二、下山部落の発達について
穴山氏支配以前の下山の状況を大まかにみると、12世紀新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏が、各地を占領して強力な勢力をもっていた。
河内地方は東河内と西河内を各々川合郷と呼び、その中に加賀美・市川・逸見荘などともに岩間庄・下山庄などの荘園があったことは中世の諸文献にもでている。
国志古蹟部には というように二つに大きく区分されていた。
さらにこのことは村里部においても と記されている。下山とは「治府ノ方ヨリ指ス言葉ニシテ北山向山ト云類ナルヘシ一時ノ庄名ニシテ南部以北ハ此庄ニ隷ス」とある。さらに西河内が下山43村、南部20村と村数が明白にされていること、さらに下山なる地名の由来については、単に府中よりの方角を示すものであるといっている。
東西両河内の村落の状況は、おそらく中世的な渓頭または谷底村落がそのままさしたる変化もみせず、近世初頭の穴山氏支配時代まで続いてきたものと思われる。
さて国志によると「東西河内共ニ西郡ヘ引続キタル地ニテ皆加賀美氏ノ伝領ト見エテ古址ノ存スル事モアリ故ニ南部、下山ヲ始メ氏族多ク分処セシ趣ナリ」とあり、西部一帯を領した。
加賀美荘は加賀美遠光の一族がこの地に配され、各々部分的居住を営んでいた事が記されている。尊卑分脈をはじめ多くの系図によると遠光の男光行が河内の南部を領して南部氏を、同じく遠光の男で秋山に居した光朝の男光重が、下山に住して下山氏を称していた。いずれにせよ、遠光一族が河内領内に占める勢力は、絶大なものがあったといえる。
甲斐国志に引用されている吾妻鏡によると文暦・弘長・建武年間に下山次郎入道、下山兵衛太郎、下山修理亮などの名前が見える事によって、下山氏は鎌倉幕府の御家人であったことがわかる。また日蓮遺文集には下山兵庫五郎殿御返事とあって下山兵庫五郎の存在も明らかである。彼は日蓮に帰依した人で高祖年譜に「下山邑主兵庫光基受戒」とあり、建治の頃であることから大体光重の男位にあたる。この場の下山邑主の下山の地名は、前記下山43村(国志による)は中世荘園制の場合の大郷であって、高祖年譜による下山邑主は、狭意の下山つまり小郷としての下山一村支配をさすものと思われる。
その後の下山氏については、国志に「古人ノ説ニ下山兵衛六郎入道者先祖ヨリ六代本村ヨリ居住セリト云伝ヘタリ」。さらに同じ頃の国志には、「信玄ノ頃ニ及ビテ聞タル人ナシ」とあるのみで、その後の下山氏の所在については何等の史料とてなく、どのような経過の中で、穴山氏がとって変ったかは判然としない。
しかし、穴山三代信介は刑部少輔といい、宝徳2年(1450)3月19日に歿(ぼつ)し、下山天輪寺に、法名天輪寺殿英中俊公太禅定門なる牌子がある。以後八代勝千代までの年代については代々法名が明白となっていることからみて多分に彼を穴山第1代とする者が多い。しかし、穴山氏下山居住については、史実の上から問題が残るが、おそらくは6代信友の頃からであろう。
6代信友については南松院蔵 大般若波羅密多経、百十一巻の奥書に「再興此経全部六壇那甲州河内下山居住武田伊豆守源信友現当二世願望従心」とあって信友自体下山の居住を認めている。
その他甲斐国志西山上山湯大権現奉納の鰐口に、天文15の在名にて「下山住一閑斉」の名が見える。また大般若経奥書に「一閑斉書之」とある。
一閑斉そのものは不明であるが、穴山氏下山在住はすでに天文15年(1546)以前であることが認められる。
さらに国志士庶部府中の亀山新左衛門尉(穴山町)「同時の者所蔵スル弘治四年三月六日穴山信友花押の書一章、新宿ノ西十五番目の屋敷出シ置候ト云云」(新宿ハ穴山氏ノ居所下山ナリ)と書かれている。弘治4年(1558)信友の書に新宿とあることからみて、下山築城は弘治4年以前であることも、しかも、当時下山城を中心に、新しい城下町の建設が着々進められていたことは当然のことであろう。いずれにせよ、穴山氏の下山居住は15世紀から16世紀の頃にかけてであり、居館は下山氏の居館の跡であったと言われている。
下山氏のその後については不明の点が多いが、穴山氏の居住の始まる頃の15世紀から16世紀の頃に絶えたものであろう。
このように南部より下山への移住により、西河内における穴山氏の支配体制は確立されていったが、伝馬文書などによると南部が本宿下山が新宿と称せられていた。
特に下山については国志の中で「河内領第1の殷邑なり」とあるように、河内支配の中心地として、下山の結構も次第に整うとともに、地理的条件からみてもその中央に位し、富士川・早川の合流点で、身延裏山諸峰から流れる大沢、不動沢などの流れの間に丘陵状に突出している山麓である。
城塞としての条件には誠に恵まれていると言える。下山城の詳細については、資料としては何等見るべきものがなく推察の域を出ないが、大体中世末期の城郭の様相がでている。これはこの頃の特色として、平地や丘陵における防備を施した居館と、臨時的な山城の両者とからなっている。国志古蹟の部に「本国寺の境内および村居に係り処々に残涅荒塁存シ調馬埓ノ蹟等アリ寺境ニハ八幡宮ノ社ヲ建テ穴山八幡ト称シ祀ル此処ハ居館ナルベシ寺前ヲ大庭町ト云本城ハ西ノ山上ニアリ今ニ城山ト呼ベリ……。」通常、居館となる丘陵に拠ったものは、自然の地形を利用している。ちょうど城郭の部分南は、矢沢沿いに10メートル内外の断崖となり、東はなだらかな丘陵で城郭前方富士川をはるかに見下す位置にある、守るに安く攻めるにむずかしい立地条件となっている。
城の縄張りは不規則であり、自然の地形そのままに利用している。「城山ハ西ノ方山上ニ在リ」と、国志にあるごとく高い山城となっている城山は海抜およそ250メートルの地点にあり、有事の際の拠点であった。
さらに国志には「今ト伝フル所ハ穴山氏の城墟ナリ穴山ハ武田ノ令族威望アリテ驕殷ナリ嘗テ京師神社仏区ノ名号ニ准擬シ城辺ニ数多ノ寺社ヲ建立シテ繁栄言ハカリ無カリシトゾ——今ニ名ヲ存スル者ハ——」以下城郭を中心に東・西・北とこれをとりまくように20余の神社・仏閣ならびその威容はまったく目を見張るばかりである。
西に上加茂明神(一の宮)下加茂神社(二の宮)飯縄権現(三の宮)南小院と配し、さらに西の山腹に龍雲寺・妙見寺その南に長谷寺南に堺の宮・住吉明神・小原地蔵・子安八幡宮・稲荷明神・清水観音、北には北野天神・八王子・御崎・玉ノ塔・藤ノ社・鈴鹿明神・日吉山王・愛宕権現などを配している。
国志にあるよう「京師神社仏区の名号に准擬シ」とあるように正に京師の観を呈しているような感じがある。
ほんとうに驕殷(きょういん)である。近世までの城郭は、通常周辺に神社仏寺を配するが、いずれもこれ等や仏寺は一つの塞となったものであったが、一面にはこのような意味あいもあったものであろう。
「本村ハ西ニ山ヲ負ヒ民戸ハ駿州路ニ添ヒテ南北ヘ長シ山壑ハ南身延ヘ続キ波木井村ノ方ニ堺ノ宮、北ニ関嶋ト云処アリ、関門ノ址ナルベシ」と国志にある通り小規模ながら南北の往還に関門を設け、治安対策にまた居城防備に当らせていた。
穴山支配時代に信介の時からみても1世紀余りの短い期間であり、殊に戦国の乱世に在って、ほとんど大半が出陣の連続であったし、また信君時代は数年であったが、江尻城在城の期間などもあり、近世の城下町的な形態をとることもなかったであろう。
一般的に戦国武将の城下町は、かつてその地方の中心であった寺院の門前町が多くの場合、城下町に吸収させられたものである。この理由はいろいろあろうが、当時の武将の信仰と深いかかわりのあることは言うまでもないが、仏教の世俗からの解脱を願いとすることから、主として要衡の地に建てられ、寺院そのものの保護と同時に、その門前が一種の保護を受け、一般農村とは比較にならぬ特権をもっていたことは、身延山門前町発達の中でも充分知り得ることである。
このことから、民衆の門前への集約は加速的に進み、集落の発達のし易い状態にあったものである。
大体に於て、下山村の部落的集落の発達は、戦国期のこのような状態が大体今日まで続けられていた。
一宮の参道両側に大工町、龍雲寺門前に山額・長泉寺・常福寺門前の荒町、天輪寺門前の大庭など戦国城下の様相を特徴的に表わしているものであろう。
本来穴山氏の河内支配の経過は、当時、小豪の分拠していた河内地方は、荘園の警察権、徴税権、下地管理権をもった地頭が、時代が下がるに従って自己の権力を強め、時には下地中分や半済の制度まで行なうようになって、次第に地域的支配の領主に昇格していったのである。例えば、岩間・飯富・四条氏など、その他帯金・常葉・万沢氏など、武田家臣となり領地を出て行くか或は又、大方穴山勢に吸収制圧されて、どうやら命脉を保つものなどあった。そして、これら土豪は又武田分国と同様、自ら寺作地の経営に当り、一朝有事の際は支配地内の物見番所等の鐘、太鼓、又は狼烟(のろし)などにより一同武装を整えさせた。国志古蹟部に「其南ニ対スル高頂ヲ奥ノ院ト云其下鐘打場ト云処アリ(竜雲寺の上ナリ)」とあるのを見てもわかる。平時はほとんど城下に住していたものと思われる。穴山期の人口、戸数、城構など明細にはわからぬにしても、当時の諸城、城下町などからみて、専門的武士集団は、常に城中に奉仕して特別の軍役もなく蔵米をもって支給されていたものが相当あったものと思われる。しかもこれ等の集団は、城中に屋敷が立ちならんでいたものであろう。人口は全体の規模からみて、侍・町人・百姓を合わせても2,000そこそこ位のものであったであろう。 当時の人口構成は判然としないが、寛文9己酉年9月9日(1669)甲州河内領下山村御検地屋敷水帳から戸数をみると、「大庭二四、本町五四、六間町三三、中町二〇、新町一三、荒町二〇、大工二一、杉山一二、山額一六天神四、大沢二、民家二一九蔵屋敷一戸(一二間×一二間四畝二四分)
屋敷合計三町八反九畝二五分
田 三五町三反五畝二五分
畑屋敷九五町八反九畝一七歩
田畑屋敷合一三五町一反五畝七歩」とある。
寛文年間については屋敷水帳のみで人口構成については判然としないがさらに国志の村里部によると「高七百七拾三石八升四合、戸三百八拾四、口千六百六拾弐馬六拾」。「昔は本宿新宿ト云(今新町ナリ)」とあることから、百姓、町人など1,000人余りであったろうし当時の武将を加えても2,000内外の標準的城下町を形成していたものではなかったか。いずれにせよ下山にとり空前の繁華の状態を現出したであろうし、このため、町の建設には、あらゆる権力ともてる力を注入してことにあたったものと思われる。まず第一に城部とこれを中心にする館の建設及びこれを取りまく町人百姓の家屋敷などを始め、駿州往還を中心に、交通路及び宿駅の整備など、殷賑(いんしん)を極めたものと思われる。
  
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