰍沢宿の蓮華寺が諸役免許の上、毎年10月10日より3日間会式のとき両所の関所を預り、会式参詣の老若男女に限り手形がなくても通行せしめたというものであり、一般的に幕府直属の関所にくらべいわゆる口留番所の主たる任務が、欠落・商人・参詣・遊山等の往来者の監視と物資の藩外への流出防止のための取締りをする事にあった。とりわけ、その中でも後者の任務に重点がおかれた。総じて、口留番所の手形は領内の最も近い番所で受け、出口で渡すのが通例であり、又流出の禁制品なども、米・木綿など主要なものの一つであり、その他多種多様な範囲に亘っていたものと思われるが、前記秀忠の朱印状にあるごとき関免許の事を、たとえ3日間であるにせよ両所に関所を置く事を許したことは、封建制度の厳しい中に特異なものであったことと思う。ひるがえって、このような免許を与えたことから身延山を中心とする日蓮教団全体の興隆と、支配権力確立のための宗教的宣撫工作的意義はあったにせよ、次第に日蓮教団に対する信仰も公家・武将などの上流階級の間に広まり、その発展もおさえがたいものがあったであろう。このことが、直接間接に日蓮の墓所たる身延山への関免許となって表われたと断じても、あながち独断ときめつけることは出来ぬのではないだろうか。
 この時期の門前町内の発展の様相については他に知るすべとてないが、多くの参拝者が、駿州路から或は甲駿身延往還から、会式はもとより一般参詣者としてひきもきらず集ったことは想像にかたくない。さらに、この間の身延山ならびに門前町屋敷などに対する22世心性院日遠上人の慶長9甲辰(1604)7月27日の「身延山掟」同年冬7日「町中掟」18条をみると、詳細はともかくとして大方の町方の生活の状況なども推察することが出来る。
 
 この掟は、当時ようやく仏都身延の門前町として規格もほぼ出来上がり宗門も教団ごとに各層各界に宗風の宣揚がはかられ、諸寺隆昌の状況にあったし、山内房舎中祖師堂(20間4面)、本堂大客殿(13間4面)、慶長4年(1595)村雲日秀尼(棟札)、五重塔、奥之院祖師堂を元和5年(1619)寿福院により建立(延歴譜)、さらに、寛永13年(1636)養珠院、今村正長による大会合所を建進して、名実共に隆盛の一途をたどっていた。又慶長9年(1604)日遠は現身延山大学の旧西谷壇林を開き、江戸時代の山内は言うに及ばず、宗門全体の行学両面にわたって上下の人心を指導する幾多の人材を送って、社会渉化、教団昇揚の原動力をなした。これら一連の山内の整備躍進は、必然的に祖師日蓮の師徳をしたう信者が、山谷の身延に数多く集ったことは申すまでもない。従って宗門の発展と宗律の厳しい当時の封建制下にあっては、宗団全体の権威と尊厳を保つ上にも、厳しい戒律と規律を必要としたし、そのための身延山掟、町中掟など相次ぐ制定により、山内を始め門前町全体の信仰への体制を固めたものであろう。
 掟により町の生活を推論する。
 「町中掟」により当時の門前町民の日常生活の一端もうかがうことが出来る。
 第一に寺領内における町民は深く信仰に励み祖師への参拝をすべきこと、さらに、堂参については心身の潔白を保ち、専心寺域の清浄なることにつとめるため、女人と出逢いの後の寺域内立入り禁止をしている。宗団のメッカとしての身延山に宗教的尊厳さを保ち、全国信者にその幽玄さを得させる事は、宗門の発展上欠かせないことであった。寺領内門前町に対する厳しい日常生活への規制は当然のことといわねばならない。谷底の細長い急坂沿いに、階段状の集落を形成していた、門前町は耕す耕地とてなく、おそらくは完全な消費一方で、信仰三昧の客相手の商業中心の町であったであろう。寺領内の耕地として、わずかに上下塩沢、現在の清住町、塩沢の畑地が主たるものでこれとて、耕地面積にしてわずかなものである。
 江戸末慶応4年(1866)8月、朱印境内及年貢地として、甲府総轄に提出した祖山由諸書転写と思われる文書によると
 一、朱印境内 右境内之内山林追々切開山畑出来仕候只今有石高弐拾八石八斗五 升九合弐勺
 一、御年貢地 高百弐拾六石三升三合七勺 右九ヶ村之内、所採仕候 石高候
   (以下村名のみで他は略す)
 黒沢村・大鳥居村・市川大門村・戸田村・天神中条村・長沢村・東南湖村等々、東西河内郡のいずれも北部一帯、つまり盆地南端に年貢地を持っており、此の地方よりの年貢により、祖山の経済の基盤が成立していたものと思われる。従って、農業生産の皆無に等しい寺領内町民が、経済生活の基準たる米の売買に、他所との比較によって、相場のつり上げなどを行ない私利私欲を肥し、町内の混乱を未然に防ぐための寺側の支配、又は権力の及ぼす範囲は、もっとものことといわねばならない。
 第2に地形上単純道路に従って、屋敷割は階段状に奥行は深く短冊形に強制的に区画したもので、通常平等に3間間口とし、本陣宿その他町名主棟梁など特殊なもののみに6間の間口を与えた。このような土地狭少な地域を、出来得るかぎり多くの人々に平等に、そして門前町としての体裁を整えるため区画整然としたものと思われる。このような密集した階段状集落は、水利の便悪く、こと火災による被害は想像以上の損害を与えるものであり、ために夜回りなど火災の用心にことの外力を注いでいた。さらに整理上、ならびに寺支配の統制上、屋敷の自由売買をきつく禁止していた。
 門前町の発達と共に、町に対する支配の形態も漸次返還の方向にあり、殊に大坊の町中に対しての支配権力も強化されていった。と同時に、此の頃棟梁其の他の独占的諸制度もあらわれ始め、藩幕支配体制の中にあって寺領内も特殊な立場をとる事が困難になっていったものであろう。
 大坊の支配権の強力さを認めるものに、延宝年間(1673の頃)の「門前町法度」がある。
 当門前被仰出之条目
一、家屋敷物質の事
一、家屋敷買売の事
一、内証而致契約差出事
右三ヶ条於違犯者 本人 証人可為追出并五人組□□為罪過者也但被官叶子細者 内規本院納所可請下知者也
  延宝三乙卯歳四月十五日 当番南泉坊
 門前町内における寺院の権力は、山内僧徒のみでなく寺領内全域に亘り、町人の経済生活に対してもその支配権は強力であった。
 江戸時代の商業は、鎖国制度により外国貿易は厳しい制限下にあったため、専ら内国市場に閉じこめられたが、その特質は、1、市場の著しい拡大、2、専門化した商人商業が多く現われてその内部にも分化が行なわれた。
 3、投機が発達したこと、4、商人の社会的勢力がその商業資本の蓄積と共に著しく増大したことなどが、その特色としてあげられる。
 本来この期に於ける商業は全国的な都市の発達、交通の発達などにより市的商業から最大の商品である米蔵物などの市場の拡大が急激に行なわれていったのである。当時の諸候は封地と共に江戸の生活と二重生活を余儀なくされ、その江戸の生活の経費を生むためには必然的に中央市場へ米、その他の封地の国産品を回送しなければならなかった。大阪における蔵屋敷は元禄年間97、維新の際は135に増加したといい、当初蔵米の販売は各藩の家臣によって行なわれたが、後には商人が蔵元となって販売に当ることとなった。
 これ等は蔵米は入札法により仲買が払い下げ、納屋米は雑穀問屋が引受けて販売した。
 このような大量取引は、市的小取引から市場への拡大となり巨万の富をもつ商業資本家が、各地に出現してくる訳である。
 しかしながら、身延町門前町に於ける商業の実体は、全国的な市場の拡大の中にあって、地理的要因、集落規模などからみても、とてもそれに見合う程の発展を期することは出来なかった。但し一部に於ては全国的なこれ等座商の影響下にあって、仲買は他国商人及び小売人の注文を受けて問屋より買入れ、これを売渡したり、又これ等商品を、一定の定期市にて販売する程のものもあったが、戦国以前の原始的な商品流通から、加工商品流通へと全国的な商品流通に変っていったことは、推察の外はないがはっきりいえるのではないかと思う。
 慶安4年(1651)の「垣市」に関する文書からみても、町内商業の規模はいたって少規模のものであった。
  一月六度垣市之事
上旬両度 上宿惣町中 中旬両度中宿惣町中 下旬両度下宿惣町中
  高荷之事
上廿日 宿太郎 下十日惣町中
右旨違乱之輩可為永代追放之罪科仍而所定如件
  慶安四辛卯極月三日
 このような小規模商業は当然、門前集落の規模との関連によって推察出来る訳で、物品の需給は人口の多少により変化してくるものである。
 信仰集落としての身延の人口の移動は、他の集落と比較して特異性のあるものではあるが、古記録など明白なものが多くなく調査方法等も一定したものでないので、人口動態も多少流動的で判然としない点もある。
 貞享3年(1686)7月、(筆者不明)(端之坊蔵)による。
   町家数
一、上町  東拾五軒  西谷拾五軒(三〇)
一、仲町  東廿二軒  西二拾軒(四二)
一、下町  東廿軒   西廿四軒(四四)
一、狐町  東拾二軒  西廿二軒(三四)
一、上塩沢  十三軒  下塩沢 廿八軒
一、裏町  五拾一軒
 〆  二百四十二軒
 甲斐国志に拠ると万延年間の人口、戸数は次の通りである。
山内僧徒 百六拾七人(西谷壇林を除く)
 下男 本院八拾二人  拾舎 百五拾余人
門前戸数 三百拾弐戸
 内訳 身延山町 弐百五拾八戸
    新宿   弐拾壱戸
    塩沢   参拾参戸
 人口 男 五百弐拾七人
    女 六百九拾人
    計 千弐百拾七人
 又明治3年8月改人別帳には
 本山(方丈支院共)
  寺数  百弐拾軒  人口弐百弐名
  町方  二百六拾弐戸 人口九百拾参人
  高   八拾二石六斗六升弐才
  酒造  三軒  馬  拾六匹
 貞享以前の古資料がないので詳細な比較と発展の過程については、わからないが江戸の比較的初期に当る、貞享年間の町内民家の配列をみると、細長い参道に対して東西ほぼ対称的になっており、江戸初期に入り門前町の構成ができ上っていたことが、判然としている。上・中・下町については、わずかではあるが西側に家並が多いのは東側より身延川までの平垣面が多いこと、狐町については逆に参道と身延川までが狭小で然も断崖になっている。
 地形的制約もあり、今日の状況と相通ずるものがある。
 貞享3年7月(1686)門前戸数151戸それから174年後の江戸の末期、万延年間に258戸、さらに明治3年(1870)8月改人別帳には262戸とあり、この間およそ10年間の増加率はほとんどなく、約185年間に100余りという状態からみても幕藩体制下の寺領内における寺方の支配権力の強さが感得できる。と同時に、前記「当門前被仰出之条目」(延宝3乙卯歳4月15日)の中にもあるごとく、家屋敷の売買から入質厳禁の沙汰などからみて、町方への統制の厳しさが思われる。
 このことよりみて町内人口の動態が行なわれなかったのも、けだし当然のことではないかと思われる。
 当時、全国的に農民層の分化によって、幕府および諸藩の物質的基礎は動揺を受けていた。この期に田畑永代売買の禁止の条令が出された。
 しかし分化の一途をたどる農民は生活の赤字補給のため、借金・借米はもとより田畑の質入れを行なわざるを得なかった訳で、このような方法による、法令のなしくずしが各地に行なわれていた訳である。
 身延町門前町においても、信仰の対称である山内は勿論門前町に対する世俗化防止と、一面町内住民の権利の保護保全ならびに、在方農民の土地放棄に伴う生活基盤を失ったことによる、信仰への依存などから町内への流入も日増しに増加したものであろう。
 これに対する防止の方法として、条目の制定を施行せざるを得なかった必然性もあったのではないだろうか。